目艮
夜22時に寝て、朝6時に起きることが日課となっていた。夜21:50頃から電波時計の前に張り付き22:00:00ぴったりに寝室にて目を閉じる。朝も5;50頃から時計を眺め始め、6:00:00のアラーム音が鳴り響かないように
ジッ・・・
と一瞬鳴り始めるタイミングでアラームをOFFにする。このように時間に関してこだわりが強くなったのは私が50歳の時に妻が亡くなったからであろう。それまでの私はえらく時間にルーズであり、出勤の時刻や私用で遊びに出掛ける際のスケジュール管理もすべて妻に任せていた。妻がうっかり失敗しようものならば、私は自分の事は棚に上げて妻にネチネチと文句を言っていたのだ。私の生活の煩わしい部分を助けてくれていた妻が急に亡くなり、突然家の事も含め全て私が一人で管理しなければならなくなったのだ。これまで任せていた分、人一倍ミスや遅れという失敗に敏感になってしまったようなのだ。
子供が独立して家を出ていき家事にも慣れ、しばらく経ってから定年退職を迎える。そして規則正しかった生活は多少乱れ始める。別に誰に迷惑をかけている訳でも無いというだらだらする免罪符。日中はもう働いておらずゴロゴロTVを見ているだけなので夜に眠くならず夜更かしをしてしまったり、出掛ける用事が無いからと昼食時に飲酒し、うつらうつらと昼寝をしてしまい、気づくと夕方近くになっているということの頻度も増えていった。
眠くなってから寝室に行くようにはしているのだが働いていないからか、年のせいなのか、生活リズムが崩れたからなのか、ベッドの上で眠れないという時間が確実に増えてきた。眠いと感じてベッドに入る。だがそこから1時間以上眠れない日が相当にある。日中に散歩のような軽い運動のようなものを取り入れてみたのだが大して効果は無く瞼の裏をじ~っと見つめる日が続く。
ふと。何気なく分かった事があった。
電気を消した真っ暗の部屋。瞼を閉じた方が少し明るいのだ。目を閉じると視界に頼らず脳内の映像が瞼の裏のスクリーンに映し出されて明るく感じるのだろうか?何も考えていない時であっても心なしか明るい。何か自分だけが秘密の何かに気づいたようで嬉しかった。特段、人に話す程の事ではないが夜な夜なその感覚を楽しめていた。
ある夜、布団に入ってからすでに2時間近く経過している。いつにもまして寝る事ができなかったのだが、遅寝遅起きとなったとて誰に迷惑をかける訳でもなく、ただ昔のだらしが無かった頃の自分に戻るだけである。明かりは落としているが視界は暗順応しており瞼を持ち上げてみると天井がくっきりと見えている。
「これは寝るまでに手こずりそうだな」
いつもの眠るルーティンを続ける。瞼を閉じ、眼球を上側に持っていく。息を吐き切ってから2秒息を止め、3秒吸い、4秒息を止め、5秒かけてゆっくり吐き出す…を繰り返す。自分的にはこれが一番心地が良い。懸念事や大過去を思い浮かべると大抵寝れない経験則がある。日中に見ていたTVや明日にどこに行こうか、何を買おうかなどのしょうもない事を考える。するとぼんやり瞼の裏に光景が浮かんでくるのでそこに飛び込み流れに任せる。
いつもであれば、そこまで没入できれば夢の世界に行け、気づけば一晩を越えているのだが…。その夜は一定以上の深さに潜れずに覚醒状態が続いていた。
「う~ん、もう3時かぁ。昼寝もしてなかったし、お酒もいつも通り。何か覚醒作用が強い物でも食べたっけなぁ。」
天井がバッチリ見えている。これは眠れる感じが全くしなかったのでいっそ起きて、録画しておいたTV番組の消化をしようかなと考え始め、最後にもう一度目を閉じる。いつもは自身を眠りに落とすために視線を上側に持っていくのだが、何の気無しに下側に持っていく。
…
何かがある。
瞼の裏側にあるものが見える訳が無いので、実際に存在する物では無いのだろう。だが確実に視認できる。しばらくそれに意識を向けている内に気づいた事。まず左目の下側(方位で言えば南南西)にある。右目だけ瞑って下側を確認してもそれは無い。
それは1つの眼球であった。
つまり目がある。目であると気づけばもう目にしか見えない。その目はこちらを見ている。瞬きや動きは全くない目ではあるが、それは絵に描いたように平面的ではなく球形で、誰かの目であると判る。首を動かしても、左目の下側にある目が追ってくる。驚きこそしたものの数分間目を合わせ続けても特に何が起こる訳でもない。意識がそれにしばらく向いたためか急激に眠気に襲われ、その日はそのまま眠る事ができた。
その日から毎日の眠るルーティンは様変わりした。その謎の目を見続ける事で眠気が襲ってくるのだ。平均1時間程はかかっていた眠りに落ちるまでの時間は10分程へと圧倒的に短縮された。
うん…
あれはきっと亡くなった妻の目だ。
だらしがない自分を死んだ後にも見守ってくれていたのだ。と言う事は四半世紀もの間、妻の視線に私は気づいていなかったのか。妻に見られているのだと考えるとここ数年でだらしがなくなった生活を改善しようと思えた。加えて、私自身が亡くなったとしても人生はそこで終わりではなく、近しい人物の中で生き続ける事ができるのかと死への漠然とした不安を解消する事ができた。輪廻転生や死後の世界といった噂レベルのものは信じていなかったが、俄然信憑性を増し、それにより睡眠の導入はより早くなっていった。
そのように考えていた矢先、私に脳腫瘍が見つかる。MRIで左目の後ろの下側にピンポン玉サイズの腫瘍が確認されたそうだ。高齢であることに加え手術の難易度がとても高いとの説明を受ける。ひとまず各種検査をし対応を決めるために入院をすることになった。
これは…どうなんだ?
ここ数年見えていたあの目は自身の脳腫瘍であったのか?しかしあのような確実な眼球の形をしているのも不思議な話だ。そして病室での夜を迎える。実は非常に怖かった。今夜瞼を閉じ、下側を確認すると何が存在するのだろう。いつも通りの無機質な目ではない何かが見える予感がしていた。
何とか視線を向けないように目を開けたままできるだけ視線を上側に持っていってから瞼を閉じる。そのまま、眠りに落ちてしまえば下側に何があるのかを見なくても済むのだ。
いつもルーティンを用意してまで快眠を心がけているということは、裏を返すと環境や枕、就寝時間が変わると実に脆い。この夜、当然のように2時間経っても、3時間経っても眠る事ができなかった。ただ眠れはしなかったが思考力は落ちてきていたのだろう。何気なしに
「別に瞼の裏に何かが見えるからってそれが何なんだ。」
妻の目だと思っていたものが単なる腫瘍であったと思うと急にバカバカしくなった。瞼を閉じた状態で視線を下側に移してしまった。
すると年は50歳ぐらいであろうか。顔中がシミだらけで鷲鼻の醜悪な男の顔があった。人生の中で会った事の無い知らない顔。その目には明らかに殺意が込められていた。
翌朝、脳腫瘍が破裂し息絶えた状態の私を、私は発見した。…死後の世界はあったらしい。