02
盛川の姓は、私にとって呪いのような物だ。
幅広い事業を手掛け、成功に成功を重ねてきた盛川財閥。長者番付にも載るような大金持ち……それが、私の生まれた家。
堅苦しくて、古臭くて、当主がどうだの跡継ぎがどうだの女は三歩後ろをどうだの、とにかく前時代的で吐き気のするような場所、というのが私の実家に対する印象だった。
私の父は当主だった。
父を見れば、盛川家とはこういう家なのだと分かる、お手本のような、そんな人だった。
父は母を愛していなかった。
跡継ぎを産む道具、盛川を更に繁栄させる為の道具。それが、父にとっての母だった。
母は私を産んだ後、父の浮気が発覚したことをきっかけに家を出て行った。
私も連れて行ってくれれば良かったのに、母は私を置いて行った。
父は私を愛していなかった。
跡継ぎを産む道具、盛川を更に繁栄させる為の道具。それが、父にとっての私だった。
私の衣食住、教育、交友関係、存在、その全てが盛川家の為であって私の為ではない。
私がこうしたいああしたいと願おうと、それが盛川家の利益にならないのであれば無下にされる。
いくら努力をしても、結果を出しても、それは当然のことで、認められることはない。
父には妾の子が居た。
その子供は、男だった。私より二つ下の子供の存在が明らかになった七歳の夏、突然現れた跡継ぎとなれる存在に、親戚が皆沸き立っていたのをよく覚えている。
母が出て行った後、父はその女と再婚した。
義母から漂うキツい香水の匂いが嫌いだった。
父は義母とその息子を愛していた。
父にとって義母は道具でなく、一人の人間で、大事な妻で。
父にとって息子は我が身を削ろうとも惜しくない、そんなかけがえのない存在。
そんな義母と義弟とは違い、私はどんどん要らない存在になっていった。
家に居場所が無くなった私は、外に居場所を求めた。
だけど、そんな物どこにも無かった。
盛川家の娘。
家に居ようが外に出ようが、そのレッテルは常に張り付いて来る。
誰も彼も私を“盛川”として見て、“盛川”として接し、“盛川”として利用する。
決して美希という人間単体を見てはくれない、求めてはくれない。
何度この姓のせいで裏切られてきたんだろう。
何度この姓のせいで危険な目にあってきたんだろう。
何度この姓のせいで失望してきたんだろう。
数え切れない。数える気力も無い。
学校では皆、私を好奇の目で見る。
文武両道で皆から慕われる生徒会長。
どうしたらあんな風になれるんだろう。
ああ、盛川家の娘なのか、それなら納得だ。
全部が嫌になって、私は初めて父に反抗した。家出をしてみたのだ。
高校一年生の、春のことだった。
一世一代の覚悟で家を飛び出したはいいものの、私はそのまま誘拐された。
いや、おかしいだろう。
神という存在が居るのならば、案外空気の読めない奴だ。
目的は案の定身代金。誘拐犯は私が盛川家の人間ということを知っていた。
だからこそ狙った。
結局は盛川だからだ。
私が盛川ではない、そこら辺を歩いている市民Aになれたのならば、誘拐されるようなことはなかっただろう。
父に怨みを持った人間に殺されかけたことはあれど、誘拐されたのは初めてで、流石の私も怖くて震えた。
だが、大人しく解放されるか死ぬかを待つ私ではない。
意外と隙の多かった誘拐犯を出し抜き、私は一人でなんとか逃げ出した。
何度かけても父が電話に出ず、誘拐犯が苛立ち、判断能力が鈍っていたのも勝因の一つだろう。
父から無駄だと言われても、身に付けた知識が役に立って、私はしてやったりと思った。
そんな気持ちも、すぐに萎んで消える。
誘拐犯からも、家からも自由になった私は、街を彷徨った。
今までずっと、家の言いなりだったから、自分の足で歩けるようになって、どうすればいいのか分からなくなった。
なんともまぁ、情けない話だった。
どこに行けばいいのか、どこに行きたいのかも分からず歩き、次第に雨が降って、それでもまだ私は行き先を見付けられていなかった。
ぐるぐるぐるぐる、迷ったように歩き続けて、やがて私は人気の無い路地裏に座り込んだ。
雨に濡れて寒くて、体が震えた。
家に縛られていないと何も出来ない自分が心底みっともなくて、悔しくて震えた。
自らを抱くように体を丸めて、目の前に形成される水溜まりに混ざってしまいたいと、そのまま溶けてしまいたいと、全てを諦めながら。
「ねぇ君、大丈夫?」
「…………」
女性の声が聞こえた。私は顔を上げるどころか、返事すらする気がなかった。
「見た感じ家出っぽいけど……なんでここで座ってるの?思い切り雨ざらしだよここ」
「…………」
「もしもーし、生きてるー?」
「…………」
「風邪引いちゃうよー」
「…………」
うんともすんとも言わない私に、声の主はしつこく話しかけてくる。
早く余所に行ってくれ、話しかけないでくれ、そう思いながら、私は女性の言葉を無視し続けた。
「君、どこにも行くところ無いの?」
「…………」
「ああ、ごめんごめん。見るからに無さそうだよね、変なこと聞いたな」
「…………」
「もう一回、変なこと聞いてもいい?」
「…………」
「うん、いいよね」
「…………」
「君、アタシの家に来ない?」
そこで、私は初めて顔を上げた。
綺麗な黒髪と、整った顔が嫌でも目に入った。
明らかに男物のジャケットを羽織ったその女性は、モデルなんじゃないかと思うぐらいにはスタイルが良くて。
カッコいい、なんて感想を抱きそうになったが、女性の頬に叩かれたような跡があって、何故か傘を差しておらず、びしょ濡れだった。
「何……言ってるんですか」
「困ってる女の子が居たら助けるのは当然ってやつだからね」
「…………」
普通、こんな人間に手を差し伸べたりしない。
見返りがあるのなら話は別だが、メリットが無いのにわざわざ面倒に巻き込まれるなんて、正気じゃない。
きっと何か裏がある。
誘拐犯の仲間かもしれない。
人身売買が目的かもしれない。
いや、それより可能性があるのは、私が盛川だからだ。
もしかしたら、この人は私が盛川だということを知っていて、盛川に近付く為に私に話しかけたのかも。
半ば被害妄想とも呼べる考えが頭に浮かぶ。
誰も、何も、信用出来なかった。
「君の名前は?」
不意にそう問われて、私の心臓がどくりと跳ねた。
つい驚いてしまって、僅かに口を開きながら目の前の女性の顔をじっと見つめる私の顔は、きっと間抜け面だったはずだ。
初対面の人間から名前を聞かれる。
当たり前のこと。
でもそれは、私にとって当たり前じゃなかった。
「……美希です」
私がそれだけ言うと、女性は満足そうに頷く。
そして羽織っていたジャケットを脱ぐと、ゆっくりと立ち上がった私に、そのジャケットをかけた。
ジャケットからは煙草の匂いがして、普段なら毛嫌いするはずのそれが、今は不思議と気にならなかった。
「行こっか」
まるでそれが自然とでも言うように手を繋がれて、そのまま引かれて歩いていく。
これが、柊木さんとの出会いだった。
以下プロフィール。
柊木明美
年齢・永遠の20歳(自称)
身長・172cm
職業、年齢不明の謎のお姉さん。
20歳を自称しているが実際は25、6程。
根っからの女好きで女誑し。
美希と出会った時に傘を差していなかったのは、女とバーで遊んでる時に前に遊んだ別の女と出くわし修羅場になり、ビンタされてそのまま傘を回収する間もなく追い立てられたから。
盛川美希
年齢・17歳
身長・163cm
生徒会長をしている高校3年生。
文武両道で家は超大金持ち、家事も完璧にこなせるハイスペック人間。真面目である。
義母のことは嫌いだが、義弟のことは嫌いではない。義弟も義弟で苦労していることも、義弟は父が嫌いということも知っているから。
父の義弟に対する思いが一方的なことにはざまぁみろと鼻で笑っている。