11
日本家屋の大豪邸。それが、私の実家。
リムジンから降りて、見慣れた大きな和製の門の前に立った途端、手が震えてきた。
二度と戻って堪るか。
そう思い飛び出した家に、私は今帰ってきたのだ。
義母の見下すような視線、親戚のひそひそ話、父の冷たい声。
その全てを思い出す。
「さぁ、行きましょう」
天美さんがそう言うと、門が自動で開いた。
古き良きを好んでいるくせに、こういうところは異様にハイテクだ。
天美さんに続き門をくぐると、目の前に広がるのは立派な日本庭園だ。
私達は母屋へと向かった。
何も変わっていなかった。
門も、人も、庭も、廊下に飾っている花瓶さえ、私が出て行った一年前、いや私がまだ幼い子供だった時から、この家は何も変わっていない。
ずっと同じ景色、ずっと同じ考え、ずっと同じ人間。
見慣れた父の部屋の襖を眺めた。やはりここも、変わっていない。
天美さんが父に声をかけると、中から父の返事が聞こえてくる。
「入ります」
そう言って、天美さんが襖を開けた。
そこには、着物姿の父が居た。
父はこちらに一瞥もくれず、書道をしていた。
何も変わらない屋敷の中で唯一の変化が、父の白髪の数が増えていたことだった。
「お前の縁談が決まった」
父はそれだけ言った。
淡々とした調子で。
勝手に家を飛び出した叱責も、肝心の縁談の内容も、今まで何をしていたのかの問答も無く、ただそれだけ。
耳鳴りがした。
この人にとって、私は、どこまでも。
「姉さん」
小声で天美さんに声をかけられる。
その視線は襖に向いていた。
「…………」
何も言わずに、部屋を出た。
天美さんが出てくる前に、塵一つ無く、綺麗に掃除された廊下を歩き始めた。
嫌なら、逃げればいい。
柊木さんの家に帰るんだ。そうすれば、どこの誰とも、顔すら知らない他人と縁談なんてしなくて済む。
一度逃げた家なのに、何故、私は逃げようとしていないんだろう。
父は私には無関心だ。また家出したところで……
『うちの優秀な者が、姉さんのことを監視してました』
ずっと私の行動を把握していたのに、どうして今になって天美さんを寄越したのだろうか。
いつまで経っても帰って来ない私に痺れを切らして?違う、そんなはずがない。
縁談が決まったからだ。私に利用価値が出来たから、私を使う必要があったから、それで。
相手はきっと父の友人か……何にせよ、盛川の為なのは間違いない。
この家に娘として生まれた私にしか、出来ないこと。
『ミキちゃんが生まれた家がどこだって、それは変わらないよ』
そんな言葉を思い出す自分に腹が立つ。
もしも私が逆らったら。
今回ばかりは、父も機嫌を損ねるだろう。
そうしたら、柊木さんがどうなるのか。
……迷惑をかけるのは、間違いない。
私はかつての自室へ、戻って来た。
使っていた勉強机も、本棚も、その中身も、残した荷物は全て消えていて、部屋の隅にポツンと畳まれた布団が置いてある以外、何も無かった。
時計一つ無い、静寂に包まれた殺風景な部屋。
(帰っちゃ、ダメだ)
そう頭では思っているのに、心の中に浮かぶのは柊木さんと過ごした日々。
恋しくて恋しくて仕方がない。
アパートを飛びなさなければ、と後悔するが、きっと父ならあのアパートにも人を寄越すだろう。
そうしたら、私はどうしていたんだろうか。
断っていただろうか、拒絶していただろうか。
柊木さんとずっとずっと一緒に居たいと、言えていただろうか。
いや、きっと私は逆らえない。
だって私の意思はその程度だから。
部屋の中心で、何をすればいいのか分からず立ち尽くしていると、部屋の襖が開いた。
天美さんは私の部屋を苦笑しながら見回す。
「……母の仕業でしょうね。すみません」
きっと天美さんは何も関与していないだろうに、申し訳なさそうに謝ってくる。
私は気にしないでくれという気持ちを込めて、首を横に振った。
どうせ、大切な物は何も無かった。
それに義母の考えも、分かるのだ。
心底憎いだろう、邪魔だろう、前妻の娘の存在が。義母は父を愛しているのだから、尚更。
「天美さんは、何をしにこの部屋へ?」
わざわざ私の部屋のことを謝りに、なんてことは考えられなくて、私はそう聞いた。
「縁談相手について知らせようと思いまして……父も酷い人だ。姉さんにとって重要なことを、あれだけで済ませてしまうなんて」
「…………」
相手だなんて、考えたくもない。
それでも、知らなければ、理解しなければ、結婚した後に役立てる為に、と思ってしまう私は、どこまで行っても鳥籠の中から出られないんだろう。
いや、出る気がないのかもしれない。
所詮何かに縋っていないと、支えられていないと何も考えられない傀儡なのだ。
そんなこと、途方に暮れていたあの日に分かっていたはずなのに。
だから、天美さんが相手のことについて話していく間、私は大人しくそれを聞いていた。
「大口取引先の社長が父の古くからの友人でして……今年で十八になるその息子が写真を見て、姉さんのことを気に入ったらしいのです。それに加えて学校で様子なども聞いて……器量の良い娘だと。僕も話したことがありますが、清廉潔白の言葉が似合う好青年でしたよ。僕程ではありませんが、見目も悪くない。まぁ、彼と結婚すれば、苦労はしないでしょう」
そう言って青年の写真を天美さんから見せられても、私は何の感情も感じなかった。感じることをやめていた。
天美さんが部屋を去って、一人になった後、私は部屋の隅に座って天井を見て過ごした。
使用人が夕飯が出来たと知らせに来るまで、そうしていた。
久しぶりの豪勢な食事、広々とした綺麗な風呂。
食事は酷く味気なかった。まるで土を噛んでいるようだった。
風呂は酷く寒々としていた。暖かい湯に浸かっても悪寒が拭いきれなかった。
布団に入っても、眠れなかった。
目が覚めてしまって、眠気の欠片も無くて、私はまた天井を見ていた。
(つかれた)
考えるな。
(柊木さん、何してるかな)
考えるな。
(ご飯、ちゃんと食べたかな)
考えるな。
(心配、かけちゃったかな)
考えるな。
何度も何度もそう思っているのに、考えることを止められない。
「……つかれた」
そう呟いて、寝返りを打った。
早く寝てしまおうと、目を固く閉じる。
私はずっと、私じゃない私として生きてきた。
それが当たり前だから、だからこの一年間は、ただのイレギュラーだ。
元に戻るだけ。ただそれだけ。
ふっと息を吐き出す。
やはり、眠気が訪れる気配は無かった。
何時間もそうしてきた気がする。
私の耳にふと、床が軋むような音が届いた。
人の足音のようだったが、一歩一歩、なるべく音を立てないよう歩いているらしい。
これは妙だと思い、体を起こす。
この家の住民であれば、足音を忍ばせる必要は無いだろう。
勿論、ドタバタと歩くのは別として、普通に歩く分には責める者は居ないはず。
だがこの足音の主は、それすらも隠そうとしている。
家の人間を起こしに行くべきか迷っているところ、足音は私の部屋の前で止まった。
そして、襖が僅かに開いた。
「っ……!」
不審者の可能性が頭を過り、私は身構える。
だがその警戒心は、次の瞬間跡形も無くなった。
「……ミキちゃん?」
私のことをそう呼ぶのは、一人しか居ない。
「柊木さん……?」
襖が更に開く。
そこには、柊木さんが居た。
いつになく真剣で、そして泣きそうな顔だった。
驚きで声が出ない私に、柊木さんは近付く。
(なん、で……?)
どうして、なんで、どうやって。
ここに居るんだろうか。
柊木さんの香りがする。
気付けば私は柊木さんに抱き締められていた。
まるで逃がさないとでも言うように、少し苦しいぐらい力強く。
檻みたいな腕の中。
視界が滲む。
私は柊木さんの胸に顔を埋めた。
冷え冷えとした気持ちも、心に詰まった暗鬱な塊も、柊木さんを見た瞬間消えてしまう。
そのまましばらく、柊木さんの鼓動を聞いていた。
以下プロフィール
柊木明美
年齢・永遠の20歳(自称)
身長・172cm
職業、年齢不明の謎のお姉さん。
20歳を自称しているが実際は25、6程。
根っからの女好きで女誑し。
岩津に頼んで情報を集めてもらって、ミキちゃんが家に戻ったらしいことを聞きつけ、カチコミ(ステルス)しに来た。
警備員数名と出くわしたかもしれないが、今まで食べた食パンの数を覚えていないみたいなノリで覚えていない。
盛川美希
年齢・17歳
身長・163cm
生徒会長をしている高校3年生。
文武両道で家は超大金持ち、家事も完璧にこなせるハイスペック人間。真面目である。
現在進行形で拗らせてる。
久しぶりに義母の嫌がらせを身に受けて胃袋が収縮した。胃薬が欲しい。
柊木さんのことが好きで困っている。
盛川天美
年齢・15歳
身長・177cm
成績優秀容姿端麗ある意味問題児な高校1年生。
盛川美希の腹違いの弟。
姉とは違い、盛川に生まれた自分を誇っている。
父母の姉に対する接し方に頭を抱えているが、その様子をおくびにも出していない。
父のことは人間として合わない為嫌い。
盛川天弥
年齢・56歳
身長・174cm
美希と天美の実父。
超絶名家な盛川の当主で、何よりもまず盛川のことを第一に考える人。
厳格そうな雰囲気をしているが、現在の妻は愛人だった上に、まだ娘が幼い頃にその愛人と子供を作っている。
娘には無関心だが、息子のことはちゃんと愛している。
前妻とはお見合いで結婚した。