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目が覚めて、貴女の白い肌を見て、昨夜起こったことは夢ではなかったことを理解した。
寝起きのはずなのに、妙に頭がはっきりしていて、貴女の温もりと香りに包まれているのに、不思議と冷静だった。
昨日の土砂降りが嘘のように晴れていて、雀の鳴き声が聞こえてくる。
なんだか白昼夢のようだが、布団の下の剥き出しの肌が、やはりあれは現実なのだと語る。
(これは、どういうことなんだろう)
私は柊木さんが好きだ。
でも柊木さんはきっとそうじゃない。
そう思っていた。
『好きだよ、ミキちゃん……大好き』
あの絞り出すような声が、いつもの冗談とはとても思えない。
でも相手は柊木さんだから、他の女の人にも同じことをやっているんじゃないか、という可能性を考えてしまう。
手首に残った柊木さんの爪の跡も、首に残された、血が滲む程深い噛み跡も、柊木さんにとっては“いつものこと”なんだろうか。
分からない、分からなくて、とても不安なのに、私はどうしても幸せを感じてしまっているし、両想いを期待してしまう。
前はこんなのじゃなかったのに。
どんどんわがままになっていく。
柊木さんを起こさないように布団から出ると、クローゼットから服を取り出して着替える。
床に落ちた服を拾って、洗濯機に入れる。
それら全てが終わった頃、柊木さんが目を覚ました。
私を見て、布団の中を覗いて、そしてまた私を見た柊木さんの顔には、動揺がそのまま浮き出ていて、顔色も悪かった。
私は何も言わず、丁度淹れたばかりのコーヒーを柊木さんに差し出した。
「あ、ありがとう……」
コーヒーを受け取った柊木さんは、コクコクと喉を鳴らして飲んでいる。
熱々のコーヒーを飲んでいるとは思えない速度だ。火傷しないか心配だったが、何かを言う勇気が出ない。
まだ、はっきりさせたくなかった。
はっきりさせるのが、怖かった。
「ね、ねぇ、ミキちゃん……昨日、アタシ……何か……しちゃってるよね……?」
でもその時はすぐに訪れた。
はっきりと答えるか、それとも誤魔化そうか。
……嘘は、つけない。
「もし覚えているのなら……それは、夢じゃないですよ」
そう言って、首の噛み跡を刻み付けた張本人に見せる。
柊木さんは口をポカンと開けて、呆然とそれを見ていた。
しばしの沈黙。
私の心臓は、張り裂けるのではないかという程跳ねている。
「青少年保護育成条例違反……!!」
柊木さんは、頭を抱えながらそう言った。
己の過ちを悔いるような声だった。
曖昧な苦味と、はっきりとした吐き気が胸に広がった。
(間違いだったんだ)
そんなつもりはなくて、ただ酒の勢いで起こってしまった間違い。
あんなに酔っていたんだ、おかしくない。
むしろそれしか考えられない。
なのになんで、あんな期待をしてしまったんだろう。
私はただ微笑むことしか出来なかった。
その微笑みは、自分でもどこかぎこちなくて、いつも学校で付けている仮面の完成度には遠く及ばない。
柊木さんも気付いているようで、気まずそうだったが、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
私は黙ってトーストを二人分用意した。
そしてそれを柊木さんと黙って食べた。
何時間か後になって、柊木さんが「コンビニに言ってくる」と言うまで、会話は一切なかった。
一人になって、私は最低限の荷物を鞄に詰め込み、アパートから出ていった。
柊木さんのことは相変わらず好きだった。その気持ちはほんの僅かにも変わっていなかった。
ただ、本当にただ、今は柊木さんの顔を見るのが辛かった。
◇◇◇◇
日が沈み初めてから、やはり自分は子供なんだと自覚する。
どこにも行く場所が無かった。
どこにも行く場所が無かった状態を柊木さんに助けてもらったのに、その柊木さんから離れれば、やはり私の居場所など無いのだ。
子供なのだ、私は。愚かとしか言いようがない程、短絡的な子供だ。
この一年で、何も変わっていない。
全く同じことを繰り返している。
なんだか疲れてしまって、私はその場でしゃがみ込む。
大通りで、人がたくさん居た。
私に声をかける人は、一人も居なかった。
もしここに柊木さんが居たらどうするんだろう。
柊木さんが居て、私みたいに道端で蹲っている子が居たら、きっとあの人は、自分がどんなに面倒でも手を差し伸べる。
そういう人だ。だから、何も、一人じゃなくて、特別じゃなくて、だから、それで、ああ、分かっていたのに、どうしたんだ、本当に。
私じゃないと分かっていたはずなのに、それを受け入れていたはずなのに、勝手に期待をして勝手に裏切られた気になっている。
これ程惨めなことはない。
みっともなくて、涙すら出ない。
帰って来た柊木さんは、誰も居ない部屋を見てどう思うだろうか。
心配をかけてしまう。あの人は優しい人だから、赤の他人の私のことも心配してくれる。
疲れた。
そう口にしたのに、声は音になっていなかった。
ただガヤガヤとした喧騒と、私を避けて歩く人の足音が聞こえただけだった。
「何をやっているんですか、貴女は」
声が聞こえた。
柊木さんの物ではない、男の呆れた声。
誰なのか、顔を上げなくても一瞬で分かってしまった。
そして何も聞かなくても、終わりなんだということを察してしまった。
しばらくして顔を上げると、声の主の後ろ姿が目に入った。
何も言われなかったけど、付いて行かなければならないことは分かっていた。
見れば黒いリムジンが道路に停まっている。
あれか、という予想通り声の主はその車に乗り込んだ。私も、後に続いた。
私が席に座ると、その瞬間車は走り出す。
今、車内には私と運転手と、声の主しか居ない。
「……随分と、久しぶりですね」
「ええ、貴女が家を出ていってしまいましたから。一年程前でしたよね」
声の主は、高校生だった。
ブレザーの制服を着て、足を組んで座っている。
その姿には堂々とした物があり、誰が見たって只者ではないのが分かるだろう。
その青年は足だけでなく、腕まで組んで、私のことを興味深そうに見ている。
「無事で良かったです。“姉さん”」
彼の名前は、盛川天美。
私の腹違いの弟だった。
「無事で良かったとは言っても、当然ですね。うちの優秀な者が、姉さんのことを監視してましたから。何かがあれば……いえ、何かが起こる前に、対処してくれていたはずです」
「何が目的で、そんなことを……」
「まぁそう警戒しないでください。僕は貴女の大嫌いな父とは違うのだから。純然たる好意ですよ」
私はこの弟のことが、決して嫌いではなかった。
だが、苦手ではあった。
私と弟の考えには、相容れない部分がある。
「貴女は僕の姉……それに加え、立派な“盛川”の一員だ。守りたい、力になりたいと思うのは、当然でしょう」
ああ、これだ。
私と違い、弟は盛川の家に生まれたことを、コンプレックスと思っていない。それどころが、誇りと感じている。
燦々と輝く太陽のように胸を張る弟が、家の中心人物になればなる程、異端者である私の居場所は無くなる。
きっと苦手だと思ってしまうのは、嫉妬心も混ざっている。ただ、嫌いにはなれないのだ。
「天美さんには、分からないのでしょうね」
評価される度、盛川の名が付き纏うことの煩わしさも、時にはそれで全てが変わるあの悔しさも。
むしろ喜んで受け入れそうだ。
「……姉さん、貴女は僕を勘違いしている」
だが、何を勘違いしているのかは教えてくれなかった。
腹の底が読めないのも、弟の特徴だ。
「……どこに……向かっているんですか?」
答えの分かりきった質問を、私は弟に投げ掛ける。
きっと、私が答えを知っているのに気付いていながらも、弟は答えてくれた。
「家ですよ……姉さんにとっては、久しぶりの我が家です」
それ以上、互いに口を開くこともせずに、ただ車に乗っていた。
柊木さんの笑顔が一瞬頭に浮かんで、そして消えた。
以下プロフィール。
柊木明美
年齢・永遠の20歳(自称)
身長・172cm
職業、年齢不明の謎のお姉さん。
20歳を自称しているが実際は25、6程。
根っからの女好きで女誑し。
コンビニから帰ったらミキちゃんが居なかった。
パニクって岩津にことの顛末を全て話して駆け付けてもらった。
ミキちゃんが柊木に向けている感情になんとなく気付いていた岩津に「思春期ナメんな!!!」と殴られた。
頬が痛いがそれは置いといてミキちゃんが心配。
盛川美希
年齢・17歳
身長・163cm
生徒会長をしている高校3年生。
文武両道で家は超大金持ち、家事も完璧にこなせるハイスペック人間。真面目である。
複雑なお年頃。
初めて天美と顔を合わせた時に天美の命を助けたことがあるが、それを本人はあまり覚えていない。
盛川天美
年齢・15歳
身長・177cm
成績優秀容姿端麗ある意味問題児な高校1年生。
盛川美希の腹違いの弟。
姉とは違い、盛川に生まれた自分を誇っている。
とある理由で激しい運動が出来ない。
自分の顔の良さも優秀さも自覚している。
姉のことは結構好き。
2話で義弟って書いたけど血が繋がってたら義弟じゃないのでは……(自戒)