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この世界には二つの世界がある。人間が生きる世界、『人界』と魔物が生きる世界、『魔界』は表裏一体となっており、いつの世も争いが絶えなかった。
そしていつしか人界には勇者という存在が、魔界には魔王という存在が生まれ、世界を賭けた戦争が行われるようになった。それは両者の命が続く限り、魂が生き続ける限り絶えることはない。
勇者と魔王。二人は永遠に避けられない因果律で生まれ続けるのだ。
勇者と魔王の関係はこの世界で脈々と続いている歴史である。幼い頃から聞かされてきたこの言葉に灰色の瞳を持つアリーシュはあまり他人事にはなれなかった。他人事にしたかったが、それにはこの家から絶縁されるか生まれ変わって人生をやり直すしかない。しかしアリーシュは自分の家も両親も好きだし、死を選ぶほどこの世を儚んでいなかったので転生ものは回避していた。
さて、何故勇者と魔王の関係を先に伝えたかったかというと、この世界は魔王によって脅かされている!という事態ではない。ただ、魔王の支配と勇者の治世を繰り返しているからである。そしてアリーシュはその勇者の血を引く、遠い一族、末端であった家に生まれた。
さらに今は勇者の治世で穏やかな世界になっており、平和な世界の中でアリーシュはすくすくと成長していく、はずだった。
「お嬢様、お手紙が届いておりますよ」
アリーシュ、十三歳の誕生日に届いた手紙は簡潔に告げた。
『魔王復活の兆しあり』と。
「父様、今夜はわたしの誕生日でしたよね」
歴代勇者が治める国ルーズシェンテ。
その王都ユールの中央に位置する王殿内、大広間で開かれるパーティーにアリーシュは父親と出席していた。父親は酒を好まないので娘と同じジュースを飲みながら目を細めて頷く。
「そうだねぇ。魔王復活の兆しに巫女殿が気づかなければ、今頃は義母さん特製のケーキを皆で突いていただろうねぇ」
「何故、よりによって、わたしの誕生日をここで過ごさなければならないのですか」
一般的に貴族の女性というものは煌びやかなパーティーに心躍り、美しいドレスに身を包んで己の魅力を自慢し見せつけることを好んでいる。しかし一般的と先に言ったのはこの十三歳になったばかりのアリーシュがその枠に当てはまらないからであった。そんなアリーシュのことを他の一族のお嬢様方は存じ上げていないほどにアリーシュはパーティーを出席してこなかったし、何故パーティーなんかに出席しなくてはいけないのか理解したくないと豪語するほどに嫌いである。嫌いであるからこそ今までどんな招待状も首を縦に振ってこなかったのに、今まで魔王に対して何も抱いていなかった感情が好ましくない方向へ偏り始めている。
(おのれ魔王。何故ひっそりと過ごせないのか)
眉をしかめてアリーシュはちびちびとジュースを飲み進める。普段着慣れない優美なドレスは食事に適さないのだ。一方父親のグウェンはその細い体のどこに入っていくのか黙々とパーティー料理を嗜んでいた。そもそもアリーシュはパーティー料理の匂いでお腹いっぱいなわけで、グウェンによる教育でそれほど食事に対して執着がなかった。
アリーシュの執着は食欲に割かれていないのだから。
「これも勉強だよ、アリーシュ。この程度の雑事をこなせないようではお前の求めるものには程遠い」
「………父様はよろしかったのですか。都は苦手だと言っていたではありませんか」
「苦手だよ。けれど娘一人をパーティーに行かせるほど薄情でもないんだ。……義母さんにも、陛下にもわかってもらえないけれどね」
「お祖母様はともかく、エインリ陛下にも!………父様、嫌われているのですか?」
「違うよぅ。こういうパーティーにいるとさ、ほら、勘違いされるから」
アリーシュは童顔で、尚且つ整った顔立ちの父親を見上げる。第三者から見ればこの男を有料物件とみなして言い寄る女性もいるのだと敬愛する祖母に教えてもらったことがある。しかしその正体は見栄えのしない地位を持った子持ちの未亡人であった。
アリーシュの母親の名前をアーデルハイトという。ルーズシェンテ王国、現王陛下エインリの従妹にあたる母はアリーシュを産んで間もなく亡くなったそうだ。だからアリーシュは育ててくれた祖母、つまりエインリの姉エルデリンドを母のように慕い、敬っている。父であるグウェンも義母にあたるエルデリンドに頭が上がらないし、わが家の実権はエルデリンドにあるようなものだ。アリーシュのドレスを仕立てたのも、グウェンを着飾ったのもエルデリンドの腕によるものだった。
(お祖母様は行かれないのですか?)
パーティーの招待状を片手にアリーシュが尋ねると祖母は凛とした口調で。
(私にはこの家を守る義務があります。それに私が顔を出したところで余計な話題になるだけでしょう)
ですから私の代わりにきちんとご挨拶してきなさい。祖母はそう言ってアリーシュたちを送り出したのだった。
(お祖母様は権力争いを過去に経験されている)
アリーシュが生まれる前、エルデリンドは先代の王陛下に絶縁された。理由は後継者争いとされており、詳しい話は当人であるエルデリンドは何も言わない。不思議に思って調べてみると当時後継者候補のエインリとエルデリンドが直接的に競っていたわけではなく、双方の派閥貴族が激しく対立していたのだった。
本人であるエインリとエルデリンドを置いて。
(だからお祖母様は弟のエインリ陛下に後継権を譲って、田舎の領地に引っ込んだ)
先代王も娘のエルデリンドを憎んで絶縁したわけではないのだろう。これは推測だが、エルデリンド自身が絶縁されるのを望んだのではないだろうか。派閥貴族を黙らせ、絶対に争いを振り返さないために。
アリーシュの敬愛する祖母はそういう人だ。
「……父様。そろそろ陛下へご挨拶に向かえそうです」
「やっと私達の順番か。陛下に挨拶したら我が家に帰還しよう」
現国王陛下、エインリ陛下へ拝謁する人数が減ってきたところでグウェンはぐっと一気にジュースを飲み干し、グラスを城内のメイドに渡してアリーシュを導く。アリーシュはようやく帰る気配が見えて、ほっと息をついた。
王都からさっさと自分の家に帰還したいアリーシュはエインリ陛下の言葉を思い出していた。
『我が娘、ゼアトリーチェの茶会に参加するがいい。ゼアトリーチェは友人が少なくてな、話し相手になってくれると喜ぶ』
そんな晴れやかな笑顔と共に発せられた王命によってアリーシュは王城内にある一つの庭園でゼアトリーチェ主催の茶会の一席を埋めるべく出席したはずなのに、何故か王女殿下の有する衣装部屋に控えている。
適当に参加して適当なタイミングで退席する。そのつもりだったのだ。
「………ゼアトリーチェ王女殿下」
「あら、なぁに?アリー」
ニコニコと愛おしそうにアリーシュの髪を梳かしながら王女、ゼアトリーチェは微笑んだ。既に愛称で呼ばれているのは構わない、相手は王家直系の尊い存在なのだ。だがアリーシュは一つどうしても解せないことがあった。
「茶会は、放っておいてよろしいのですか?」
そう。王女主催の茶会を王女自身が放棄しているのだ。茶会はさすがは王女主催の規模と言って過言ではないもので、美しく整えられた薔薇の咲き誇る庭園に負けない権力者たちの煌びやかな少年少女が王女を褒め称え、話を咲かせていた。
ゼアトリーチェは髪と瞳は王妃に、その顔立ちはエインリ陛下似のようで、鮮やかな美貌の少女である。ふわりとした艶やかな真紅の髪に深緑の瞳は彼女自身が美しく咲き誇る薔薇を思わせる。この美貌を拝むために足を運んだ貴族もいるという話を聞いていたアリーシュは自分のことなど眼中にないと思い、ひっそりと木陰に馴染んでいた。
しかしそんな状況がアリーシュに許されることはなかった。咲き誇る大輪の薔薇に余計な雑草は必要ないのだ。
エインリ陛下に直接茶会を招待されたという事実をどこからか見ていた令嬢たちはアリーシュを逃さないように囲み始めた。
低い身分で、それも平凡な容貌のアリーシュは何やら嫌な予感がした。というか嫌な予感しか抱いていなかった。
「あなた、リーンシュタルト家の令嬢ではなくて?」
「あのリーンシュタルト家の色無しでしょう?」
「その証拠に、ほら、その灰色の目。無属性の色無しはみんなその目を持って生まれるわ」
「かわいそう!わたくしたちのように魔術が使えないなんて……きっと不便な生活を送ってらっしゃるのでしょう?」
勇者の家系に連なるものは魔力を生まれながらに有している。様々な属性を示すように髪や瞳はその力の色を持って魔力持ち、魔術師は生まれるのだ。
色が濃いほどその魔力の質や量は大きい。だから別名を色持ち、または色が弱いものを色無しとも呼んだ。
アリーシュの有する色は、灰色。白に近いそれをいつしか色無しと呼び、最弱の存在として認知されている。魔術を満足に扱えない、『勇者の出来損ない』と。
優れた勇者は魔術に長けており、魔術耐性が強い。それは魔王と戦い続けた証なのだという。魔王の魔力を浴びながら勇敢に抗い、克服した実力の末に勇者は魔王と同等の魔術を扱えるようになったのだ。
だから魔力の色が個人の優劣を決めると定められているような風潮がある。他家の令嬢たちが、アリーシュを見下していることがいい証拠だろう。
生まれてきてからわずか十三の年月を重ねただけのアリーシュだが、このような扱いを受けるのは初めてではない。己の価値は自分が一番身に染みているし、歯がゆい思いをしなかったわけではない。
だが。
「そうですね。あなたがたが仰るように、不便なことは多いです。ですが、それを苦労だとは思いませんが」
「………何ですって?」
「言葉の通りです。あなたがたの仰る苦労と、わたしの価値観は違うものです。ご一緒にしないでいただきたい」
「それは、わたくしたちを見下しているの!?」
見下すような発言を始めたのはそちらだろうにとアリーシュは目を伏せる。その、年齢に似合わない大人びたアリーシュの眼差しが令嬢たちの自尊心を傷つけたのだろう。アリーシュは令嬢の一人がこちらにグラスを向けるところを察しながら、動くことはない。このままグラスに入ったジュースでドレスを汚されてこの茶会の席を退場できればそれでいい。
「あら、楽しんでいるようね」
澄み切った水面のような声が、静かに会場の空気を変えた。
ぽたぽたとジュースを滴らせながらアリーシュは呆気に目を瞬かせる。声の主が令嬢たちに道を譲らせてアリーシュの目の前に現れるとニコリと微笑んで見せた。
「アリーシュ・リーンシュタルト嬢。私と一緒に来てくださる?」
「……承知いたしました」
「あ、あの、王女殿下……その令嬢とはあまり関わらないほうがよろしいですわ」
他家の令嬢がそう言うと声の主、ゼアトリーチェは目を細めて冷ややかに、それでいて鮮やかに微笑んだ。
「私が誰と関わるか、それはあなたが決めることかしら?」
「ひ……っ!?い、いいえ!滅相もございませんわ!!」
「じゃあ私はこの子と席を外します。……あとはお願いね」
「はっ」
ゼアトリーチェが控えていた執事にそう言ってアリーシュに向き直る。その表情は柔らかく優しさに満ちていた。
「リーンシュタルト嬢、おいでなさい。ドレスを着替えてしまわないとね」
ゼアトリーチェは勇者の直系血族にして唯一の王女殿下として有名である。その薔薇のような美貌と魔力の質を見れば、誰もが彼女を羨んだし、憧れた。
ただ唯一、欠点があるとするならば。
「王女殿下、茶会は無事終了いたしました」
王殿内、王女の間で。
ゼアトリーチェは丁寧にジュースの染み込んだドレスを畳んでクローゼットにしまいこむ。ドレスの主である少女はゼアトリーチェの選んだドレスを着付けられると長期間の滞在を丁重に辞して帰って行った。
ゼアトリーチェは「そう」と言って報告する執事に向き直る。
「アリーはきちんと帰れたかしら?」
「リーンシュタルト嬢は他家の貴族に出会うことなく帰還されました。厄介な事案に、巻き込まれることなく」
「茶会でアリーをいじめていた令嬢は?」
「終始気まずそうにしておりました。その後、王女殿下がお戻りになるのはいつなのかと私に尋ねられてました」
「お前はどう答えたの?」
「お戻りにならないでしょう、と」
「言い付け通りに言えたのね?」
「本当のことを言っておけ、とのご命令でしたので」
「そうね。そうだったわね。うふふ、だからお前のことを気に入っているわ、アズー」
「恐縮です」
「………アリーをどう思う?アズー」
「大人びた令嬢ですね。色無しやら血筋を無視するのなら、非常に好印象を受けます。王女殿下がお気に召す、その価値はわかりませんが」
「そう。まあ、わからないでしょうね、普通は」
くすくすと小さく笑うゼアトリーチェが、本当に嬉しそうに楽しそうに笑うので執事のアズーは首を傾げる。
「一緒にアリーの誕生日を祝いたかったのよ。お父様にパーティーの開催日を聞いた時は申し訳ないけれど、利用しようと思ったわ。だって、こうでもしないとあの子と私は接触できないだろうし」
「………何故、そこまで?」
アズーにはわからない。執事でしかない彼はゼアトリーチェの意志に従うだけだから、今後の仕事をより良いものにするために主人の意向を聞く必要がある。
ゼアトリーチェはあまり使用人を雇わない。王女だというのに側に置く侍女は一人もいないし、積極的に友人関係を築かない。本当に必要な時にだけ、一時的にだけ、彼女は信用できる人材を選ぶのだ。
「アズー。私は自分の意志を重要視している、わがままな人間よ。だから茶会を開くこともお父様に相談する前に準備したし、お父様にパーティーでアリーに出席するようにお願いしたの。その理由は、私がアリーを普通ではないことを知っているから」
「普通ではない、ですか」
それは色無しと見下されていること、ではないのだろうとアズーは考えた。しかしゼアトリーチェはそれだけで、それ以上のことは言わない。
そんな主人に、まだ自分はそれ以上のことを教えるに値しない人間だからだと執事は思った。
「つ、疲れた」
アリーシュは王殿から出て、自宅に帰るまで気詰まり状態でいた。なので帰るべき屋敷が見えて、馬車から降りた瞬間に足から崩れ落ちそうになったが、踏ん張って歩いた。
(王女殿下………しつこい方だったというか、面倒な方だったな)
自分が主催した茶会を放棄したかと思ったら、アリーシュにドレスを選び、貸し与えて身なりを整えた途端に「お茶会をやり直しましょう」と言い出すのでアリーシュは必死に頭をフル回転に稼働し、何とかその場を逃れた。
アリーシュは王女殿下に初めて出会ったが、ゼアトリーチェという人間の本質を見抜いている。それはアリーシュが持つ唯一の武器が告げているのだ。
「アリーシュ、お帰りなさい。早かったのですね」
「お祖母様!」
屋敷の使用人に知らせを受けたのだろう。玄関から二階にあがるための階段から祖母のエルデリンドが降りてきた。
その手はアリーシュの父、グウェンの耳を引っ付かんで無理やり歩かせている。グウェンの手にはアリーシュの誕生日ケーキが一切れあった。
(この父という男は娘の誕生日ケーキを勝手に食べたのか)
瞬時に状況を察したアリーシュは半眼となって父をねめつけた。
食べ物の恨みは恐いのだ。アリーシュはその教えを実感しながらも、とりあえずその教えを説いた父からケーキを取り上げた。
「そうですか。ゼアトリーチェにそのように救って頂いたのですね」
紅茶を飲み終えてから祖母は少し考えて、アリーシュに便箋を渡した。アリーシュは首を傾げて、隣に座る父グウェンは両手首を縄で縛られている(祖母と娘の合作)。
「感謝の手紙をお出しして、ゼアトリーチェ王女と親睦を深めなさい。恐らく、それが最善でしょう」
「お祖母様は、ゼアトリーチェ王女殿下をご存知なんですか?」
「直接出会ったことはないわ。けれど、グウェンが情報を集めていたし、エインリ、……陛下が手紙で知らせていたから」
「義母さん、陛下と仲良しだからあいたたたた」
「グウェン、お前はその悪い口を少しは閉じなさい。重要な情報を話し、娘の誕生日ケーキを先に食べようとするその唇は許しがたいですよ」
「あい、あい、わかりまひた。手、手を離してくらはい。義母さんの手、手癖も悪い」
「おや?身の程をわきまえてもいないのでしょうか?」
「いたいいたいいたいいたい!!」
「お祖母様、手紙を書くのはいいと思いますけど、わたしごときの手紙が王女殿下に届くかは………」
「大丈夫ですよ」
祖母は小さく微笑んだ。
「グウェンが、あなたの父が責任を持って届けましょう」
「え。義母さん、僕何も言ってない、」
「娘を王都に置いて娘の誕生日ケーキを勝手に食べた父、グウェンがすぐに届けましょう」
「あ、はい。届けます」
こうしてアリーシュはゼアトリーチェに手紙を書くことになった。茶会を台無しにしたこと、ドレスを貸してくれたこと、短い滞在で失礼したことを申しわかなかったこと、感謝と詫びを込めて書いた手紙は父が預ける。父のグウェンは手紙をゼアトリーチェ王女に手紙を届けるべく奔走しているので領主の仕事ができないと嘆いたらしいが、もともとそれは祖母がほぼこなしているものだ。問題はないだろう。
適材適所という言葉を、アリーシュは教えられている。
相応しい場所と能力を見極め、行動できるように育てられたアリーシュが今、必要とされているのはきっとゼアトリーチェ王女の信頼を得ることなのだとアリーシュは思った。