09:スペツィエ様の本心
本名で彼に呼ばれることなんて今までなかったので、私ははしたなくも、思わず「は?」と声を漏らしてしまった。
コリアンダー・シモントロ。これが私のフルネームである。
大抵は皆が家名で呼んでくるし、スペツィエ様に関しては「アン」と呼ばれるのが普通だった。
だから私をコリアンダーと呼ぶのは、両親など本当に一握りの人間だけ。
もしかすると、突然現れた私に怒っている?
そうとしか考えられなかった。だって、彼の声は若干震えて聞こえたから。
私は失敗してしまったのかも知れない。突撃するのは間違いだったのではないだろうか。
不安が湧いてきて、私は次の言葉が恐ろしくてたまらなくなった。
「出ていけ」と言われるかも知れない。いいやきっとそう――。
「――君がどうして、コリアンダーを持っている?」
しかし彼が言ったのは、予想外もいいところな言葉だった。
彼が見つめているものは私ではなく、手にする胡荽の粉末。
白透明の袋に入っているから、中身がぼんやりと見えるのだ。……でもどうして? 私は理解できず、硬直することしかできなかった。
「渡してくれ」
私の疑問など無視して、スペツィエ様が袋を奪った。
そしてまじまじとそれを眺め、鼻を近づけて――言う。
「やっぱり、コリアンダーだ。……はっ。そうだ、そんなことより。君はアンか? アンが何故?」
今更な質問。
でも私の方も頭が大混乱中で、まともに答える余裕などなかった。
ただ一人、スター・アニス嬢だけが、状況から取り残されて呆然としていたのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私たちが落ち着いたのは、それからしばらく後のこと。
そしてやっと先ほどの疑問に答えてもらうことができた。
コリアンダーというのは、胡荽の別名なのだという。
あの種をすり潰したものはコリアンダーパウダーと呼ばれ様々な料理に使われる定番のスパイスらしい。
つまり、スペツィエ様が言っていたのは、私のことではなくてスパイスのコリアンダー、つまり胡荽のことだったらしい。
まったく紛らわしい。紛らわしすぎるだろう。
私はその時ふと、メアリーの言葉の意味に気づいた。
確か彼女は、『お嬢様にピッタリなスパイスが一つだけございます』と言っていたか。あれは私の名前と一緒だと知っての発言に違いない。
「それなのに今まで黙っているなんて……。あの悪戯メイド、帰ったらお仕置きです」
私は独言を言って、はぁとため息を吐く。
……とまあ、そんなことは二の次だ。それよりも、
「私がここへ来た理由をご説明致しましょう」
このままでは不審者でしかなく、公爵家の名声が落ちてしまう。
私は慌てて、自分がここまでやって来たわけを手短に話した。
スター・アニス嬢はずっと鳩が豆鉄砲を食ったような顔で私の話を聞いていたし、スペツィエ様まで信じられないでもされているかのような態度だった。
当然といえば当然かも知れないけれど……。
「スペツィエ様がスパイスをお好きだと聞き及びまして、ここまでやって参りました。最初は王城に向かったのですが、子爵邸にいらっしゃるとの話でしたので」
話し終えた私は、ごくりと唾を呑んだ。
一体何を言われるのだろう。いつしか息が荒くなるのを感じた。
「……アン。誤解させてしまったようで悪い。でも違うんだよ」
「何が、ですか?」
「僕は君に決して、その。だから、あの……。君にコリアンダーを渡したくて」
――は?
今度の『は?』はギリギリ喉元までで抑えることができたが、頭の中は?マークで埋め尽くされた。
胡荽、つまりコリアンダーを渡したのは私の方であり、決してスペツィエ様ではない。
何かの勘違いをしていらっしゃる? でもスペツィエ様はそんな馬鹿ではないはず。
戸惑う私に、今度はスペツィエ様が説明なさる番だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
結婚が来年まで迫っているせいで、スペツィエ様は焦っていた。
何故なら、これが最後の『婚約者同士』として過ごす期間になる。夫婦となる前に言うべきこと、やるべきことはしっかりしておかなくてはならない。
スペツィエ様は今まで私の誕生パーティーに参加するのを断念していらっしゃった。
表向きは公務の多忙であったが、本当は最適なプレゼントを見つけられなかったからだ。
何かいいものはないか、と探していたスペツィエ様。悩んでいた時、とある食べ物をいただいて感激したのだという。
それはスパイスがふんだんに使われたカレー。一口食べるなり、甘く爽やかな香りに魅了されたという。
「これは何だ?」と聞くと、それがコリアンダーというスパイスであることを知らされた。
コリアンダー・シモントロ――つまり私との関連性を感じられた彼は、慌ててコリアンダーを手に入れるべく、コリアンダーを生産しているという貴族の家へ向かった。
それがアニス子爵家である。
アニス子爵家はコリアンダーの他に、燃え盛るように辛い唐辛子、胡椒、生姜などありとあらゆるスパイスとなる植物を育てていた。
コリアンダーを自らの手で作りたいと思ったスペツィエ様は子爵家の令嬢、スター・アニス嬢に頼み込み、スパイスを譲ってくれないかと頼んだのだが……。
「プレゼントなさるなら、自らの手で作られた方がいいわ。わたくしが手伝って差し上げますので、王太子殿下、やってみてはいかがでしょう?」
そして、子爵邸近隣の畑を借りて、コリアンダーの元となる胡荽の栽培を始めたのである。
シモントロ公爵にもこの件は相談してきちんと認めてもらった。後はじっくりと育て、花を咲かせていく。
ただただ、私にコリアンダーを贈りたいがためだけに。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
スペツィエ様を疑った私が馬鹿だった。
スペツィエ様が私を裏切るワケがなかったのに。
裏切ったのは私の方ではないかと思って、胸が苦しくなった。
「そういうことだったのですね……。スペツィエ様のせっかくのご厚意を踏み躙ってしまい、本当に申し訳ありません。そしてスター・アニス嬢にも汚らしい疑念を抱いてしまいました。謝罪いたします」
「あ、いいのよ。それより、あなたが噂のシモントロ公爵令嬢なのね。わたくし、噂だけは聞いていたんですが、まさか本当にお会いできるだなんて。わたくしはスター・アニスといいます」
スター・アニス嬢は結構フレンドリーな感じで、疑惑をかけられていたことなど本当にどうでも良さそうだった。
私は彼女の心の広さに感謝することしかできない。
「気を取り直してくれ、アン。驚きはしたが、僕は怒ってなんかいないから。……そうだ、いいことを思いついた」
スペツィエ様はそう言って、にっこり微笑まれた。
「どうか僕のコリアンダーを受け取ってはくれないだろうか」