08:コリアンダー
王城へ足を運んだのだが、ちょうど王子は留守のようだった。
衛兵に聞いてみると、「子爵邸へ向かわれたようです」とのこと。
「子爵邸……、スター・アニス嬢」
私はそう呟くなり、子爵邸に急いでいた。
王城まで乗ってきた馬車に再び乗り込むと、御者に「アニス子爵の屋敷まで」と言いつける。
馬車は、まるで突風の如く駆け出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
私の胸の中は不安でいっぱいだった。
もしもスペツィエ様とスター嬢が不貞な行為をしていたら? もしもアニス嬢が私を怪しんだら? もしも……もしもスペツィエ様に見捨てられたら。
怖くて、思わず胡荽の袋を握る手が震える。
けれど私は、出発前にメアリーが勇気づけてくれたのを思い出した。
「大丈夫。きっと何もかもがうまくいきます」
そう言っているうちに馬車が子爵邸へ着いた。
アニス子爵は貴族の中でもあまり目立たない方の家柄だ。確か、何か名産品があったような気もするが、ほとんど公爵家とは交流を持たないので私はわからなかった。
まもなく使用人と思わしき人物が出てきて、私が何者かと尋ねて来た。なので私は、
「シモントロ公爵の娘です。……ここにスペツィエ様はいらっしゃいますか?」
と、正直に言ったのである。
もちろん不審がられたに違いない。
そもそもスペツィエ様と会いたいだけなら、この屋敷に来る必要はないのだから。……でも、スター・アニス嬢がいるであろうこの屋敷で、というのは案外私にとっては好都合なのだ。
私はスター嬢に会ったことがない。
だから少し怖がっていた。何をされるかわかったものではないし、もしかすると絶望を突きつけられるようなことになるかも知れなかったから。
しかし私はその臆病な心を捨て去り、せっかくだからと彼女と向き合うことに決めた。
彼女の前で、スペツィエ様の心を掴む。これは王城に向かうだけより、ずっといいような気がした。
――そして中へ通された私は、彼らと出会うことになる。
短い茶色の髪に可愛らしい薄紅の瞳、桜色のドレスを纏った少女。
そしてその向かい側に腰掛ける黒髪の少年とその少女は、二人で机を囲んで何やら話し込んでいた。
「あの。あなたがた、失礼致してよろしいですか?」
私の声に振り向き、二人は驚愕に目を見開く。
少女――スター・アニス嬢は、顔も見知らぬであろう私が入って来たということに対する驚き。
少年――スペツィエ様は、私がここにいることが信じられないという驚き。
私は二人に向かって微笑みかけ、二人の真ん中、テーブルの脇に立った。
「スター・アニス嬢、初めまして。私は公爵令嬢にしてこの方の婚約者、シモントロ公爵令嬢と申します」
「あ……」
「突然押しかけ、誠に申し訳ありません。このような無礼をどうぞお許しくださいませ」
あまりのことに声を失っているらしいスター・アニス嬢。
でも別にそれは構わない。私が用があるのは、もう片方の人ですもの。
「スペツィエ様、お久しぶりでございます。……今日はどうしても渡したいものがあり、ここへ参上した次第です」
私はそう笑うと、そっと胡荽の袋を差し出した。
「これは私の手作り、胡荽というスパイスです。あなた様のお気に召すのではと思い、お持ち致しました」
黒い瞳に困惑の色を灯し、黙り込んでいたスペツィエ様が、はっと息を呑む。
そして一言、呟かれた言葉は。
「――コリアンダー?」
名前を呼ばれて私は、思わずドキリとした。