30,不完全で 一方的な
自傷描写があります。注意してください。
――部屋を出ると一本道の廊下が続いていた。
そこは随分とぼろの平屋のようで、歩く度に床がきしむ。人の気配も感じることは無い。
こんなところを拠点にしている理由は、なんとなく分かっていた。
細長い廊下を越え、扉を開けると周りは見知らぬ森だった。辺りは夜明けとともに薄明るくなっている。
そして見渡すと家のすぐ脇に小川が流れている。
そして小川を視線で辿ると……その先に――いた。あの少女が――
小川の畔で蹲り頭を抱えたまま、ぶつぶつと独り言を言っていた。
ゆっくり近づいていくと、その声に漏れている内容がこちらに伝わってくる
「どうしよう、アルに嫌われちゃった。どうしよう、アルに嫌われちゃった。どうしよう、アルに嫌われちゃった……」
聞こえるその内容は、先程の出来事について言っているようだった。
「なんで?何がいけなかったの?分からない。分からないよ!……なんで怖がらせちゃった?アルを傷つけちゃったから?今までずっとうまくやってきたのに……このまま、一生一緒に居られなくなったらどうしよう……どうしよう、どうしよう、どうしよう……」
それは、ギリギリ聞き取れるほどの早い喋り。
自分の中でひたすらに考えを巡らせ整理しようとしているが、如何せん思考がまとまっていない。
「嫌われたくない、嫌われたくない、嫌われたくない、嫌われたくない、嫌われたくない、嫌われたくない、」
早口でただただ同じフレーズを繰り返すだけの彼女は、周りから見れば明らかに異常に見える。
頭やそれに添えられている手首が震え、痙攣しているようにも見える。
その様子を俺は、ただ眺めることしかできなかった。
やがて少女はいつの間にか、右手に小さなナイフを手に取り――
――自分の左手首を何度も突き刺していた……
その様子に――俺はただひたすらに絶句し、頭が真っ白になった。
腕を貫通するほどではないが、それでもナイフが何度も深々と刺さり、左腕の先が血まみれになっていく。
俺は考えるより先に、体が動いていた。
後ろから不意を突き、彼女からナイフを取り上げると、小川の下流へと投げ捨てた。
ナイフが手元から無くなった彼女は、まるで玩具を取り上げられた子供の様に、暴れ喚いた。
ナイフが捨てられた方向へ、何も顧みず真っ直ぐ進もうとしている。
俺はそれを押さえるために、彼女を羽交い絞めにする。幸いなことに身長はこちらに理がある。
「やめて!自分に罰を、痛みを与えないと!!気が狂いそうで!!私が私でいられなくなるの!!」
彼女は抑え込んでなお、興奮した状態で俺の拘束から逃れようとしている。
その嘆願を聞き入れるわけにはいかない。一先ず落ち着かせないと、興奮で出血がひどくなる一方だ。
これは、あまり使いたくなかった手だった。なるべく自分の言葉を使って誠心誠意、彼女に謝るべきだと思ったから。
しかし、今そんな事を言っている余裕はない。ならば今使うしかあるまい――
「――“フィアル”!!いいからちょっと落ち着いて!!!」
「――あ、あれ?この声って……まさか…」
俺の声を聞くや否や空色の少女、いや、フィアルの動きが止まった。
反応から後ろに居るのが、誰なのか分かっていなかったようだ。
「あっ…………」
フィアルは短く、そう発すると体中から力が抜けていく。
やっと落ち着いてくれたみたいだ。俺はゆっくりとフィアルを下ろした。
何よりまず、左手首の治療を――
そう思っていたら、いきなり振り返って足元に縋りついてきた。
足元にいきなり取り付かれ、バランスを崩した俺は後ろに倒れ込む。
「あの!アル!これは違うの!ただ自分に戒めを……とにかく違うの!!」
フィアルは倒れ込んだ俺の足元から這いずるように、俺の顔を見てそう言った。
何が違うのかよく分からないが、これではまた興奮で出血がひどくなってしまう。
落ち着かせたいが、彼女に体の体重を乗せられ抑え込まれて身動きが取れない。
「――ごめんなさい!ごめんなさい!!許して!!許してください!!何でもするから!何でもします!!だからおねがい許して!!見捨てないで!!私を置いてかないで!!お願い!!お願いします!!!」
フィアルが縋るように切願してくる。それはもう何かに取り憑かれでもしたように、
その必死で、悲しみに引き裂かれたような形相は、俺の記憶にある、あの少女ではなかった。
「フィアル!落ち着いて、許すから!見捨てたりしないから!お願いだから落ち着いてくれ!」
相手がこちらにお願いをしているのに、こっちも必死にお願いをするしかなかった。
「ほんと?」
フィアルの顔が悲痛より引き戻される。
「ほんとだから、落ち着い――」
「――許してくれる?」
フィアルのその顔は疑問の表情――
「許すよ――」
半ば勢い任せに俺は続けてしまう。
「私のこと見捨てないでくれる?」
「見捨てないからっ、ちょっと離れ――」
「――置いていかない?」
「置いて行ったりしないからっ、落ち着いて、ね!?――」
「――私になんでもさせてくれる?」
「なんでもしていいよ」
彼女の質問攻め、完全に流れに任せて口から回答が飛んでいる。落ち着かせることだけが頭に中にあった。
段々とフィアルの顔は綻んでくる。あと一押しだった――
「――じゃあ私とけっこんしてくれる?」
「するから、落ち着いてくれ――」
「……絶対?」
フィアルは破顔したかと思いきや突然、急に真剣な表情になった。
『絶対』、その言葉の意図が俺は理解できなかった。
でも彼女を疵つけてしまった罪悪感から、そして彼女をこれ以上悲しませまいと、そう行動する義務があった。だから言ってしまった。
「――絶対だから安心して、」
そう言った瞬間、彼女は彼女史上最高の笑顔を見せてくれた。
前にもこんなことがあった気がするが、俺は女性の笑顔に弱い気がする。
何でも許せてしまうような気がする。そんな気がした。
「――アル、ありがとう!大好き!」
フィアルはそのまま、仰向けの俺の上に覆いかぶさってきた。
俺の顔の前にフィアルの顔が来る。くりっとした丸い目と、少しだけ突き出たその口、まだ幼さの残るその顔。
それと同時に朝日が差し込んで、その髪が明るい色に染まっていく。
そして何より、左目の淡い蒼と、右目の金色のような輝くような瞳に吸い込まれそうだった。
「んっ」
やがてフィアルは目を瞑って、俺の前に顔を置いてそのまま動かなくなった。
俺が訳も分からずに、しばらく放心していると――
「んん!!!」
フィアルは呻くように強くそう発する。
俺はフィアルの両肩を両手で掴み、そして――
――彼女の力が緩んだすきに、その体勢から抜け出した。
「フィアル、早くその手を治療しないと……!」
俺はそのまま立ち上がりそう告げた。
見ると彼女は、頬をいっぱいに膨らませて不機嫌そうな顔をしていた。
「さあ早く部屋に戻ろう、ね?」
あやすようにそう言った。まったく、訳が分からない。
――その恨めしそうな瞳ににらまれながら、俺はなんとか彼女の手を引き部屋に連れ帰るのだった。




