10,食事
意識が戻ると俺は蹲った体勢、そして両手で身を守るように身構えていた。
これはかつて母親から暴力を振るわれた際に俺が身に着けた自己防衛の術の一つだった。
それは母に怒られ、大抵暴言と同時に来るものだったので反射的に体が動いてしまうのだった。
しかし、俺はこの世界で自信を持って生きていくと誓ったのだ。
ならば、世界にこんな無様な姿は晒せないだろう。
俺はまだ混乱しながらも、息が上がっていたので呼吸を整える。
そして体勢を正し、椅子に深く座りなおした。
目の前には何が起こっているのか理解できず、成す術なくこちらを見ている屋敷の主が居た。
「あっ、あのわたっ…私はそんなつもりで言ったんじゃ…」
彼女は彼女なりに最大限こちらを慮って発言したようだった。
「いえ、僕が悪いのです、取り乱してしまい申し訳ありません、メイスザーディア様。」
俺は心を落ち着けて、主を気遣うように言った。
先程あんな威勢のいいことを言った俺だが、元来体に染みついた口調というのはそう簡単に変えられないようだった。
それがどうした、時間がかかったとしても確実に前へ進んでいけばよいのだ。
彼女は俺の放った言葉にピクリと反応を示すも、それ以上にこの状況をどうしたらよいのか分かりかねているようだった。
「メイスザーディア様、本当に何でもないのです」
彼女にとって先程見た俺の状況は尋常ではなかったのだろう。
未だこちらを心配した様子を見せる彼女を宥めるように言う。
「さあ、食事にしましょう!僕はここに朝餉を食するために来たのです!本来の目的を果たしましょう!」
俺は自尊心を手に入れた者の如く言った。
その言葉は主に対するものとしては聊か傲慢な態度だろう。
しかし、彼女はそれに対して先程のように怒る気配もなく言葉を紡ぐ。
「そんなに言うなら、食事にしましょう。
でもその席に座るのはダメ、そこは私たちより階級が高い人が座るのよ」
そう言い彼女の隣にある椅子の背板をポンポンと叩くのだった。そこに座れということだろう。
未だ納得のいっていない様子だったが、それでも何とか抑えているようだった。
屋敷の主と俺で机の長辺にある席に隣り合うように座った。
椅子に座ると俺の身長では足が地面まで届かないようで座るために引いた椅子が前にやれない。
そんな俺を見て主は背もたれを持って机に向かって押し込んでくれた。
本来使用人がやるべきようなことを、彼女は俺のためにわざわざやってくれた。
そういえば、この部屋に使用人の姿が見えない。
普通こういう所には後ろに控えていたりするものなのではないだろうか。
そんなことを考えていると、自身も席に座った主は掠れた音でフィンガースナップをした。
すると部屋の奥の扉からメイドが複数人料理のワゴンを押し歩きながら、部屋に入ってくる。
ほとんどが人間のメイドで顔も名前も知らないが、中にはリデルの姿もあった。
まあ、メイド長と言っていたし当たり前なのかもしれないが。
メイドたちの表情はまるで感情を山犬に喰わせたかのように無表情だった。
私語ももちろんなく、その行動は合理的に動く人形のようだった。
集団としては整っているものだが、どこか不気味にもみえた。
扉からすぐ出てきたあたり、ドアの前で待機していたのだろう。
だとしたら先程の悶着が聞こえなかった訳ではないだろう。
にもかかわらず、こちらに一瞥する様子もなくただ機械のように動いている。
そして、次々料理が机に運ばれてくる最中、唐突に主が訝しがる表情でこちらの方を見やり言った。
「トピア、ちょっと後ろを向いててくれる?」
彼女のその声色は先程の様子を見たからか、存分にこちらを気遣っているようだ。
俺もやはり怒声を浴びせられると、体が言うことを聞かなくなり、やはり本能的動いてしまう。
だから不必要に刺激しないようにその言葉に従う。
俺が座る向きを変え彼女に背を向けると、彼女は席から立ちあがり俺のすぐそばに寄ると俺の頭髪を触り始めた。
そういえば部屋に入る前にミーニャが整えてくれたが、実はまだ髪が刎ねていたのか?
それとも、カーペットブラシで髪を梳かしたから埃でも付着していたのだろうか?
そうだとしたらミーニャは泣き喚くほどまた主に叱られるのだろう。
俺にもその可能性があったが、先程の主の様子を見ればその可能性はずっと低かった。
ミーニャには同情するが、今の主を見ているとやはりミーニャがあんなに怯えるほどとは思えなかった。
主が俺の髪を触り始めた理由、それは俺が予想したものと半分は正解で半分は不正解だった。
「なに?これは?」
俺が彼女の方に向きなおすと、彼女は手に付いたそれを俺に見せてきた。
それはいくつかの白と黒の長毛だった。俺はそれに見覚えがあった。
実は俺自身は、自分の髪が視界に入らない短さなので、自分自身の頭髪が何色なのか知る術がなかった。
でも、その毛は俺の毛ではないことは分かる。明らかに俺のよりは長くしかも白と黒の毛。
ミーニャの体毛だった。
それが頭髪に付いているのだとしたら、考えられる可能性はひとつ。
先程、頭髪を梳かすのに使ったあのブラシだろう。
おそらくあれは、掃除に使用するカーペットブラシではなく、ミーニャが自身の体毛をケアするため、ブラッシングに使用するものなのであろう。
どおりで掃除用にしてはずいぶんキメの細かいブラシだと思った。
だとしたらあんなに拒絶することもなかったのに…
ミーニャには悪いことをしたな。後でさりげなく謝っておこう。
それはそうと今は今で問答を進めよう。
「それはおそらく僕のお世話係のものかと…」
「あんのクソ犬……!」
ん?
俺が取り繕うように言うと彼女は小さいながらも確かにそう口走った。
なんか彼女が怯えていた理由の一角が分かった気がする。
このままではミーニャの身に恐ろしいことが起こる気がする。
先程彼女を泣かせてしまったこともあるし、あの怯えた姿は俺の中の良心がひどく痛む。
だから俺は彼女を助けることにした。
「そ、それは僕がミーニャの毛を毟って遊んでいたものです!さっき蹲ったときに手に持っていたものが頭に付着したのでしょう!」
咄嗟に思いついたものと考慮しても、あまりに杜撰でミーニャを庇うという目的も果たせていない気もする。
俺のその必死さに彼女は唖然とした表情をする。
だけれども、彼女は俺の必死な口調に気圧されたのか無理やり納得したようだった。
「今の言葉はあなたに対して言ったわけじゃないわよ…」
どこか不貞腐れたように言う彼女は先程の失言をした彼女とは別人のようであった。
「あのメイドの毛は衛生的によくないから、ここに持ち込んではいけないわ」
彼女はそれだけはゆずれないと言わんばかりにはっきりと言った。
まあ、衛生的によくないことがあるかもしれないが、主はミーニャをどこか毛嫌いしているようだった。
先程までのミーニャを見ていれば分かるが、彼女はいわゆるドジっ子メイドだ。
おそらく俺の前で見せた失態はいつも屋敷でやらかしているのだろう。
気高い性格の主とそりが合わないのも頷ける。
けど、主はミーニャに対してそれ以外の感情を向けている気がする。
そんな気がするは俺だけだろうか?