山月記
京都人の李徴は博学かつ英才。李徴が持つ文学の能力は一般人の基準からはるかに乖離していた。だが、李徴がプロといえるレベルに到達するには、ある1点において不足するところがある。大学の同級生が高級官僚や大手企業に就職する傍ら、李徴は詩を書く道を選んだ。同級生が出世していく中、李徴だけが取り残されている気がしていた。
「見ていろ。あいつらを見返してやる。」
李徴は独り事を言いながら、自室で詩を書き続けた。
袁傪は旅をしていた。5人の仲間を連れて、山を越える。到底現代人とも思えぬ野蛮な生活を送り、携帯電話さえ持ち合わせていない。昼飯と言えば、山で取れた山菜や川で釣った魚である。
袁傪一行が昼食を終え、焚火を囲んでいた頃、草むらでなにやら物音がした。
「袁傪隊長!なにやら物音がします!」
「わかっている。皆、静かにしてくれ。」
一行が揺れる茂みに注目したその時、一匹の虎が現れた。
「なんだこの猛獣は。やばいぞ。逃げるしかない。」
皆が騒いで逃げたが、袁傪だけが取り残された。
袁傪は仲間の事を薄情な奴らだとは思ってはいない。何よりも自分の命が大切だ。仲間は大切だが、自分の命と引き換えにはできない。袁傪が虎に食われることを覚悟したその時、虎の動きが止まった。
「すまない。袁傪。お前を食べることはできない。」
「その声、あなたは李徴ではないか。学生時代に共に勉学に励んだ親友の李徴ではないか。」
「そうだ。私は李徴。だが、もはやかつての姿はない。虎になってしまった。虎になる前、私は詩を書き続けた。だが、無駄だった。才能がない。しかし悔いは残る。俺が書いた詩を後世に残してはくれないか。もう私は人ではない。だから、お前に頼むしかない。」
「わかった。」
袁傪は李徴にいくつか、詩を諳んじてもらった。詩を暗記していることにも驚く。だが、なるほど確かに優れた作品ばかりだ。しかし、李徴の作品にはあと一歩不足しているものがある。それが何かは分からないが、やはり何かが足りない。
「私はもう行かねばならない。」
詩を詠み終えた李徴は言う。
「しかし、李徴。あなたはなぜ虎に……」
袁傪の疑問に李徴は答えた。
「私は、詩の才能がない。実はそれに気づいていた。だが、詩を捨てても、もう出世の道は望めない。出遅れた私が今更同級生の部下になることはプライドが許さない。詩も諦めたくなかった。そんな自尊心と羞恥心が私を虎に変えたのだ。さあ、もう行ってくれ。私が虎に戻る前に。」
「もう人間に戻れないのか。」
袁傪はかつての同級生を悲しんだ。
「戻れない。そしてもう次にあった時には人間の心は一切失っている。」
言い残した虎は茂みへ消えていった。取り残された袁傪だったが、遠くの方で虎の雄たけびを聞いた気がした。