第5話「りんご」
今回の投稿は某所で開催したその無限の先へリスタートプロジェクトの「二ツ樹五輪 次回Web投稿作品選定コース(限定5名)」に支援頂いた月神さんへのリターンとなります。(*´∀`*)
-1-
「……どうしたもんかな」
俺は地上にある喫茶店で一人、注文したコーヒーに手すらつけず考え事にふけっていた。
普通ならコーヒー一杯でボックス席を占拠し続けたりすれば、追い出されこそしないまでも店員や他の客に変な目で見られるだろうが、ここではそんな相手はいない。店員は全員アンドロイドな上に、客だって俺一人だ。採算が取れているはずがないが、採算など取る必要などないのがこの島の店舗なのだ。
いや、この島の状況についてなどこの際どうでもいい。今の問題はあの言動だけならまともっぽい宇宙外知性体についてだ。
あれから滝沢にも確認を入れたが、聞かされていたモノとあまりに異なる印象は彼にとっても意外だったそうで、少なからず困惑している様子だった。
しかし、よくよく考えてみれば滝沢もセルヴァの管理官と相対した経験はほとんどなく、自分の担当とせいぜい他数名だけだったはずだ。元々、全体の基準と考えるには少な過ぎる例しか知らなかったわけだ。
とはいえ、対話を望み、品行方正にしか見えない俺の担当官は、滝沢にとってみればそれだけでアタリと判断するほどの存在らしい。実際に会ってみたらまた別だろうが、少なくも俺から伝えた断片情報からはそう捉える程度には。
「……本当かよ」
俺としてはそう思わずにはいられない。実際に相対した、そしてこれからパートナーとして過ごす事になる俺としては不安しか感じない。
そりゃ明確に協調する意思がなかったり問題を抱えているのに比べればマシというのは分かるが、あの表現する言葉すら浮かばないほどの存在感を前に正気を保てる自信はなかった。
今、ここにいるのだって、担当官が追加のデータアップデート処理で一時的に停止状態になったから逃げてきたようなものだ。別に行動を制限されているわけでもないのだから誰に咎められる事もないのだが、自分の本心は隠せない。
「ん?」
そんな事を考えていたら、不意に座っているボックス席の外側の窓がノックされた。目を向けてみれば、東堂さんが笑顔で手を振っている。少しびっくりしたが、アレのあとだと超癒やされる。
そのまま店内に招き入れ、ボックス席の向かいに座ってもらった。
「えーと、奢ってもらっちゃっていいんですかね?」
「気にしなくていいよ」
見栄でもなんでもなく、今の俺は本当に気にしなくていいような金額でしかない。というか、学生の身分でも奢るのに躊躇するような値段じゃない。
……こうして考えると、本当に今の収入って何に使うんだって思うよな。この店のメニューの端から端まで全部頼む事だって普通に出来るが、出来たからなんだって話である。
代えを注文する際に冷えて温くなったコーヒーをもったいないと飲み干してしまうあたり、まだ庶民感覚は抜けていないのだろうと思う。こんな短期間で抜けるはずもないが。
「何かあったんですか? 一人でこんなところで」
「変だよな。別にどこだって良かったんだが、……まあ、色々あったんだよ」
「例の地下に行ったんですよね? 聞いていい話ならいくらでも相談に乗りますけど」
「それなんだよな……」
問題は、これが誰かに相談できる類の話じゃないって事だ。東堂さんに限らず、環境省の人間でも不適当だ。相手として相応しくないとかそういう問題じゃなく、もっと根本的な部分で伝わらない。
頼りになりそうなのは、干渉を受けない同僚の滝沢くらいというのは正直不安を覚える。主に人数の問題なのだが、当の滝沢の意見も絶対的に頼りにしていいものじゃないっていうのは今回の件でも明らかなのだ。滝沢自身の情報だって限定されたものでしかないのだから。
「とりあえず、守秘義務って事で」
「それはそうですよねって感じですけど……」
この島の住人である以上、東堂さんもその辺の事情は認識してる。彼女の場合はセルヴァの事どころか島の外……現代日本の事情についてもある程度情報がシャットアウトされているように感じる。だから、興味があっても深くは突っ込んでこない。一度言葉を濁すだけでもそれ以上聞いてこないほどに消極的だ。ここまで極端だと原因があるような気もするが、安易に踏み込んでいいモノな気がしない。
俺もそれを分かってラインを引いている自覚はあるが、ここまで情報開示に問題のある立場だと助かっているのも確かだ。強烈なセーフティーがあって尚、手探りどころの騒ぎではない。
実をいえば、情報阻害がどの程度のものなのか、地上に上がってくる際に顔を合わせた十和田さん相手にも色々と試してはみたのだ。結果としては、かなり軽い情報でも制限がかかっている。伝わっていない事自体が認識されておらず、本人も疑問に思わないほどの徹底振りだ。
検証と呼べるほど試したわけではないが、その範囲は緻密というよりはむしろ大雑把で、およそ関係の薄い、本題と結びつけるのも難しそうな情報すらその対象になっているように感じる。おそらく、十和田さんが感じている以上にシンの報告書は歯抜けでしか伝わっていないだろう。今の俺が見たら数倍の文量がありそうだ。
「じゃあ、何か関係ない事でもお話ししましょうか。聞きかじりですが、こういう時はそういうのでもいいって何かで読みました。実践経験はゼロですけど」
「あーいいね。東堂さんは優しいなー。マジ癒やされる」
「えへへ……って、本気で言ってそうなのがまたシャレになっていないような」
実際本気だしな。戦闘という名の一方的な人殺し体験や、あんな存在感のお化けと相対した後にコレだと本当に助かる。
「それにしても、シンの人って地下から出てこれないわけじゃなかったんですね。誰も上がって来ないって事は、そういう事だと思ってました」
「多少は上がって来てるらしいけど、街には来ないだろうな。正直、用事ないし」
「ないんですか?」
「ないな」
俺も逃げ出してきただけだし。必要なモノがあっても地下ですべて完結してしまう。一応、東堂さんって知り合いがいる俺ならともかく、他の連中に知人友人は皆無だ。環境省の人間と会うだけなら、もっと限定された空間で済んでしまう。エレベーターの中継所で用事が済むのなら、それで十分と考える奴は多いだろう。
「理由としては色々あるが、言えそうなのは移動時間の問題かな。片道一時間以上かかるし」
「え、この島の地下なんですよね?」
「改めて言われてみたらあんまり自信はないけど、多分? 地下何メートルなのやら」
「島の直径より深そう」
本気で有り得そうなのが困る。十和田さんはセキュリティー的な問題で移動速度は速くないと言っていたが、それを加味しても異常だ。そこまで深いと普通なら環境的な問題も発生するだろうが、そんな事関係ない連中だし。建築したのが政府主導でもセルヴァの超技術は使われているはずだ。実は、地下と見せかけて別の場所ですって言われても驚かない。
「でも、東堂さんが行ったら戻って来れない。死ぬとか、そういう意味じゃないけど」
「……それって、聞いていい話なんですか?」
「環境省は気にするかもしれないけど、問題ない」
「断言なんですね」
だって、こうして伝わっている時点で問題ないって事だからな。内容的に十和田さんが言っていた範疇でしかないのだから、阻害されるとも思ってなかった。言ったように環境省はいい顔しないだろうが、その程度の事でしかない。
「だから、東堂さんを奥さんにとか、そういう話はかなり無理がありそう」
「い、いや、本気にはしてないんで」
雑談の中で出た冗談でしかないのは確かなんたけど、割とコレも洒落になってないんだよな。
東堂さんに限った話じゃなく、俺が誰かとそういう関係になるとしたら、戻れない事を覚悟で地下に連れて行くか、あるいは地上の現地妻しかない。相手がシンならプライベート空間も行き来できるだろうが、コミュ障集団らしい連中とそんな関係になるとは思えない。というか、実態を知った今、そもそもシンを異性として見れる自信はなかった。
最初に見せてもらったシンの要望ファイルの中に、奴隷契約みたいなモノがあったのもそういう事なんだと思う。事前に十分な説明ができない以上、あそこに連れて行くという事は似たようなモノにならざるを得ないだろう。人身売買で購入した相手なら、少なくとも処遇に苦慮する必要はない。
「だいたい、二十歳にもなってないのにそんな話とか」
「あー、これも常識の差か。同じスリーパーの奴に聞いたけど、昔は結構遅かったとか」
昔の本を読んでいてそういう描写がある度に、妙に遅いなとは思っていたのだ。制度的には十八歳と十六歳からって事もあって少し混乱していた。
「え、まさか、現代って二十歳前に結婚するのが普通とか?」
「普通ってほどでもないけど、珍しくはないな」
「ひぇー」
最終学歴によって事情はかなり異なるが、高校まで進学している奴なら卒業に合わせて結婚するのは普通だし、それ以前に結婚してる奴すらいて、年上の同級生の中には子供までいる奴も珍しくはなかった。
婚姻資格が年齢でなく基礎教育校卒業で付与されるようになった結果でもあるんだろうが、学校卒業を目処にという人が多い印象だ。また、専門系は更に極端になるという話も聞いている。
というか、就職時に結婚しているかどうかで明確に評価が変わる企業も多いんだよな。それ前提の福利厚生を整備しているところも多いし、夫婦で同じ企業に就職なんてのも良く聞く話だった。俺のようにストレートの年齢で卒業というステータスを優先する奴もいるが、結婚、ひいては就職のために卒業を遅らせるやつもいる。
「まあ、俺みたいに一切縁がない奴も普通にいるけどね」
モテないというか、縁がないというか、敬遠されていた感はある。だいたい冷凍みかんのせいな気がしなくもないが、俺が行動しなかったのも原因だろう。
「それでも驚愕の事実なんですが」
俺にしてみれば、晩婚化してたという過去のほうが驚愕なのだが。まあ、歴史を知ってしまった身としては、色々問題を孕んでいて、セルヴァ技術を背景にゴリ押しして制度を整備、強引に意識改革したというのが正解な気もする。少子化問題にも絡む話だから、結構切実だったはずだし。一億前後の人口で推移続けている現代は、相当に調整された結果なんだろう。
「そういう一般的な事は別としても、シンの事情を知るほどに結婚から遠ざかってる気はするんだよな。というか、俺が選ばれた原因の一つでもある気がする」
これまでに聞かされていた話からして、既婚だったら優先順位は下がっていたような気もするし。
「なんか、めっちゃ複雑そうですね。シンの人って」
「色々と世界が違い過ぎて困ってるんだよ」
とはいえ、今一番の悩みの種は宇宙外知性体なのだが、それを伝えられるはずもない。確実に阻害対象だ。
それからしばらく東堂さんと本当になんでもない雑談をして癒やされた。これから戻って相対するモノを考えると落差に嘆きそうになるが、気分転換にはなっただろう。
別に会話そのものが通じないわけではなく、威嚇されているわけでも敵意を向けられているわけでもない。少なくとも表面上は真摯ではあるのだ。それで尚、根源的恐怖を感じるのが問題なのだが、滝沢曰くかなりマシという言葉を信じよう。
-2-
「おかえりなさいませ、私のシン」
「……ただいま」
長いエレベーターを使って戻って来た瞬間、出迎えられたところで一気に気が萎んだのは我ながら情けないと思う。一見すればミニスカメイドに出迎えられただけなのに、どうしてこうも怖いのか。
「ずいぶんと早いんだな。アップデート処理とか言ってたから、もっとかかるものと思ってた」
「コアの書き換えは済んでいれば、あとは情報のやり取りでしかないので。なるほど、それで時間がかかると思い外出されたのですね」
そういうわけでもないが、そういう事にしておこうと思った。俺の真意はともかく、実態は大差ないし。
「それでは、改めて相互理解を深めるための対話を致しましょう。何か聞きたい事がありますか?」
「そもそもあんたがどういう……いや、その前に呼び名を決めたほうがいいな。何か希望でもあれば」
「特にありませんが、できれば明確な誹謗中傷となるような名前は避けたいところです。どうも、同エリアに着任した者の中にはそういう名で呼ばれている者もいるようなので」
こんなの相手に誹謗中傷紛いの呼称とか、イカれてるとしか思えない。
「そういう情報も共有されているのか。参考までに聞いてみたいんだが」
「プライベートな情報なので本来は許可が必要ですが、シンがすでに交流を持っているらしい滝沢コウの担当官であれば、契約解除済なので問題ありません」
俺と滝沢の関係を把握されているのは別におかしな事ではないのだろう。基本、ここでの行動はすべて筒抜けと考えるべきだ。すでに契約解除済で、滝沢の担当官が不在というのも事実である。
「じゃ、滝沢の担当官はなんて呼ばれてたんだ?」
「穀潰しと」
なんとなく納得してしまったのがちょっと悔しかった。確かに滝沢なら言ってそうだ。そして、実際に穀潰しだったのだろう。
「良く分からないんだが、こうも管理官の人格に差があるのはなんでなんだ? 話だけでも、ちょっとどころじゃない違いを感じるんだけど」
「中に入っている個体差でしかありませんが、確かに違いはあります。特に滝沢コウの担当官は、この世界でいうところの犯罪者だったようなので」
「……セルヴァにも犯罪とかあるんだな」
なんだそりゃと言いたくなるが、それならそうもなるかと納得もしてしまった。
「言語化できない部分が多いのでイメージはし難いでしょうが、我々の社会構造はこの世界の人間と似通った部分が多く存在します。犯罪者というのもただ近い例として挙げただけですが、イメージとして間違ってはいないかと」
「社会構造……少なくともそう表現できる程度には共通点のある存在だと」
「はい。というのも、各エリアの担当は特徴の近い存在が就任する事になっているので。我々は、あなた方の言う宇宙外知性体の中で人間に最も近い特徴をそなえているのです」
そうなのか。……多少は親近感が湧かない事もないが、ここまでスケールが違えば小人と巨人どころの差ではない。それはそれとして、少し気になる言葉も飛び出してきた。
「……それは、セルヴァという言葉が、宇宙外知性体の中で人間に似たあんたたちのみを指す名称って事だろうか?」
「お察しの通りです。現時点で他の存在について話す事はできませんが、そもそも我々も全容は把握できていません」
「確認だが、この地球を隷属させたのはセルヴァ?」
「開示できません」
それはかなりの重要情報なのだろう。予想した通りシンに対しても規制されていると。
……とはいえ、俺の予想ではやはりセルヴァ単体ではないだろうなとは思う。前面に立ったのは、あるいはその中で重要に立ち位置にはいたのは間違いないにしても、単独勢力ではないんじゃないだろうか。他の知性体との連合か、セルヴァが更に上の勢力の一部なのか……正体は分からないが、一枚岩の単独勢力ではないと推測する。
そう考えると、多少は畏怖の感も薄れるというものだ。相手が唯一絶対の存在でないというのは大きい。……そして、多分この担当官は俺がそう認識するだろう事を予想している気もする。
「なるほど、思った以上に対話の余地があるって事だな」
「そう考えています。ただ、穀潰しの例のようにセルヴァの総意とは言い難く、私の個人的な考えと御認識下さい」
自分が呼ばれるんじゃなければ、他のセルヴァを穀潰しって呼ぶのはいいのか。
「それで、呼び名はいかが致しましょう?」
「じゃあ、林檎か苺か杏か桃か……あと、それっぽいのはあったかな」
「何故、果実ばかりを?」
「知り合いに蜜柑がいるんで、なんとなく。嫌なら他には……」
「いえ、シンの名も梨が含まれていますし、関連性もあってよろしいかと。では、最初に挙げた林檎にしましょう」
「それでいいならそれで」
みかんに指摘された事もあるが、梨の字は親の名前に合わせただけで果物って認識はないけどな。その親とも別に仲は良くないので、本当に漢字を当てる際の気まぐれだ。
改めてこんな適当に決めていいものかとも思うが、ただの呼び名ならそこまで気にする事でもないのかなと思う。少なくとも、穀潰しよりははるかにマシだろう。林檎なら、そういう名前の人も稀にはいるだろうし。
名前がりんごになった事で急に威圧感がなくなったような気もしたが、ただの錯覚だったと思い直したのは直後の事。それでも対話自体は必要な事だと割り切り、お互いに必要な事……いいや、特に必要じゃないと思われる事を含めて対話を繰り返す。切り替えが得意なのは俺の特徴だ。必ずしも美点とは限らないが、それが今回は功を奏したらしい。それはそれとして胃は痛い。
というわけで、俺の担当セルヴァであるところのりんごは、本人から明かされた情報を羅列してみれば極めて穏当な存在である事が判明した。りんごを信じるならという前提ではあるが、真偽を確認する術などない俺としては飲み込まないと話が始まらない。
元々、話の内容や表面上の態度だけなら真っ当ではあるのだ。ただ、あまりに規格外な存在だからそれがおかしく見えるだけというのは分かっている。しかし、自分の事を瞬時に吹き飛ばされる怪獣を前に、殺すつもりはないと言われて鵜呑みにできる者のほうが少ないだろう。それが把握できないほど、形容できないほど更に巨大であれば尚更だ。
「その認識は、あなたがシンとして成長するほどに解消されるでしょう。身近な例でいえば、滝沢コウは担当官をそこまで巨大には感じていないはずです」
会話の流れでその認識も話題に出してみたが、りんごから対策として挙げられたのは単純なもの。ようは人間やめるくらい成長すれば相対的な差は縮まるという話だ。
確かにそうかもしれないとは思う。たとえば、りんごが滝沢の担当官同様穀潰しだったとして、今の俺がその名で呼べるかと言われれば答えはノーだ。畏怖すべき対象をそんな言葉で呼べる時点で滝沢はある程度枷から外れているというわけだ。
ただ、それは相対的に人間との差が開くという事でもある。今でさえすでに隔離状態にある人間社会との溝は決定的なものになるだろう。そして、滝沢が望み、俺にも望んでいるのはそういうモノなのだ。
……ただの話相手でも、東堂さんとの関係がいつまで続くか不安になる話だな。
「では、慣れるまではある程度距離を離してサポートを行ったほうが良さそうですね」
「それは……確かに助かるけど」
りんごの物分りの良さに困惑せざるを得ない。本人としては常識的な態度をとっているだけで、事実そうなのだろうが。
たとえば、ボディーガードのように四六時中背後に立たれたら、俺はあっという間に心労でダウンするだろう。
「そのサポートの範囲についてだが、具体的にはどんな事を? 滝沢の担当官は何もしなかったらしいが」
「望まれるのでしたら大抵の事は。試合や訓練の調整や成長提案、家事などの生活サポート全般につきましても」
「家事もするのか」
「このボディに必要な技能データが含まれています。多少の慣熟訓練は必要でしょうが、問題はないかと」
一瞬、イメージに合わないと思ったが、良く考えてみれば目の前にいるのはメイドだった。政府がこのエリアについての詳細を知らない以上、そのアンドロイドに家事に関するデータがインストールされていないはずはないのだ。
ここまで次元の違う相手に奉仕する事に忌避感はないのかとも思うが、受ける印象はどうであれ、りんごの中身はそういうスタンスなのだろうと割り切る。ひょっとしたらペットのようなモノと同じ認識かもしれないし。
「とりあえずすべて私に任せて頂き、内容について都度微調整するという形を提案します」
「……じゃあそれで」
本人からの提案である以上、俺に否定する材料はなかった。
こうして、俺とりんごのできる限り干渉せず、必要な事はすべてやってもらうという、奇妙な距離感の同居生活が始まった。
「ではせっかくなので、今日のおやつにアップルパイとやらを作ってみましょう」
……適当に付けた名前だが、意外と気に入ってるのかもしれない。
-3-
結果から言えば、りんごはその業務のすべてをこなしてみせた。
どうもメイドボディにインストールされているというデータは家事だけでなく、日本の慣習や常識なども含まれているようで、多少の齟齬はあっても容易に調整できる程度のものでしかないらしい。
こうなると、むしろ俺のほうが非常識な事で問題が発生する場面もあるほどだ。ほぼストレートで高校卒業までこぎつけたとはいえ、社会経験のない若造な俺に万全な一般常識があるはずもないのだから当然だ。
何故俺は宇宙外知性体に日本の慣習についてのウンチクを聞かされているのかと思う事もあったが、何回かそういう場面に遭遇して諦める事にした。俺は俺だとか、そんなウンチクはいらないと拒絶する事もできるが、相手が怖いという事を差し置いても普通にみっともない。今更反抗期もないし、文句を言うのも怖いし。
「強化案をいくつか作成致しました。昇格処理の期間を利用して慣熟訓練を行うのがよろしいかと」
多少はそんな生活に慣れ、保留にしていたランクアップ条件の十勝も達成した頃、りんごからそんな提案を受けた。
試合に関しては特筆すべき事はない。第五戦のようなレアな戦士とマッチングする事も視野にいれつつ、ルーキーが陥りがちな問題点を洗い出しながら試合に挑んでいたが、最後のほうはやはり作業と化していたのが現実だ。正直、訓練のほうが得るモノが多いという状況である。ランクが上がればそんな事は言ってられないのだろうが、滝沢曰く『一つ二つ上がったところでそこまで変わらない』との事。ただ、油断すれば危険とも言われているので、状態は整えていきたい。
りんごから挙げられたのも、そういった危険を極小化するための案だ。現在の所持ポイントで可能な強化案を提示してもらっている。
「…………」
提出されたりんごの強化案は俺の意図を十分以上にクリアしたものだった。懸念までカバーされていて、人格を含めて見透かされているようで複雑だが、それは飲み込む。
強化案の内容は最低限の強化からポイントを最大限使用する案まで複数。それに加えて、今後獲得可能なポイントを見越して事前に土台となる強化を施す予備案もある。その案の大半は装備の充実を図るモノであり、俺の体を改造する生体強化は極わずかになっているのも見透かされている感が強い。以心伝心できていると割り切るにはもう少しかかりそうだ。
「ちなみにりんごの推奨は?」
「第一案から推奨順です。生体強化を行う場合、慣熟に時間のかかる基礎強化を推奨します。具体的には骨格強化がお勧めかと。装備更新での強化案は第五案以降を御参照下さい」
推奨している通り、骨格強化は地味ではあっても確実な強化で、俺への影響が少なく、筋力強化などの前提にもなるモノだ。直接的な効果は微細でも、装備制限などにも関わるコストがほとんど変わらないのも大きい。その分、余剰コストを装備などに当てられる。
元々セルヴァ謹製の技術で行う生体強化はまるっきり別物の部位に置き換えたとしても拒絶反応などはない。あまりに極端な改造……元々存在しない器官を追加するなどすれば別だが、それでも一時的らしい。
ただ、拒絶反応がなく、強化直後から最低限動かせるといっても、それはあくまで最低限だ。走れるのと高速で走れるのが同じでないのと一緒で、万全に使いこなすためには慣熟訓練が必要となる。そして重要な問題として、極端で急激な生体変化は多大なストレスを受ける。なので、できれば緩やかである事が望ましい……と言われている。
実際にどの程度の影響が出るのかはやってみないと分からない。この提案はそのテストも兼ねていた。
これらの強化は試合を行う際に使用しているポッドを使い実施する。これまでにこのポッドの性能実験のようなモノは済ませていて、打撲や裂傷などができた際に再生する事は確認している。再生後の結果だけでなく、修復される過程の動画まで用意してもらい、目視確認まで実施済だ。何気なく使用していたが、これは治療・手術装置も兼ねているわけで、この中に入るだけで施術は終了してしまうのだ。良く考えなくてもとんでもない装置である。
現代日本の裏側でどれだけセルヴァ技術が広がっているかなど知らないが、病院での治療は基本的に医師の手が入る。投薬による治療範囲、手術の簡易化・遠隔化が進んでいるとはいえ、やはり大規模に体を手を入れる場合は手術というのが俺の認識だ。それが、自動調理器具で調理されるが如く入って出てきたら施術済なんていう代物に違和感を覚えるのは仕方ない事だろう。普通に怖い。
「やっぱり、どうしても抵抗があるな。影響の少ないモノを選んだとはいえ、入って出てきたら別人って」
「今回のケースであれば、意識を残したまま途中経過をモニタリングする事も可能ですが」
「いや、途中経過を確認したいわけじゃない」
宇宙の外から意識を飛ばして現地のアンドロイドに入っている者には理解できないだろうとは思う。
「生体強化は必須というわけではないので、実施するかどうかはシンの意思にかかっています」
「でも、上を目指すなら必要なんだよな? 滝沢やりんごが求めているところに到達するために」
「私の場合は努力目標のようなもので必須ではありませんが、滝沢コウの求めているラインに到達するには一切生体強化を行わないというのは厳しいかと。最下級ランクではほとんど見かけませんが、早ければ次のランクから生体強化を受けた対戦相手とマッチングする可能性が出てきます」
わざわざ説明してくれたものの、その辺の事情は俺も把握している。どこかで絶対に必要になる事は分かり切っているから、早い内にって考えたのも俺なのだから。実際、データだけを見ればしばらくは装備の充実だけでどうにかなりそうではあるのだ。更にその先を見なければ不要だろう。
いっそ体のどこかに問題を抱えているなら迷う事もないんだが、俺の体は健常そのものである。一度でも痛い目をみればそんな事も言ってられないと思うのだが、それだとちょっと遅い気がするんだよな。
「よし、ちょっと意識切り替えてくる」
「少しでも抵抗があるなら、延期しても良いかと」
「いや、実施は確定だ。調整だけ済ませておいてくれ。数時間で戻る」
必要なのは確実。必須でなくとも今後を考えればどうせ手を出す事になるのは目に見えているのだ。ただ、割り切れていないだけの話でしかない。
なので、気分転換の意味合いも含め、地上に出て東堂さんに「俺、改造手術するんだ」的な体で話をしてみる事にした。
「すごいですね。目からビーム出るようになったりするんですか? まさか、変身できるようになるとか。漫画みたい」
「あーうん、悩んでたのが馬鹿らしくなった」
やはり、地下に引き籠もったままだといけないなとも思った瞬間だった。限られた空間、限られた環境の中では意識も閉塞するだろうと。
どうも東堂さんの医療知識はコールドスリープ以前のもので止まったままらしく、せいぜいが臓器移植のレベル。基本的には障害や欠損時に仕方なく行うもので、非常にリスクの大きいものという認識だ。強化のための部位交換やサイボーグ化など、漫画の中での極めて非日常的な出来事でしかない。
冷凍みかんの話や古書の雑学がなければ、むしろ俺側が困惑するレベルで認識が乖離しているだろう。現代人から言わせれば美容整形ってなんだって感じだし。
「はえー、すごいんですね未来。アンドロイドとかはいるけど、実はそこまで変わってないと思ってました」
「重大な損傷の場合は再生治療って時代だしね。治療以外で手を入れる人のイメージって、あんまり良くないんだ」
せいぜいがコンピューターと直接接続が可能になる電脳化くらいで、それだってあまり良いイメージは持たれてない。過去に行われ、現代でもどこかでは行われ続けているという不正や犯罪が原因だ。再生治療の補助を受けられない国での代替治療でも使われているが、そこから発生する犯罪が目立つせいでやはりイメージは良くない。再生治療でどうにもできない問題もあるのに、世の中にはフレッシュでない肉体を偏執的に忌避し、攻撃する者さえいる。
俺だってサイボーグ化などに子供のような憧れを抱いかないでもないが、それは創作の上での話だ。いざ自分がそういう立場に置かれると、そういった負のイメージと重なって躊躇してしまう。思った以上にその度合いは強かった。
「うーん、あたし的にそこまで問題な気がしないのは、そういう時代の差ってやつなんでしょうか。そりゃ見るからに外見が変わってたり性格変わったりしたら、距離をとるかもしれませんが」
程度によっては人格への影響だってあるだろうが、それなら人を的にしたり殺したりしてるほうがよっぽど大きいだろう。試合の対戦相手は厳密には死んでないという言い訳もできるが、例の的にした犯罪者は紛れもなく殺人だ。
「まあ、実際大した違いってわけでもないんだよな。少なくとも今回に関しては」
「戦士とか言われてますし、何かと戦うんですよね? 少しでも危険が減るならやったほうが安心できます」
「東堂さんが安心する?」
「え、あ、はい、そうですね。知らないところで怪我しそうで心配っていうのは少し思ってました、多分」
「よし、やるか」
実際どう思ってかなんて分からないが、あえて確認はせずに東堂さんを安心させるためという理由をでっち上げて強行する事にした。
勢いのまま、戻って即ポッドに入り、生体強化を実施。全身麻酔というか、意識を落としての施術だったので、俺としてはただ入って出てきただけで全部終わっていた。
今回の強化に要した時間は丸一日。全身の骨に手を入れる大手術と考えるなら異様に早いが、セルヴァ技術である事を考えるなら長く感じる。
これは強化の適用範囲が全身に渡っているのもあるが、初回である事が一番大きな理由で、一度手を入れた事のある箇所であれば二度目からはかなり短縮されるのだという。規模にもよるが、別系統の強化であっても最長で数時間、モノによっては数分まで短縮されるらしい。具体的にいえば、今後俺が全身の骨を総チタン製にしたいと思えば数時間で処置が終わるという話である。普通に怖い。
「うーん、違いが分からん」
「影響が少ない強化なので、当然かと」
強化適用後に軽く体を動かしてみるが、何も変わった気がしない。数値の上では別人と呼べるほどに全身の骨格が強化されているようだが、さっぱり体感できない。別に骨そのものを入れ替えたわけではなく、元々あるものの性質や密度を変更しただけなので当然ともいえるが、拍子抜けではある。東堂さんに会ったら忌避されるどころかがっかりされるかもと思ってしまうほどだ。いや、さすがにそんな面白がったりはしないだろうが。
とはいえ、数値上で見られる適応率はそこまで高いものではなく、長期的に馴染ませる必要はあるらしい。俺が違和感を持たないのも普段精密な動作をしてない事からくるもので、これが職人やアーティストと呼ばれるような人なら一発で気付くそうだ。実際、今の俺が最も精密な動作を要求される重火器の訓練を試してみれば、確かに多少の違和感を感じた。特に違和感……というか恩恵を感じたのは銃の発砲時だ。明らかに受ける反動が違う。
とはいえ、俺にとっては本当に誤差にもならない程度の差だ。こういった反動の大きい銃で戦っていた過去の兵士からすれば継戦能力などにも関わってくる問題だろうが、長くても数分の試合では気にする必要もない。
本来の目的は今後実施する筋力強化の土台とするのがメインで、骨自体への攻撃や負担の軽減はおまけでしかない。これらはとりあえずで違いを確認するものでもないというか、過去に骨折などした事がないので、試してみても違いなど分からないだろう。
「もう少し違いが実感できる強化はあるか? 可能なら試したい」
「現在のシンが取り得る行動で影響を受けやすいとなると……目でしょうか。特に動体視力に関わる強化であれば、分かりやすい上に恩恵もあるかと」
なるほどと思う。俺の視力は悪くはないが良くもない。日常的にも使う機能であれば影響は明白だ。
一度生体強化を受けた事でタガが外れた事もあるが、りんごの提案する視覚の強化を行う事にした。最小限の強化であれば問題ないだろうと思ったが、提案された案からして元々最小限だ。どうもデリケートな部分だから段階的に実施するべきという判断らしい。世の視力矯正のほうがよほど影響があるレベルだろう。
とはいえ、わずかな強化でもその変化は劇的だった。視力や焦点の切り替えが明らかに高速化してるのがはっきりと分かる。飛行ターゲットを使った訓練などは更に顕著に差が生まれた。
ただ、恩恵だけでなく弊害もあった。目を通してインプットされる情報量が増加したからか、異様に疲れるのだ。慣れの問題である事は分かっているので一時的でしかないが、段階的な強化で正解だったのだろう。
自分の感覚は正直アテにならない。慣れたと思ってもそれが表面上だけのもので、単に疲労に慣れただけという事態も数値を見れば明らかだ。信じるのは自分の感覚よりも適応率の値という事を思い知らされる。
-4-
そんな地味な強化の恩恵がはっきりと出たのは思っていたよりも早く、ランクアップしてから数戦目の出来事だった。
不意に鈍器による直撃を喰らい、確実に骨折したと思うようなダメージを受けたにも関わらず、骨折どころか罅一つ入っていなかったのだ。どうやら、今の俺は鈍器で殴られてもビクともしない骨格になってしまったらしい。
それはそれとして、強化していない皮膚や筋肉は正常にダメージを受けていたのが更に印象的だ。死ぬほど痛い。スーツの機能で鎮痛剤の自動投与がなければ、のたうち回った挙げ句負けていただろう。
油断したつもりは微塵もないが、甘くみると痛い目を見る事もある。ランクアップ先に待っていたのは、そんなステージだったのだ。
「……筋肉と皮膚の強化プランを用意してくれ」
「骨格の最適化を見る限り時期尚早かと。今回のケースで言うなら、どちらかといえば装備での対処が無難でしょう」
「だよな」
覚悟していた以上に痛かったので、弱音が溢れてしまっただけだ。腕の肉が弾け飛ぶような物理的ダメージは結構メンタルにくるものがある。すでに治ってはいるが、普通に夢に見そう。
りんごの言うように、今回のようなケースは生体強化よりも装備で対策を考えるのが妥当。銃で銃と戦う事を前提とした現代戦装備では防弾、防刃、防熱などの耐性はあっても衝撃そのものは緩和し切れない。各所の硬質プロテクターは関節や急所をカバーするもので、今回のようにジャケット部分を鈍器で殴られればダメージは甚大だ。近接戦闘を考慮するなら、直接的な防護装備の導入は必須だろう。
とはいえ、甲冑のように全身を覆う装備を用意するわけにはいかず、部分的なアーマーの導入が現実的だろう。動き難いのは当然として、コストの問題もある。
ちなみに、現代でも使用されている近接戦闘用のボディスーツをそのまま読み込ませたらコストオーバーする事は確認されているらしい。資料を見る限り、強化外骨格によるパワーアシスト付きだから当然だろうが。
「現在の装備をシン用に用意された同等品と置き換えていく事でコストの問題の回避可能ですが、ランクアップに伴うキャパシティー増加と販売品のラインナップ更新を考慮する必要もあります」
ランクアップに伴うそれらの変化は無視できない。これが勝率に陰りが見えてくるようなら急務だが、今のところは全勝で、今回の件だって戦闘中の負傷に過ぎないと言えなくもないのだ。
とはいえ、痛いのが嫌なのに何も対策をしないというのも問題だろうと、まずは装備の置換から開始する事にした。持ち込み品をシン用販売品の同等品に変更し、空いたコスト分で防具を追加しようというりんごの提案そのままのだ。
いっその事前時代的な鉄製の防具でもいいかとも思ったが、いざ試してみると無視できないくらいに重い。今回の負傷部位であるガントレットのみ装着しても、動作の遅れが目立つ。
同じ事を考える者も多いのか、こういった前時代的な装備は予め政府によって用意されていた。同じような事を考えた前任者がいたという事で、先人の知恵というやつなのだろう。
そして、なけなしのポイントで用意したアームガードを装備したところ、まったく活用の場がないままランクアップの条件を満たしてしまった。そりゃ攻撃を受けないのならそれに越した事はないのだが。
「それでは、ランクアップ申請を行います。処理期間中のトレーニング案はすでに提出済なので、今後の強化案と合わせてご検討下さい」
「ああ、分かった」
そんなわけで、ランクアップ後も特につまづく事なくストレートで昇格条件を達成できた。まだまだ装備の力でゴリ押しできるだろうと思う。
とはいえ、試合の様相は最下級から一つ上がるだけで様変わりしていた。身体能力や技術、装備は最下級と大差ないが、捨て試合だけでまともに戦う意思を持つ者すら少ない最下級ランクとは異なり、ほとんどの対戦相手は戦う意思を持っている。このランクにいるというだけで最低でも十勝はしているのだからそうなるのも必然だろう。
俺としてはこちらのほうが望ましい。ただの捨て駒、血の通っただけのカカシよりもよっぼど罪悪感を抱かずに済む。たとえ、偶発的に腕の肉が爆発するようなダメージを喰らう事があってもだ。
滝沢に聞いたところによれば、次のランクは今回ほどの違いは感じられないだろうとの事。全体的に強化されてはいるものの、ただやられるだけの存在は最下級だけで、心構えは似たようなものだからだそうだ。
加えて、装備などの面の優位性が多少縮まりはしても元々の差が大きい故に、結果として似たような事になるらしい。
日本のランキングでも俺はまだまだ最下位を独走中。しばらくは試用期間のような立場は続きそうだ。
『なんて事考えてそうな気がしたから、そろそろ個人レッスンの時間だ』
俺の浅はかな考えなどお見通しだといわんばかりに、滝沢から共同訓練のお誘いがあった。どんな内容になるかは分からないが、すでに試合より過酷な展開が待っている気がする。
場所はとりあえず地上の訓練場。継続的に実施する予定で、その際はシンの共用スペースを使うそうだが、管理官は抜きという時点で訓練だけでなく、メールでできないようなある種の情報交換も含んでいるのだろうとは思う。
というわけで、指定された訓練場にやって来たのだが……。
「あの……滝沢は?」
「シンって時間にルーズだからね。滝沢君も例に漏れずにといった感じさ。実は君が時間通りに来ててびっくりしてる」
待ち合わせ場所で待っていたのは、これまでに何度か訓練を担当してもらった柳さんだけだった。分からないでもないが、就職も近かった事で余計に厳格になっていた俺は呆れる他ない。
「とはいえ、今日指定されたメニューだと滝沢君はただの視察みたいなものだから問題ないといえばない」
「まあ、いいです。分かりました」
どちらにせよ強く言える立場ではない。パートナーとは言っても向こうの立場が上なのは明白なのだ。ここは飲み込んでおこうと思う。
「それで、今日は何を? 事前に知らされてたのは場所と時間だけなんですが」
「柔道、空手、合気道にボクシング、いわゆる格闘技の訓練だ。ただ、スポーツのそれじゃなく、実戦的な軍隊格闘術に近い」
なんとなく、体感温度が下がった気がする。二人しかいないのにこんな事を言う時点で、その格闘技の教官が柳さん一人であり、それらに精通している事が想像できた。
「実をいうと、この訓練の効果は良く分からない。シンにとって意味がない事かもしれない事は念頭に入れておいてくれ」
「前例がないって事ですか?」
「滝沢君の手を借りてメニューを組みはしたけど、この訓練の本質は着任直後のシン向けのものって事だからね」
ああ、なるほど。ようは上手くいくかどうかの試金石に使われてるって事か。こうして実施している段階である程度の効果は見込んでいるのだろうし、それ自体は構わないのだが……。
「あの、俺って格闘技の類はほとんど経験がないんですが」
多少は強化されているが、それは人間の延長線上のものでしかない。ド素人だ。
「そういう訓練だから問題ない。初歩の初歩から人体破壊も辞さない強度の訓練まで、私としても貴重な体験が得られそうだ」
「よ、よろしくお願いします」
柳さんの表情はにこやかだが、目は笑ってない。なんかちょっと楽しんでいる感がある。
俺の勘はこの訓練が有意義なものになると告げているのだが……正直、不安しか感じない。もう少し覚悟を決める時間が欲しかったところだ。
……まさか、そういう俺の思考を読んでいきなり予定に組み込んできたわけじゃないよな。
というわけで、作品切り替えでリターンの期間が重複した投稿選定も一段落。(*´∀`*)
次回からは通常営業に戻るので引き籠もりの続きです。
そろそろ、無限新一巻の情報も出せそう。