第四話:現状把握の為に 後編
「な、なななな、何するのよ、この変態! 変態、変態ーーーッ!」
腹を押さえながら蹲って痛みを堪えているリンネから素早く離れ、私は叫んだ。
唇にはまだリンネとキスしていた感触が残っていたので、心臓の鼓動がどんどん早くなっていく。
驚き、怒り、戸惑い、それが混ざり合って冷静になれない。ただキスされたという事実が私を縛り付ける。
思わず手の甲で唇を拭ってしまうけれど、体の火照りは収まりそうにない。……初めてのキスだったのにっ!
「……少しは落ち着きましたか?」
「お、落ち着ける訳ないでしょ! ち、近づかないで! じ、自分のモノにするってそういう事だったのね! 変態! ケダモノ!」
「嫌ですね、ただの姉妹のスキンシップですよ?」
「絶対嘘よ!」
痛みが引いたのか、キスしたというのにリンネは平然としていた。一歩でも距離を詰めたら今度は引っ掻いてやろうと唸って警戒する。
リンネは私の様子を見て小さく溜息を吐いた。それから目を細めて、憎たらしいまでの笑みを浮かべて私を見下ろす。
「躾のなってないお姉様ですね? 誓約の魔術の影響下であれば、私の意に沿わない事をしたらさっきみたいな苦しみを味わう事になると、まだわからないのですか?」
「……くっ! そうよ、解除! 解除しなさいよ!」
「お互い同意した契約でしょう? 解除したければさっきも言った通り、誰からも愛されるお姉様に返り咲けば解除されますよ。方法はそれしかありません」
「だから! それだったらあの女が、ホタル・ホムラさえいなくなればッ!」
「――お姉様」
突如、冷え切った声で諫めるように呼ばれる。その声に肩を震わせてしまい、言葉が萎んでいき、力を無くす。
笑みを浮かべていたリンネは無表情になり、冷え切った瞳で私を見下ろしている。まるで心臓を掴まれているような気持ちにさせられて、私は黙り込むしか出来なかった。
「ホタル・ホムラが悪いのだと言うのなら、彼女が消えれば全てが解決するんですか?」
「……」
「わかっているのでしょう? そんな事をしても、ヒュウガ様がお姉様に気持ちを向ける訳ないんです。ホタル・ホムラが悪いんじゃないんですよ」
……思わず拳を握り締めてしまう。わかってる、わかってるわよ。本当は私が悪い事ぐらい。でも、そんなの認められる訳ないじゃない。私は選ばれた存在なのよ? 〝そう生きる事しかわからない〟のに。
公爵令嬢として権力を使って何が悪いの? だって、それが私に許された権利じゃない。誰も私を叱らなかったわ。それが間違いなんて教えられなかった。
他人に優しくない? 誇りが欠けている? ――そう言うなら、なんで今まで誰も教えてくれなかったの?
「貴方も私を責めるの? 私が悪いって、私が間違ってるって!」
「いや、どうでしょう?」
「は……?」
「さっきも言いましたけど、全部お姉様の責任にするには環境が悪かったと言ったじゃないですか。あと、私は怒ってますから」
「怒ってる……?」
「――ヒュウガ様にも、ホタル・ホムラ公爵令嬢にも。あの婚約破棄に手を貸した者たち、全員に腹を立てています」
思わぬ言葉に私は顔を上げた。私を見下ろすリンネの顔は目付きが鋭くなり、険しい表情になっていた。
「勿論、お姉様にだって悪い所はあります。一番悪いのは誰かと言われたらお姉様でしょう。ですが、だからといってヒュウガ様たちが正しいとは思いません」
「……どうして?」
「こうなる前にお姉様を変えることもできなかったからです。仮面夫婦なんて貴族ではよくあるなんてわかってますよ。互いの不利益になるなら婚約を破棄しようとするのもわかります。皇帝が認めた以上、正当性のある断罪だったんでしょう。――それでも、ヒュウガ様はお姉様の婚約者だったんでしょう? じゃあ、貴方にだって責任はないんですか? って私は聞いてやりたいですけどね」
リンネが言った言葉に私はただ唖然とする事しか出来なかった。
それは私〝だけが〟悪いと責めるのではなく、ヒュウガ様たちだって悪い所があったと。
婚約破棄という決定的な事になる前に、私を変える努力をしても良かったんじゃないかって。
「義務はありませんけどね。結局、ヒュウガ様が選んだのはお姉様ではなく、ホタル・ホムラのような女性だったという事でしょう。でも、お姉様は本気でヒュウガ様のことが好きだったんでしょう?」
「……好きよ、好きだったわ」
「それが子供じみた独占欲なのか、本当に恋しくて恋い焦がれてたのか、愛していたと言えるものなのかはわかりませんけど……ヒュウガ様は、お姉様に本気で向き合ってくれていなかったという事じゃないですか?」
リンネの言葉は厳しい。厳しいけれど、今までみたいな激情は沸き上がって来ない。
「ヒュウガ様が婚約者の義理以上に何かしてくれましたか? 本気で向き合ってくれないのに、お前だけ変わって欲しいなんて都合の良い話だと思いませんか? どう思います、お姉様?」
「……リンネ」
「お姉様ははっきり言って最低の公爵令嬢ですよ。権力と身分を勘違いした痛い女です。傲慢だし、癇癪も起こすし、嫉妬に焦がれて悪辣な事もやります。――でも芯まで腐った愚か者じゃないでしょう?」
リンネが私と距離を詰めて、膝をついて私と目線を合わせる。
「話を聞かなかったお姉様も悪いけれど。誰もお姉様を救ってくれなかったのに、お前が悪いからって斬り捨てられて、納得いかないですよね」
「……ッ……、わかったように、言うじゃない……」
「当然じゃないですか。ずっと貴方を見て来たんですから」
リンネの手が私の頭に伸びる。優しく触れてくる手に、目の奧がカッと熱くなる。
「ずっと見て来たから、こんな方法でしか貴方を守れないって思い知らされましたよ。私が本気でぶつかっても、お姉様は私が憎くて、相手にする価値もないって思ってたでしょうから。だから戯れでしか貴方の目を惹くことができなかった。こんな騙し討ちの誓約を結ばせて、私の下に置くことしかできない」
「……なんで、私を守ろうとするのよ?」
「――たった一人の姉ですから。それ以上に理由はいりませんよ」
頭を撫でていた手は首に回され、リンネが胸元に私を抱え込むように抱き締める。込み上げていた熱が、涙になって落ちていく。
ただ苦しかった。苦しいから、リンネに縋り付いて吐き出すように泣いた。無様だと、頭の隅で自分が笑っている。それでも良かった。
雁字搦めになっていた鎖が解かれていくように、私は押し留めていた感情を吐き出した。悔しくて、憎くて、苦しくて、悲しくて。その全てを纏めて吐き出した。
――忌々しいほどに、リンネの体温は私よりも暖かかった。
* * *
「……別に感謝なんてしないから。魔術にかけられてるのも納得しないからっ!」
「はいはい」
すん、と鼻を鳴らしながら私は叫ぶ。だけど、リンネに視線を向ける事はできない。
リンネに私の想いを暴かれて、子供のように泣き喚いてしまった。あまりにも不覚、そして屈辱だった。それでも暴れたいという気持ちはどこかへと行ってしまった。
一度泣いたからだろうか。とても気持ちが軽いし、思考も冴えてきたように思える。でも冷静になってしまったからこそ、自分の醜態が恥ずかしいんだけど……!
「……それで?」
「はい?」
「……私はどうすれば良いのよ、これから」
私はリンネに今後の事について訪ねた。納得はいかないけど、私がヒュウガ様に婚約破棄を突きつけられたのは事実だ。これだけの醜聞を知られたら、流石のお父様も私を許さないだろう。
そういえば、リンネが私をあそこで連れ出さなかったら本来は修道院に送られるんだっけ? それは、多分私もそうなるだろうな、と思う。……だからってリンネが未来を知っていると認めた訳じゃないけどっ!
「お姉様はどうしたいんですか?」
「…………わからないわ」
「おや、ヒュウガ様はもうよろしいので?」
「……馬鹿らしくなったわ。どうやっても、もうあの人は私を見ないでしょう」
悲しくて、悔しくて、憎くて殺したくなるけど。でも、そうなんだから仕方ない。
好きな人に振り向いて貰えないなら、もう何を頑張ったところで意味がないなら、もう……どうでも良い。何もかもが。
「……そういう貴方は何がしたかったのよ、リンネ」
「私ですか?」
「えぇ、そうよ」
「私は、お姉様を守るのを第一に考えていましたよ。ヒュウガ様にもそれとなくお姉様とうまくやれるように誘導しようとしたんですけど……あの人、ちょっと潔癖症なところがありますから」
「潔癖症? ヒュウガ様が?」
「良くも悪くも正義漢なんですよ。皇族の義務とか、帝王学とか、そういうの詰め込まれてるせいで、お姉様とはまた違った意味で特権意識があるんですよ。だから不正も許せないし、曲がった事も嫌い。それが極端ですからお姉様と相性は悪いだろうなぁ、とは思ってました」
「……正義、ね」
正しい事。私がやった事は確かに正しくはない。だけど、それでもホタル・ホムラが許せなかった。平民だったくせに、いきなり私の婚約者と仲良くなって注目を集めてるんだから。
「お姉様とはお母様の一件もありましたし、お姉様が変わらない限りはどうやっても私の話は聞いて貰えないと諦めましたしね」
「……それで、あの契約書?」
「はい。何がしたかったかというと、お姉様が不幸な道に歩まないように決定的なところを狙って変えることが目的でした。それは達成できましたし、後は最悪、国外逃亡でもしてお姉様を養って生きていこうかなと」
「は? こ、国外逃亡って……!」
「嫌ですね、あくまで最悪の場合ですよ。あの正義の皇太子殿下が暴走でもしたらお姉様を国外追放するとまで言いかねなかったですから」
「……そこまでするの?」
「しますよ、正義の人ですから」
……私、国外追放される場合もあったのね。でも、そこまで皇太子に権限があったかしら? 流石にあり得ない話だと思うのだけど。
「まぁ、未来ではそこまでやったというか。というか、お姉様は処刑されてますしね」
「………………は?」
今、この妹は何と言った?
「私が、未来で処刑されてた……?」
「はい。あぁ、もうそうなる未来は変えましたし、私がそうさせませんからご安心を」
「…………本気で未来を知ってると言う前提で話すけど、どうしてそうなったの?」
「復讐ですよ。私が介入しなかった本来の未来だと、お姉様は修道院に送られた後もホタル・ホムラへの憎しみを忘れる事が出来ずにいました。そこを反皇帝勢力に目をつけられ、彼等の手引きでホタル・ホムラを暗殺しようとしましたが、ヒュウガ様によって阻止をされました。けど、このクーデターで現皇帝陛下がお亡くなりになり、ヒュウガ様が即位して皇帝に。その妻としてホタル・ホムラが迎え入れられ、お姉様は処刑されてしまいましたとさ」
……妹は、正気なんだろうか? そんな疑いの眼差しを向けてしまう。
「これが本来辿る未来だったんですよ。私は異分子ですね、歴史の介入者という奴です」
「随分と堂に入った妄想ね」
「でも、お姉様ならやるでしょ? ホタル・ホムラの暗殺」
「…………」
……ちょっと、否定出来なかったわね。
「まぁ、私がいる時点でもうそんな未来にはなりませんから安心してください」
「……その未来で、貴方はどうしたの?」
「私ですか? 遂に私に興味が沸いてきたんですね、お姉様」
「いいから答えなさいよ」
「そう語るような〝設定〟もないんですけどね、そのままミヅチ家を継ぐために婿を迎え入れて、平凡な人生を送ってたんじゃないですかね」
「今、設定って言わなかった?」
「さて、なんの事やら」
舌を出して誤魔化そうとするリンネに苛つきながらも、私は追及を止めた。これ以上、この与太話に付き合っていてもリンネのペースに持って行かれるだけだ。
「まぁ、もう起きない未来の事を話しても仕方ないじゃないですか」
「……そうね。結局、この後どうするのかって話をしてたのよ」
「そうですね。暫くお姉様は――私のペットです」
「…………は?」
「お姉様にはもう令嬢としての立場はありませんし、誓約の魔術の影響下にあれば私の命令には基本的に逆らえません。なのでペットですね! 大丈夫です、ちゃんと頑張ったら人間に昇格出来ますから! 心を入れ替えて頑張っても良いですし、諦めて私に飼われ続けるペットライフを過ごしても良いんですよ! ほら、未来は明るくて幸せですね!」
「どこが、幸せなのよーーーーーッ! この、馬鹿妹がァーーーーーーッ!!」