第三話:現状把握の為に 前編
「こうなると知っていた……? 何年も前から?」
私は信じられない思いでリンネの顔を見つめる。口が裂けんばかりに笑うリンネに恐怖すら感じる。けれど、目を離す事が出来ない。
「えぇ。お姉様が少しばかり自己愛が過ぎる方になる事も。ホムラ公爵家から出奔したご令嬢の生んだ、平民の子供が公爵家に迎え入れられる事も。その子供が皇太子を始めとした五色の公爵家のご令息と絆を深め、お姉様が嫉妬に身を焦がして破滅していく事も」
「……信じられる訳がないでしょう! そんな話が! それだったら貴方は未来を知っていた事になるわ!」
「えぇ、ですから誰にも打ち明けた事はございません。今、初めてお姉様に打ち明けましたから」
「貴方が裏から手を回して、私を破滅させようとしたと言われた方がまだ納得が行くわよ!」
敵意を込めてリンネを睨み付ける。未来を知っている? そんな馬鹿な話がある訳がない。
けれど、では何故リンネは先回りするように私に契約書に署名させたのかがわからなくなる。こうなるように仕向けて、リンネが未来を知っていると嘘を吐いている? そう考えた方が自然だ。
でもリンネの得体の知れ無さに一欠片でも可能性を感じてしまう。本当にリンネは未来を知っていたとしたら……?
「確かに私はお姉様と触れ合う時間はございませんでした。その間に陰謀を巡らせていたと言われれば、そうお考えになられるのもわかります。ですが、敢えて否定させて頂きましょう。それはお姉様の勘違いというものです」
「じゃあ、本当に未来を知っていたとでも言うの!?」
「はい、私はその答えしか返せません。あぁ、ですがご安心を。既に私の知る未来から外れておりますので、意味を持たないものとなっています」
「なんですって?」
「――本来であればお姉様は卒業パーティーの断罪後、修道院へと送られる予定でございました」
修道院送り、それは貴族令嬢として致命的な最後と言っても良い。事実上の家からの追放であり、そこで清貧を友としながら、この国を見守る神と神の御許に旅立った先人の御霊を慰める日々を人生の終わりまで続ける事になる。
もし、あそこでリンネが介入していなければ……父上だったらまずそうするだろうと考えた。母を失って以来、私には甘い父上だけど、家を守る為には私を切り捨てるしかない。
「まぁ、それで済めば私も暗躍しなくて済んだのですが……」
「何ですって?」
「既に私の知る未来から外れていますが、お姉様の不幸は修道院に送られるだけでは足らない程だったのです。その悲劇を回避する為には、お姉様が野に放られてしまうのを防ぐしかありませんでした」
「……私を惑わせようと、わざと不安を煽っても無駄よ?」
「そう思うなら、それでよろしいかと。知る必要もない未来ですしね」
「……ッ! 貴方の目的は何!? 一体、貴方は何者なのよ……!」
苛立ちに私は机を叩きながら腰を浮かせ、リンネを睨み付ける。リンネの深紅の瞳が私を静かに見返す。
「私の目的はお姉様を私のモノにする事ですよ。先程も言った通り、修道院などに入られては困るんです。ですから首輪を付けさせて頂きました」
「……ッ、そう! 結局貴方は私を逆らえないように跪かせたかったって訳ね! そんなに私が憎かったのかしら!?」
それしか動機が考えられない。私は散々、リンネの事を嫌ってきた。存在をないものとして扱ってきた。その報いを受けさせたかったのだろう、と。
煙に巻くように確かな事を言わないのも、私が悩み苦しむ様を鑑賞したいが為だ。そう考えれば全てに納得が行く。
屈辱と憤怒が全身に行き渡る。今にも飛びかかってしまいそうになるのを押さえ込みながら、リンネを強く睨む。
「――私が憎かったのは、お姉様でしょう」
ゾッとするような声だった。完全に熱がなく、低く響き渡った声は一瞬、目の前の妹のものとは思えなかった。
喉元に刃を突きつけられているような重圧感に私は足を震わせた。それでも膝をつかなかったのは、己の矜持がまだ残っていたから。
「……憎まれているのは知っていました。お母様を殺したのは――私ですから」
その声は酷く重苦しく、そして悲しい響きを伴っていた。私の震えは自然と止まってしまった。その時ばかりは、憎らしい妹が年相応に見えたのだから。
……拳を握った掌の内に爪が食い込む。認めるならば、何故。わかっているなら、どうして。
「それでもお母様をお姉様にお返しする事は出来ませんから。謝罪は致しませんよ」
「……理解出来ないわ。結局、貴方は私を一体どうしたいのよ!?」
混乱と焦燥と、ほんの少しの罪悪感。心に絡みつく感情を振り払うように私は叫んだ。
「良いでしょう。では、今後の話をさせて頂きたいと思います。お姉様、立って聞くのも辛いでしょう? どうぞ席にお座りください」
年相応の気配が消え、また得体の知れない雰囲気に戻ったリンネを睨み付ける。渋々と席につけば、リンネは机に両肘をつけて手を組み、その手の上に顎を乗せる姿勢を取った。
「まず、お姉様には誓約の魔術についてご説明したいと思います。この魔術は互いの合意した契約が履行された時、その効力を発揮致します。今回、お姉様に課した誓約は私への隷属……と言えば流石に行き過ぎなので、私の意に沿わない行動は制限されるという枷が嵌められたと思ってください」
「……ふん。つまり貴方の言いなりって事ね」
「私はお姉様の自由意志まで縛るつもりはありませんが、現在のお姉様の立場は吹けば飛ぶ程に脆いものです。何せ皇帝認可の上で婚約者であるヒュウガ様に婚約破棄を突きつけられ、貴族令嬢として致命的に詰んでいる状態です。短慮な行動は控えて頂きたいと思います」
思わず歯ぎしりをしてしまう。言われれば言われる程、今の状況が納得いかないし憎らしい。全てはあのホタル・ホムラが悪い……あの女さえいなければ。
「そして、この誓約の魔術ですが……永続的なものではありません」
「え?」
「原型である隷属の魔術は他者の思考までも支配する禁呪ですが、誓約の魔術は異なります。あくまで互いの合意があり、契約を履行する条件が揃ったと認識した時にのみ効果を発揮します。つまり、この契約を履行出来ない状態になれば自然と魔術は解除されるという訳ですね」
「……つまり、この刻印を消す事が出来るって事よね?」
胸元をなぞりながら問うと、リンネはもちろんと言うように頷いた。
「解除の手段は簡単です。お姉様が再び返り咲けば良いのです」
「……返り咲く?」
「誰からも愛される自分に戻ったと、自分が認識して、それを私も認めたという合意が取れた時にこの誓約は解消されます。そもそも契約の条件が〝お姉様が全てを裏切られた場合〟ですからね。その状況が解消されれば……」
「……私は、自由になれる?」
「はい。まぁ、お姉様に解消出来るとも思えませんが」
ははっ、と笑うリンネに思いっきり神経を逆撫でされた私は憤怒に震えた。
「……ホタル・ホムラさえいなければ、こんな事にはならなかったのよ……!」
「あぁ、それはないかと。ぶっちゃけて言えば、お姉様は皆から疎まれてますし」
「…………は?」
「冗談抜きで、我が公爵家の屋敷の中でも評判が悪いのですよ?」
何を言われたのか理解が出来なかった。いや、理解をしたくなかったのかもしれない。
私が、このあらゆる全てに恵まれた私が、疎まれていると……?
「今、天に選ばれた自分が何故? とか思いませんでした? そういう所ですよ」
「そういう所って何よ! 私は――!」
「傲慢極まりない、自分の才能や身分に酔った勘違い女。それが世間一般でのお姉様の評価ですよ」
がつん、と頭を思いっきり殴られたような衝撃が走った。思わずよろめいて机に手をついてしまう。
「そ、それは……ただのやっかみでしょう!? 事実、私は恵まれていたもの!」
「やっかみだろうとなんだろうと、その声が揃えばそれが世間の評価だと言う事です。自己愛が過ぎるんですよ、お姉様は。ナルシストですか?」
心臓を突き刺されるような言葉に突っ伏しそうになる。ナ、ナルシスト……? こ、この私が……? 由緒正しき公爵令嬢であり、美貌にも才能にも恵まれた私が、勘違い女……?
「お父様も甘やかしすぎたんですよ、だから自分と他者との距離感を計れないようになった。お姉様だけの責任と言い切るには、我が家の環境が良くありませんでしたからね。お姉様、お母様にそっくりですからお父様も強く言えないみたいですし」
「…………皆、私をそう思っていたと………?」
「ぶっちゃけ、ヒュウガ様に姉の事で困ってないかと聞かれた事があったぐらいですよ」
臓腑を抉りぬくような衝撃が走って、今度こそ机に額を打ち付けた。
確かに私は母にそっくりだと言われる。記憶では朧気な母も、残された肖像画からその姿を見る事が出来た。その肖像画を見て、自分でも似ているとは思っていたけど。
だからお父様が私に強く注意出来ず、私は勘違いしたまま成長してしまったと? それが世間からの私の評価……?
「愛されていると豪語していたお姉様ですが、愛ではなく哀ならたくさんありましたね。哀れみという奴です」
「うるさいわよッ!」
「今ならお姉様も、嫌でも自分の立場を思い知らされたでしょう。でなければ、この苦言を呈した所で聞く耳を持たなかった。違いますか?」
「……うっ」
……それは否定出来ない。今だからこそ、何故と疑問を抱いてしまうから飲み込めているだけだというのは自分でもわかっている。
でも認められない、認めきれない、認めたくない。私が愛されていたんじゃなくて、哀れまれていたなんて。そんなの許せない、だって私は恵まれて、選ばれた存在なのに。
「……あぁ、そう。皆そうやって、私を嘲笑ってたのね」
そんなの、私が馬鹿みたいじゃない。
恵まれた存在だと豪語して、世の中が自分の思い通りになるって当たり前だと思っていた。その資格が私にあると思っていた。そんな私を思い込みの激しい女だと、皆笑っていたのか。
悔しい。憎らしい。皆、皆、皆、私を嘲笑っていた。そう思えば全部を滅茶苦茶にしてやりたかった。あぁ、私を嘲笑う奴なんて、皆、死んでしまえばいいのに!
――そこまで思った瞬間、今までで一番強く心臓が絞られるように痛んだ。
「ァ――……ッ……カ……ひゅっ……ぁ、げぇ……っ! ……ッ! ――ッ!」
心臓を抑えて、椅子から崩れ落ちるように倒れる。呼吸が出来ない。体から心臓以外の感覚が失せてしまったように痛い、そして苦しい。
ぱくぱくと無様に口を開けて、藻掻くように心臓を抑える。何度も死ぬと感じさせられた痛みが、今までよりも強く襲いかかって来る。
(し、ぬ……いた……い……くる……し……)
痛すぎて、苦しすぎて、もう何もわからなくなる。ただ、ただ、怖かった。自分がなくなっていくのが恐ろしい。
(――たす……け……て……だ、れか……)
縋るように手を伸ばす。涙で滲む視界は何も映さない。意識が沈んでいきそうになる。
その途切れそうだった意識を浮上させたのは、唇に触れた柔らかい感触だった。
呼吸が出来なかった私に、まるで息を吹き込むように。その送り込まれた息で私の体が熱を失っているのがわかった。
冷え切った体を満たしていくような温もり。一息ごとに命を吹き込まれているような安堵感。唇に触れる温もりは溺れてしまいになるほどに、甘く全てを痺れさせていく。
夢見心地になり、すっかり体から力が抜けて――そこで、ようやく自分が何をされているのか理解した。
――リンネにキスをされている、と。
「ふんにゃぁ――――ッ!!」
「ぉげふっ!」
自分でもよくわからない奇声が飛び出て、リンネを引き剥がす為に繰り出した貫手が彼女の鳩尾を貫いた。