第一話:運命の日、来たれり
――生まれた時から全てを持っていた。
恵まれた家柄も、未来を約束された地位も、誰もが平伏す美貌も、人よりも優れた能力も。何もかも、全ては私の手の中にあった。
私を羨む者達からの声がする。傲慢だと囀る者達に私は鼻で笑ってみせた。それは届かず、持たざる者達の劣等感から出た言葉だと信じて疑わなかった。
『――そんなに自分が愛おしいのですね』
そんな記憶に混じって、ノイズのように残る声がある。
『そんなに世界に愛されていると豪語するのであれば、一つ賭けをしてみませんか?』
『賭け?』
『もしも。そう、もしも貴方が世界に裏切られて全てを失うのなら』
頭に血を昇らせた、あの忌々しい声がこびりついて消えない。
『――もし、そんな〝あり得ない時〟が来たら。私のモノになって頂けませんか?』
今の私であれば一笑に付しただろうか。けれど、その時の私はまだ幼く、そして〝彼女〟はもっと幼かった。
だから売り言葉に買い言葉。私はその挑発に乗ってあげた。もしも、そんな時が来たのであれば頭を下げても良い、と。
『まぁ! 嬉しい! でも、そんな日が来ない事を祈っておりますわ。だって私は世界よりも、何よりも、誰よりも、貴方を――愛しておりますから』
子供の戯れだと思い、私は遊びに付き合うつもりで用意されていた契約書に自らの名前を書き記した。
* * *
「――ウルハ・ミヅチ公爵令嬢! 今日を以て貴様との婚約を破棄する!」
私――ウルハ・ミヅチは呆気にとられていた。
婚約破棄という有り得ぬ宣言を突きつけてきたのは、我が国――イツノカミ帝国の皇太子にして次期皇帝であるヒュウガ・カミガネ。私の婚約者である筈の男だ。
この国の皇家の特徴である漆のような黒髪、空に浮かぶ日輪を思わせるような黄金の瞳、何より異性の目を惹くこと間違いなしの美貌。まさに絵に描いたような皇太子そのものである。
そして私が何よりも愛おしい人だった。その愛おしい筈の人から向けられる視線には、親愛の色など一切存在しなかった。薄汚いものを見つめるような、侮蔑の色しか感じられない。
「な、にを……! 一体どういうつもりですの!? ヒュウガ様!」
「最早、貴様の所業に我慢ならぬ者は多くいるのだ。ここに貴様の罪を詳らかにし、我が婚約者に相応しくない事を証明する!」
私を忌々しげに睨み付けるヒュウガ様に息を呑みそうになりながらも、私は認められないという思いで彼を睨み返す。
今日はイツノカミ帝国の貴族たちが通う学び舎、オモイノカネ帝立学院の卒業パーティーだ。
その卒業パーティーの最中に婚約破棄を突きつけるなどと、あまりにも前代未聞の事態だ。皇太子といえど許される所業ではない。
常識がないのはヒュウガ様の方だ。しかし、そのヒュウガ様の隣に並んで私を震えながらも睨んでいる女に私は歯噛みしてしまう。
山吹色の髪に、空色の瞳。顔立ちは確かに愛らしいけれど、その瞳には決して折れぬ芯のようなものを感じてしまう、あまりにも忌々しい女がそこにいる。
「……私の罪ですって……? 婚約者である私を放置し、その浅ましき出自の女を隣に侍らせて突きつける罪とは何だと言うのですか!?」
私の唸るような叫びにヒュウガ様に支えられた女――ホタル・ホムラは肩を震わせたものの、負けじと私を睨み返してきた。
イツノカミ帝国には頂点とする皇家、そして皇家の直下に五つの公爵位が存在している。その公爵家の一つである〝赤〟のホムラ家、ホタルはそのホムラ家の令嬢だ。
しかし、彼女の出自には汚点がある。それは、彼女は貴族ならぬ出自の娘だと言う事だ。現ホムラ公爵の娘が家から出奔し、平民と恋に落ちた。そんな恋物語の末に生まれたのがホタルだ。
つまりホムラ公爵にとっては孫娘にあたるホタル、しかし彼女は平民の子として育ち、貴族として迎え入れられたのは最近の事だった。
ホムラ公爵が病にかかり、己の余命が少ないと悟ってから思う事があったらしい。そして、袂を別った娘との復縁を望んだ。しかし、この時既に公爵の娘はこの世を去っており、ホタルは父親と二人で暮らしていた。
かつて平民の男を受け入れてやる事が出来ず、娘を自分よりも先に死なせてしまったと後悔したホムラ公爵が娘の夫と和解し、ホタルの今後の為に令嬢として迎え入れたのが最近の事だ。
そんな出自がある故、ホタルに向けられる目は厳しいものだった。良くも悪くも貴族らしくない彼女は注目を集める。気に入らないのは、そんな衆目の中からホタルに恋心を抱く者が現れた事だった。
その中に私の婚約者であるヒュウガ様もいるという事は、私にとって許せぬ事であり、ホタルへの憎悪を抱かせるには十分な出来事だった。
「ホタルは浅ましい出自などではない。国に正式に認められた〝赤〟を担うホムラ侯爵家の令嬢だ。〝黒〟を担うミヅチ公爵家と立場は同じ、貴様とホタルの間に差など存在しない!」
「平民として育った女に、貴族の何がわかるというのですか!」
「貴族としての品位を決めるのは生まれや育ち、立場だけではない! その身の内に秘める誇りと魂が品位を決めるのだ! ウルハ、貴様にはその品位が欠けている!」
突き刺すような言葉が私の胸を抉る。愛おしく思っていた人からの否定は、思わず足を震わせてしまう程の衝撃を私に与えてきた。
「何故……そのように仰るのですか! 私は!」
「貴様がホタルに仕掛けた数々の陰謀! それを私が知らぬと思ったか! 学院内で己の派閥に属する令嬢に嫌がらせを命じさせ、私物の盗難から破損、更には暗殺の企てまでもあったそうだな! 陰湿な女だ、そんなに皇太子妃の地位が惜しいか!」
私の言葉を遮りながらヒュウガ様が叫ぶ。その瞳には怒りの激情が宿っていて、私は息を呑んでしまう。
「……記憶にございません。一体なんの事でしょうか?」
内心、舌打ちをしながら私は歯を噛みしめる。確かに私はホムラに対して陰湿な手口で虐めや、彼女の孤立を企てた。だが、それはホムラが悪いのだ。彼女が、私のヒュウガ様に近づくから……!
婚約者がある以上、みだりに異性と触れ合うべからず。なのに! この女はさも親しげにヒュウガ様と心を通わせていたのだ! 許せる筈もない!
「しらばっくれても無駄だぞ、〝黒〟の。既に証拠は上がっているからな」
「そーそー。大人しく罪を認めちゃいなよ、往生際が悪いなぁ?」
「お前がホタルを、我が従妹を害為そうとした企みの証拠は我等が手中にある!」
「な……!」
私は思わず驚きに目を見開いてしまった。まるでホタルを庇うように現れたのは三人の男性だ。
それは私の〝黒〟のミヅチ家、ホタルの〝赤〟のホムラ家と同じく、色を冠する公爵家の跡継ぎたち。
〝青〟のキリュウ家、〝白〟のシトラ家、〝黄〟のコウリン家。そして、ホタルとは従兄弟の関係に当たるホムラ家の次期当主。皇家に仕える貴族の中でも頂点に君臨する家の子息達がここに揃っていた。
彼等がホタルと親しくしていた事を思い出し、私のホタルへの憎しみが更に渦を巻いていく。
「もう言い逃れは出来んぞ、ウルハ。幾ら〝黒〟のミヅチ家の令嬢であっても、貴様の行いは認められぬものだ。父上から既に許可は頂いている。この婚約破棄の一件についての責任は私に一任されている」
「こ、皇帝陛下がお認めになられたというのですか! こんな非常識な弾劾の場を!」
「前例にはない。しかし、誰かが道を拓き、貴様のように人を虐げても良いなどと思い上がる者に知らしめなければならない!」
確固たる決意を以て、ヒュウガ様は私との決別の言葉を口にした。その言葉に、私は今まで信じてきたものに罅が入ったのを感じた。
生まれた時から全てを持っていた。ミヅチ家という名家の令嬢として生まれ、次期皇妃という立場も得て、人が羨むような美貌があった。皇家の色ともされて縁起が良い黒髪も、何もかもが私を祝福をしていると思っていた。
人の上に立つ者として必要な教育も、振る舞いも身につけたと思っていた。愛されて当然だと思っていた。けれど、ヒュウガ様の愛が私に向けられる事はなかった。その視線の先にいたのは――ホタルだった。
許せなかった。ただ、ただ許せなかった。だから排除しようと思った。彼女さえいなくなればとすら思った。それは認める。だって、そうじゃない。私は頑張ってきたのよ、愛される為の努力をしてきたの。家に相応しい令嬢であろうとしたわ。
なのに、それをポッと出の平民の女に奪われるの? 許せない、そんなの許せない! 許せなかった!
「ヒュウガ様! 私は! ただ、貴方様をお慕いして……!」
「……貴様の自己愛には付き合いきれん。私が自らの伴侶に求めるものは、民への愛と献身、そして誇り高き魂だ! 己の罪を認め、悔い改めよ! ウルハ! それが貴様に渡す、私からの最後の慈悲だ!」
――私は、愛されてしかるべき。なのに、私は誰からも愛されていない……?
右を向けども、左を向けども。私に向ける表情は恐れか嘲りのどちらか。私を庇い立てようとする者も誰一人いない。
あれだけ私を褒めそやしていた令嬢も、私を見て頬を赤らめた令息も、誰一人として私の前には立ってくれない。
あぁ、こんなの。酷い、酷い裏切りじゃない……? だって、私は、そうするのが正しいと、そう教えられて生きて来たのに。
(こんなの、嘘よ。だって、私は――)
愛される為に生まれてきたんじゃないの?
罅が、亀裂になる。亀裂は二つに裂けて、私という今まで積み上げてきたものを粉々に砕いた。
私は崩れ落ちていた。足に力が入らない。とても無様で、愚かしくて、救えない。ただの道化でしかなかったのだと突きつけられる位なら、いっそ息の根を止めて欲しかった。
――かーごめ、かーごめ♪
そんな時だった。私の耳に〝歌〟が聞こえてきた。
肌が粟立つ。体が震え、寒気が走る。全身を抱き締めても抑えられない。
これは何? まるで魂が掴まれているような、そんな言い知れぬ不快感に私は喘ぐように息を零す。
「な、なんだ……!? 一体何者だ!?」
突然聞こえてきた歌はヒュウガ様にも届いていたらしい。私を断罪せんと集まっていた者達も揃って困惑の表情を浮かべていた。
悪寒は止まらない。溜まらなく不愉快だ。なのに、どうしようもなく……――怖いのだ。
「――籠の中の鳥や。いつ、いつ、出会う?」
声は、背後から聞こえてきた。いつの間に、そんな至近距離にいたのか。
嗤う歌声の主は、私の背後にいる――!
「――後ろの正面、だぁれ?」
するりと、首に絡む手。ひぃっ、と悲鳴が出たけれど、それ以上の声が出ない。
さらりと頬に触れ合った髪の色は、不吉さを醸し出す白色。私を横から覗き込む瞳は深紅。肌は白む月のように白い。蛇のように絡んだ手の指先が私の頬を撫でた。
「――こんばんは、〝お姉様〟? お約束のものを頂きに参りましたわ」
「リンネ……! 何故、貴方がここに……!?」
――リンネ・ミヅチ。
私の妹にして、昔から〝目に入れない〟ようにしてきた存在がそこにいた。
白の色彩が目立つ癖に、その身に包むのは黒の装束だ。白さを際立てる黒が、本来は吉兆を感じさせる色なのに、彼女の不気味さを際立たせている。
「あら、あら! 今、言いましたわ。お約束のものを頂きに参りましてよ、お姉様!」
「や、約束……?」
一体、何の事……? そもそも、今まで同じ家に住んでいても関わり合いを持たなかったリンネと交わした約束など、私には心当たりがない。
そもそも、ここはオモイカネ帝立学院。関係者以外の立ち入りは出来ない筈、部外者の妹がどうやって入って来たのかもわからない。
「君は……リンネか? 何故、ここにいる?」
ヒュウガ様が困惑したようにリンネに問いかけた。ヒュウガ様に問いかけられたリンネは、私を抱き締めていた腕を離して優雅に一礼をしてみせた。
「ご無沙汰しております、お義兄様。いえ、既に婚約破棄を突きつけた後でございましたね? であれば兄と呼ぶのは相応しくございませんでした。改めてご機嫌よう、ヒュウガ様。リンネ・ミヅチ、今日という喜ばしい日に祝福の言葉を贈らせて頂きたく思います」
「あ、あぁ……い、いや! そうではない! 学院関係者でもない君が一体どうやってここに!?」
「――〝魔術〟で、ちょちょいと?」
小首を傾げてリンネは返答した。
魔術とは、イツノカミ帝国で研究されている魔なる力を鎮め、操る術である。貴族であれば取得が必須とされる、帝国の国力を担うものでもある。
このオモイノカネ帝立貴族学院でも教育に組み込まれているものでもある。その魔術を行使して、この会場に忍び込んだと?
「馬鹿な……! ここの警備は帝国の中でも強固なものだぞ!? 君のような子供が入り込める筈がない!」
「まぁ、これでも十五歳になるのですよ? この学院にも通う事が出来る年齢、たかが子供と断じられるのは如何なものかと? それよりもそろそろ、本題を済ませても?」
「本題、だと……?」
「えぇ、えぇ! ヒュウガ様によるお姉様の断罪など、私の目的の前には前座に過ぎませぬ! いえ、いえ! むしろよくご決断をなされたと拍手喝采をしたい思いでいっぱいでございますわ! ヒュウガ様!」
ケラケラと、狂ったように嗤うリンネの異様さに誰もが引いている。先程までの私が愚かな道化だとするなら、リンネはその奇異なる言動で注目を集める意味での道化だった。
「リンネ、今日の一件は限られた者しか知らない筈だ! 何故君が知っている!?」
「何故でしょう? いや、何故でしょう? 何故だと思います!? わからないでしょう、わからなくて良いのです! 今日、私の達成される目的の前には全てが些細なのでございます!!」
そう言いながら、リンネは懐から一枚の〝紙〟を取り出した。私がそれを見た瞬間、忘れていた記憶が蘇った。
あれは、そう、普段は存在をないものとしていたリンネと珍しくお茶会をした時の事だった。リンネに売られた喧嘩に私が乗った、その時の戯れで私が署名した――。
「――お姉様、貴方は世界に愛されるような女性ではありませんでした。全てに裏切られた気持ちはどうですか? 誰も貴方を救わない現実はどんな味でしたか? あぁ、さぞ胸を痛めた事でしょう。ですが、ご安心を」
「ぁ……あぁ……!」
逃げなければ。一体、どこに? わからない。そもそも何故? わからない。けれど、わかる。
あれは不味いものだ。どうして気付かなかった。どうして署名をした。
あれには魔術が込められている。絶対に良くないものだ。私の魂がそう感じ取っている。だから、逃げなければならない。
――どうやって? だって、あぁ、もう。私の魂は、既に縛られているのだから。
「あ、あぁぁああああッ! あぁぁあああッ!?」
リンネの持つ〝契約書〟が白い炎に包まれて、燃え落ちた。その白い炎は私の胸元へと飛び込み、私の肌を焦がす。
何かが刻まれていく。焔が私の胸を焦がしながら形を変えていく。私の身を灼きながら魂に何かが〝書き足されていく〟。
自分という存在に何かが書き足されていくという感覚に、私はただ絶叫した。そんな私を、口が裂けんばかりに嗤ってリンネが見下ろしている。
「――これで、貴方は私のモノ。大丈夫ですよ、お姉様。世界の全てが貴方を否定しても、私だけは貴方を愛してあげますから」
あまりの不快感に胸を押さえながら前のめりに手をつく。頭を垂れるようにも見える私にリンネが囁く。
その言葉が何を意味しているのかわからないまま、私の意識は闇に落ちていった。