感情
僕の乗る電車はいつも同じ終電を待つローカル線だ。
時間が変わってもそのルーティンは変わらない。
乗車扉が開く頃には、両耳にイヤホンが取り付けられており、外界の音を全て絶っている。
耳から垂れるコードを追いかけると右手に収まったスマートフォン。
開かれたページには、明日の天気が記されている。
下の方には幽霊のキャラクターが同じ動きを繰り返す広告がこちらへ主張していた。
天気予報や細かな情報を読み取ると、幽霊キャラへと戻り、四角く貼られた広告の右上を軽く押す。
このような広告は見慣れている。
そのまま画面を消してしまえば、消えてしまうことと知ってはいる。
だが、どうしてもヘッダーを押してしまうのをやめられない。
不意に僕の瞳に映り込む君の姿が重なって、脳内に流れた。
同じような情景を僕は何度も現実で見ている。
「ねえ」
目を瞑った。
なんとなく深い低音で流れる音楽に意識を落とす。
それでも、少しでも動揺した時は必ず君が僕の世界に映り込む。
電車に揺られる中、僕は過去にあった出来事などを走馬灯のように思い出していた。
「ちょっと、無視しないで」
なんだか、うるさいな。
会話ならこんなに近くでしないでくれ。
自分自身と向き合う小さな時間の中に、怒気を含んだ女の子の声が遮った。
感覚的に僅か数センチの距離。
耳元の横から声がした。
イヤホンで塞がれた耳でもまともに聞こえてきてしまう。
ブチっ。
「……イタッ」
右耳が痛い。
触った感じ血は出ていない。
外傷はなくともかなり痛い。
何が起きた?
「やっぱり。声は出るんじゃない」
なんだ?この人。
耳の痛みに意識が行き過ぎていたが、痛みよりも元凶だと、故意に外された右耳のイヤホンコードを頼りに目で追った。
何処かで見たことある顔だ。
「元々噂なんて信じてはいなかったけど、よかったぁ。ちゃんと話せる人で」
僕のイヤホンを握ったままに目の前の女の子は悠長に話し出した。
見たことはあるが、誰だったかはわからない。
僕が知っている顔なんて、本当に両の掌一杯にしか収まらない。
当然、目の前でニコニコとはにかんだこの人は含まれているわけがない。
だが、そんなことよりも大事なことがある。
ぞんざいに扱いたくはなかったが、無理やりコードを引っ張り。手元にたぐり寄せた。
よかった。どこも切れてないし、外傷もない。
いつまでも握られていては、何をされるかわからない。その不安を先に排除したかった。
「ちょっ。いきなりは危ないよ!」
唐突な事に彼女は反応鈍く。バランスを崩しながら、そう口を開いた。
電車の中は、揺かごのように揺れ動くもの。
そこに別な引力がかかれば、自然とバランスを保ちにくくなる。
不運な事にこの時、引っ張った方に電車がガタリと傾いた。
もう。今日は本当についていない。
大きく揺れた車内でドン。と正面から衝撃を受け止めた。
ドクリッ。ドクリッ。ドクリッ……
目線を下にさげれば、時速何十キロと走る車内で、僕の胸元に彼女が重なっていた。
鼓動が速く脈打ち始める。
呼吸もいつもの何倍以上に空気を取り入れづらい。
更に、女の子特有の香りがふわりと僕の鼻先を撫でた。
「ご、ごめん!?私何してるんだろう。本当にごめんね。わざとじゃないよ。そ、それにさっきのはどちらかというと君が悪いよ!いきなり引っ張るんだもん」
「……」
この感覚はやばい。
謝るなら早く避けるのが常識だろう。
いつまで抱きついている。
人肌から感じる温もり。
少し暖かくなってきた気候からか体温がお互いに高い。
普段ならば気にもならない呼吸の音すら、漏らすことなく鼓膜を刺激する。
お互いを隔てる薄い布越しに柔らかい感触を肌で感じてしまう。
顔を赤らめて、申し訳なさそうに離れようと上体を起こす仕草をしてはいるが、タイミング悪く駅のホームに停車された電車に、人が押し寄せてきた。
後ろからかかる圧力に、踏ん張りが効かないようで、一向に抱き合う形が解除されない。
なんなら一層僕への距離感に拍車がかかる。
「んー!ほんとに度々ごめんね。んっ。やっぱり動けないや。次の駅まで我慢してもらえないかな?次で私降りるから」
下から上へと覗き上げた形で紡がれる言葉にチクリ。と心臓に痛みが走る。
血が出るような痛覚ではなく。どちらかというと、針治療を受けた時のような、気持ちの良い痛み。
しかし、確実にあったその痛みを僕は胸の奥底にしまい込んだ。
いつだって、僕には関係ない。今感じた気持ちも、もう僕は知らない。
「……」
彼女は未だにやいやいと囃し立てるが、僕は返事をしない。
自分の中で完結させた僕は、窮屈に押し込められた車内で、ゆっくりと右手にあったスマホを抱きついたままに離れない彼女の頭の上へと置いて構える。
「ちょっと。な、何してるのかな?」
まだ、何か言っているようだが、僕には関係ない。
彼女の言葉を無視して、先程まで見ていたニュースの記事の続きをスクロールする。
「なっ!?女の子に抱きつかれてるのに、普通にスマホいじってる!?」
もがくように頭を振る彼女にも、僕の見ていたサイトがチラリと見えたようだ。
ずっとうるさいなこの人。
別に僕は関係ないだろ。
偶々、こんな姿勢になっただけ。
それに……、今日はよく見かける。
騒がしく僕の下で暴れる一人の女の子。
近くでは知らない若年夫婦が和気藹々と話している。
そして、その向こう側にまた君はいた。
どうして。
僕は何もしていないのに……。
「ねえ。ねえ。私達って側から見たらカップルに見えそうじゃない??どうかな?」
「……うるさい」
あ……。
やってしまった。
「あれ!?い、今喋った??うそ。喋ったよね!ね!」
本当に煩く苛立ちがこみ上げ、つい言葉が出てしまった。
それに対して、怒られたにも関わらず、さらに勢い増して騒ぎ始める彼女に、流石の僕ももうどうでも良くなった。考えるのもめんどくさい。
「はぁ。もう、僕に話しかけるな」
無意味な言葉は会話の糸口になってしまうから、話さないだけに過ぎないわけだが、この人にはまあ関係ないだろう。話しても話さなくても結果は何も変わらない気がした。
だが、彼女からすれば僕の一言は大きな意味を持つらしく。未だにスマホに視線を落とす僕の頭の下で、ニヤニヤと嘲笑を浮かべていた。
はぁ。それでも、勢いに任せて言うもんじゃないな。
落ち込む僕の心と裏腹に彼女は何やら、誇らしげだ。
また、僕は彼が気になった。
スマホを見ながら、向かいの窓をジッと見る。
彼女は気づかない。周りの乗客も皆が見えていない。
そこにいるのに。
いつから僕を見ていたんだろう。
彼女が僕に抱きついたところから?それとも、その前にはもう……。
「ねぇ!もう一回何か喋って見て?お願い!」
まあ、いい。どうせ、いつから見ていたとしてもどうせまた消えてしまう。
電車の中だというのに、はしゃぐ彼女の言動を聞き流しながらも、僕にしか見えない彼の姿を見つめては瞬きをして、時にスマホを横目に確認する。
そんな作業のようなことをしていると、見つめていた視線は何処かに消えて、僕に絡まった重みや周囲を埋め尽くしていた人の群れの動きが出口へと流されていった。
「おっと。やっと抜けたぁ。それじゃあね。神川くん。また、明日!」
しばらく意識することもなく抱きついてはなれなかった彼女は、いつのまにか出口を抜けており、去り際に”神川くん”と僕の名前を告げて、最後に電車から駆けるように、出て行った。
「あ……」
なんで、僕は見てしまったのだろう。
彼女が駆けていく後ろから捉えた彼女の姿が、羞恥心を隠すようなそんな急ぎ足から。白く綺麗な肌の中で、耳だけが真っ赤に染まり、自己主張する可愛らしくも初々しい女の子らしさ。
何故か、またドキリ。と胸を指した。
何を考えてるんだ僕は。
僕がそんなことを考えてはいけない。
短く声を漏らした僕は、先程の情景と変な妄想に掻き立てられ、感じたこともない激痛に胸を抑えた。
だめだ。見られたくない。
背中越しにあったもう一つの扉を正面に向き変えて、首を折り曲げては、頭を真下へずらす。
誰にも顔を見られないように。
振り向きざまに車窓から写った僕の顔は、首から耳から顔いっぱいに赤く染まり。自分でも見たことのないような羞恥心に崩れ切ったそんな表情だった。