最終章 そしてファイナル・ファンタジー
終章 そして ファイナル・ファンタジー
あれから二十年の歳月が流れた。
トシは大和の宮殿。大王の執務室にて机に肘を、顎に手を当てがい、静かに物思いに耽っていた。
「年をとったものだ。年だけ・・とった」
取り巻きの役人連中は、皆「全てうまくいっております。大王の治世に栄光あれ、大王万歳!」などとオベンチャラを唱和するが、トシには苛立ちがつのるばかり。実は求めている全てがうまく運ばない。本来、ここには壱与様がおられるはずなのに・・。
奈良・大和を制圧した後、トシとケンは、この地域一帯に倭国の中核をなす都市を建設していた。ヤマタイ式の政治体制を浸透させるべく働いて来た。
農業指導、土木工事による灌漑システムにより食糧増産が図られ、飢饉が起きた地域には支援が確約される。傘下の民衆には、トシ達、ヤマタイ政権への信頼が醸成されていた。この地にはヤマト学園が開校され、各地の豪族の子弟たちがヤマタイ式の行政ルールを学び、各地のヤマタイ化が加速される事になった。
宗教的にも伊勢神宮に学び舎を建て、巫女頭・ミクモ姫によりヤマタイ式神道の指導が行われた。太陽神ヒノミコを頂点に、各地の地元の神を合祀する神道で、統一化が図られた。地元の神を否定せず、同じ神を信じ、同じ祭祀方法をとる事は、民族の統一性を根付かせる最適なやり方である。
もっとも、完全な中央集権が出来たわけではない。当面は豪族たちの既得権を無視して国家運営は成り立たない。時間を掛けて、徐々に作り上げていくしかいくしかないだろう。豪族の中には旧来の王を名乗る者も多く、トシは長官であると同時に大王の名称で彼等に対する事になった。本来は王は一人。いまなお、大王を名乗らされているのが口惜しい。
トシの描く倭国統一国家。それはヒノミコを承継する女王と、その女王に任命をうけた執政官・宰相が政治を行うシステムだった。
具体的には邪馬台国の女王・壱与を招聘して、都をこの地、大和に置き、名実ともに倭国統一を成し遂げる事である。太陽神ヒノミコの承継者、壱与様。卑弥呼様。いや、なによりチクシの血を受け継ぐ壱与様を迎える事は、トシの、唯一と言っていい希望だった。倭国統一の瞬間だ。
宰相には、各地の長官で統治能力に優れた者の中から、選挙で選出すればいい。壱与様の任命で政治を行う。善政を行なえば良し、ダメなら新たな宰相を選ぶ。かつてローマを旅した、孫から聞いた民主政治のやり方だった。
それがどうだ。いまなお自分が大王にならされている現実。近畿・中国地方一円を支配下にいれているとはいっても、対外的には、帯方郡いや中国の王朝からみるとヤマタイ連合国の一つでしかないのだ。体制としては、未だ邪馬台国が倭国の中心。自分はヤマタイ連合国の一長官にすぎない。統一国家ではなく部族連合国家のままだったのだ。
かつて邪馬台国にあるヤマタイ本部に赴き、統一国家に改変すべきと具申した事もあった。伊支馬の遺言を実現すべき時・・と、政権中枢にヤマタイ本部の遷都を促したのだ。
ところがその時。ヤマタイ本部はそれどころではないとトシの申し出をはねつける。中国の魏が晋に替わったというのだ。
司馬懿のクーデターで魏の実質は、皇帝を輩出する曹一族から既に司馬一族に移っていた。その後、司馬懿は亡くなったが子の司馬師、昭の兄弟が実権を持ち、263年、蜀を攻略して、魏の勢い、いや司馬一族の権勢は更に高まる事になる。司馬昭の亡き後、昭の子・司馬炎が跡を継いだのだが、この事を契機に、皇帝の座を司馬炎に禅譲して、司馬一族の手で残る呉の国を滅亡させ、中国を統一させるべしとの声が高まった。265年末、遂に傀儡皇帝を退位させ、炎が新皇帝となり、晋と国名を改めた。
「先の長官伊支馬殿は、我等に奈良・大和を平定するよう命じられました。それが叶えば、ヤマタイ本部と壱与様をヤマトに遷都させ、倭族全体の統一国家を創り出すと約束されたのです。我々はその為に、頑張って来たのです。その遺言をお忘れですか?今、そのチャンスが到来しているのに・・」
「あの時とは状況が変わったのだ。三国志の時代は中国本土がどうなるかも、韓半島がどう動くかも判らなかった。強い大きな倭国を目指す事も考える必要があった。だが、今は違う。蜀は消え、呉も晋の前に風前の灯。漢のように安定した時代になろうとしている。韓半島だって、晋がいれば現状が変わる事はなかろう。・・もう備える必要がなくなったのだよ。」邪馬台国長官はつれなかった。
「しょせん安芸だの、吉備だの奈良は絹も鉄もない未開の田舎だ。九州ヤマタイ連合国の属州にすぎない。何が悲しくてそんな属州に遷都する必要がある・・今は晋に新王朝への祝辞と朝貢の準備で忙しいのだ。」九州とは国の中核をなす地域を指す言葉。その他は所詮、辺境の地との認識でしかなかった。
「しかし・・」
「君が属州を拡げてくれた事は評価している。なんだったら、今度の朝貢団の正使に抜擢してやろうか?」話がかみ合わず退席する事になった。
もう・・強靭な統一国家を作る必要が無くなったのか?トシは失意の思いで奈良・大和に帰らざるを得なかった。しかし、部族連合のままで良いのか?との疑問が残る・・。
実際、韓半島では馬韓、辰韓の地域には、それぞれ百済、新羅という統一国家を目指す勢力が力をつけていたのだった。
ついでに説明しよう。
邪馬台国長官の判断は、後に中国から見た倭国の地位を、卑弥呼時代の一等国待遇から新羅、百済と同列以下に貶める事になった。部族連合に固執した弁韓や九州王朝・邪馬台連合国は崩壊の運命をたどった。邪馬台国の後を受けて、近畿の大和政権が中国との外交を担った時に、大和政権は評価を回復するに苦労を強いられる事になった。
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やれやれ、思い出すにつけ口惜しい。トシはうなだれて執務室でボンヤリしていた。
その時である。
久し振りにキジが訪ねて来た。当時、平均寿命が三―四十年の時代で、ケンが昨年、妻のウサヒメと子供達を残して急逝し、気兼ね無く話せる相手はキジだけだった。その、キジも怪我をしたと、足を引きずるように、杖を頼りに部屋に入って来た。
「おや、マラソンランナーの見る影なしだな。」当時オリンピックがあれば間違いなく金メダル、倭国随一の俊足だったキジだ。その事は気にしていた。
「いや、面目ないことで。」
「一番ヤワな俺が一番元気を保っているのはどういう事かな?」
「一番楽な仕事しているからじゃないですか。」と逆襲された。
まあ、配下に指示するだけで、それも政務の殆どは副官達に任せているので、そうともいえた。
「今日はどんな情報を持って来たんだ?」
キジは指定商人としてトシ政権に重宝されていたが、モノより貴重なものは情報だった。薬売りの行商などで各地を巡る中、各地域の飢饉、災害の状況、豪族達のヤマタイへの忠誠度、政治力などの情報が集められる。長官直属の御庭番の報告として、それらの情報がトシに届けられる仕組みになっていた。
「重大な報告事案が、二つ有ります。」キジがトシのもとに近づいた。小声でトシの耳元で囁く。
「不吉な事を言って申し訳ありません。言いにくいことですが、ケン先輩が急逝したように、大王たるトシ様もいつ亡くなるかわからない歳になられました。私だってこの有様ですから・・。」
「何か回りくどいな。」
「大王亡き後の政権運営で二派に分かれて抗争が勃発する可能性があります。」
「俺が亡くなった後の事か?」
「それぞれの派がトシ様の別々の御子を、次期大王候補として擁立しておるのです・・。」
トシは長官になって以降、父が書記官として世話になった、日向国の王女を娶り、ナラ・ヤマトの地では地元の有力豪族の娘と結婚し、それぞれ男子をもうけていた。所謂、政略結婚である。その事がトシの権力基盤を強固にしたのは言うまでもない。おかげで大和の政権運営も円滑に運営できたのだ。この纏向の地に壱与様を招聘した場合の宮殿、そしてヤマタイの象徴にもなる大きな塚も造成出来ていた。
トシは大王の世襲など微塵も考えてはいなかった。先に言った民主主義の体制を夢見ていたのだ。それが、自分の未だ幼い子供を擁立して政権争いとは・・。豪族達の利権争いにつながるのは目に見えている。
「今のうちにトシ様が次期大王のあり方を、ご自身で明確にされるのが、争いを最小限にする唯一の方法でしょう。」トシはキジの言う通りだと頷いた。壱与様招聘が困難な今、自分の考えに固執するより、現実的な選択をすべき時ではないか。夢の実現は後世の者達に委ねるべきであろう。
「それでもう一つの報告とは?」
「チクシさんの事です。」
雷に打たれたように電気が走った。名前を聞くだけで、年を経た老体に、みずみずしい若いエネルギーが湧き上ってくる。
「チクシが見つかったのか?」
「断定は出来ませんが、フジにチクシさんらしき巫女がいるのです。」
キジの薬の行商は東海地方にも広がっていた。ところがフジの麓一帯での売り上げが伸びず、対策としてマーケティング調査を行う事になった。商売仇がいれば潰してしまえ、と現地で出回っている薬類を入手させる。
品質検査をしたところ、ヤマタイ式の薬で、キジの扱うミクモ姫の製薬方法とほぼ同じだった。その薬はフジ山中にある神社の巫女が、麓におりてきて食糧と物々交換で販売しているのだという。ミクモ姫に心当たりがあるか確かめたところ、思わぬ返答。
フジ方面にチクシさんらしき気が感じられる。至急、トシ殿に報告なされよ・・と裏も取れた情報なのです・・とキジは説明した。
「よし、俺が一人で行こう。」
「エッ、それはなりません。親衛隊と共に行かれなければ。道中が物騒ですから。」
「大勢ではチクシは出てこないだろう。それにチクシかどうかわかるのは、俺だけだろう。」
「私が、こんなでなければお供するのですが・・」キジは恨めし気に思うようにいかない足を見つめた。
結局、現地のキジの行商責任者イシマツという者が駿河の町にいるので、その者を案内人として同行させる事で話が決まった。途中、ミクモ姫にも会いたい・・と伊勢に立ち寄る事にもした。先の次期大王の件は、チクシの探索から帰還して時点で検討することにした。
伊勢神宮の杜に住むミクモ姫。姫というには歳を重ねているはずだったが、相変わらず、凛とした美しい容姿を保っていた。この地で、各地の巫女を育てる傍ら、薬園を経営、その収益をもとに施薬院をつくり、民衆に慕われている。
自分の志は思うようにいかない事が多いのに比べ、姫の志は着々と成し遂げられているようで羨ましかった。
「チクシさんが見つかると良いですね。・・ただ」姫が気懸かりな事があるように顔を曇らせた。
「チクシさんの気は引き続き感じるのですが、同じ場所で妖気も感じるのです。それも日増しに大きくなっているのです。」
「始皇帝だ。」
思わずトシが大声を出した。考えてみれば、チクシと始皇帝の亡霊は一緒に消えたのだった。
「あの時の妖気は凄まじいものでしたが、それに比べれば小さいと言えます。ただ、今の調子で増大していけば・・と恐ろしくなります。」
「一刻も早く行かねば。」
本来なら引き返し、大軍勢をもって対峙しなければならぬ相手だが、日増しに妖気が膨らんでいると聞けば、一刻を争う緊急事態だった。
「これを、お持ちなさい。」
ミクモ姫が手渡したのはサルタヒコが護身用に残した天叢雲。代わりにトシが持っていたキクチヒコ形見の神剣を渡そうとしたが「その剣もあなたを守ってくれるかも知れません。二振りの剣ともども、帯同されるのが良いでしょう。」と頑なに受け取らなかった。
加えて火打石と御守り札の入った小袋も持っていくように勧めた。「これは私と思って大事にして下さい。万が一を感じたら、私は遠隔操作でお祈りさせていただきます。苦しい時には、わたくしを想い起して下さいね。」
何と清らかな気持ちにしてくれる、女性、そしてお宮だろう。トシは振り返ってお辞儀を繰り返し、駿河に向かった。
船便で駿河の港に着いた後、キジの系列店を訪ねるが、背と腰に二振りの剣を携えているせいか、周りの視線が気になる。異様に見られて、正体がバレるのが心配だった。
店を預かるイシマツは元気で陽気な男だった。既に夕刻だったのでチクシ探しは明日の早朝に出発する事になりイシマツの接待を受ける事にして、酒を酌み交わした。
「客人。うちのキジの旦那は、偉い人でっせー。なんせ今を時めく大和の大王の親友なんやから。」
キジは安全上の理由から、自分の身分をイシマツにも明かしていなかった。
「あんたはんも大和の人やろ。大王さんの顔見た事ありますか?」
「いや、見た事ないなあ。」鏡で年老いた自分の顔を見た事は・・ウーン・・もう久しくない。その意味では、まんざら嘘をついた訳ではなかった。
「何でもウチワを煽ぐと神風が吹く神様みたいな人やからな。下々の人間には滅多に会わんのやろう。そういう人と親友なのだから、うちの旦那は凄い人なんじゃ。」
うちとこの社長。キジの自慢が続いたのち、キジの配下に三傑がいるが、それが誰だか知ってるか、と問いかけてきた。
「そりゃ、キジ殿とは懇意にしているから番頭、副番頭は知っているが、あとの一人は誰だろう?」
「肝心な一人を、お忘れではありませんか?思い出しましょうよ。ホラ、飲みねえ、飲みねえ、ここは駿河の清水港。生きの良い刺身を食って下さいよ。」「ウーン、最初の出だしはイとつく名前なんですがねェ。ホーラ、飲みねえ、食いねえ。」と三傑の最後がイシマツだとトシに言わせるまで、強引で陽気な接待が続いた。
翌朝、目を覚まして、出発準備をしていたトシ。向うでイシマツが妻子と何やら深刻な顔で話し込んでいた。聞くと、こちらの顔をまともに見ずに新しい情報が手に入ったのだというだけだった。
イシマツの案内でフジの巫女に会いに行くはずなのだが、歩く方向がどうも違う。
「フジの山に行くのではないのか?」
「新情報が入ったと言いましたでしょう。向うに例の薬売りの巫女が現われたというんです。」と堅い表情で答えて先を進むだけだった。
かなり、歩いたところで、一面、枯草が広がる平原に出た。人家も無いところで、何かを売るのに適したところではない。どうもおかしい。昨日とは打って変わったイシマツの態度。
「何か隠していないか?」
思い切って訊ねた。
その時、前方から屈強な異形の集団がこちらに猛スピードで走ってくるのが見えた。
「すまねえ。キジの旦那のお知り合いを騙すのは心苦しいが、脅されて仕方なかったんです。」イシマツが白状し始めた。
トシが寝入っていた夜中に鬼が訪れて脅迫したというのだった。怪しい二振りの剣を持った者がここに居るはず。その者を指定の場所に連れて来ればよし、でなければ妻子をなぶり殺しにする・・と。
自分が脅されるだけなら裏切りは出来ないが、妻子をと言われれば話は違う。鬼の指示に従わざるを得なかった。
その鬼達が今、目の前に現われたのだ。
その時だ。
トシが身に着けていたヒスイ石。その色が緊急事態を告げるように緑色から赤く変色し始めていた。それに呼応するように背負っていた天叢雲がひとりでに鞘から抜け出し、あたりの枯草を薙ぎ切り始めた。これは?危機を感じてミクモ姫の言葉を思い起こしていた。
「大王、尊き方の命により死んでもらう。そこの商人もだ。共に焼死ね!」鬼達は風を読むと枯草に火を着けた。火は一気に燃え上がり、凄まじい勢いでこちらに向かって来る。
トシもまた、姫から頂いた小袋を開け、火打石を取り出し、足元の草に火を着けた。向え火である。
「ダメです。風下では火にまかれるだけです。」イシマツが呻くように言葉を絞りだした。
しかし、トシは例の孔明の羽扇を振りながら呪文を唱えていた。
突然の雷鳴が轟いた。
風の向きが変わり、しかも突風となって反対方向に火は襲い掛かり、鬼達を包み込んでいった。アッと言う間の出来事。二人は助かったのだった。この故事にちなみ、天叢雲は後に草薙剣と称される事になる。
「いやあ、あなた様が大王様とは、知らない事とはいいながら畏れ多い事です。」イシマツは裏切の非礼を詫び、命だけは助けて下されと恐縮したが、トシは自分がイシマツでも同じ判断をしたろうと、それに取り合わなかった。二人、フジに急ぐ事になる。
フジ山は遠景から歩みを進めるごとにドンドン大きく、壮大になっていった。美しくもあり、神秘的。フジの名前は二つとない名峰だから不二が由来とも、徐福が来たりて不老不死・・不死の妙薬を求めた伝説からとも講釈した。
成程。ここにも徐福伝説が。であれば、始皇帝の妖魔があの山に潜むのも偶然とは思えない。厳かな威圧を感じられる。が、しかし、それと共に邪悪の気も大きくなって行く様にも感じられた。おそらく、いるのだろう。あ奴が、そしてチクシが・・。
近づくにつれ、天候が急変した。それまで晴天の中にあったフジ山は霧に覆われ、あたりが薄暗く視界が効かなくなって来た。
もう近い。
そんな予感がした時、胸の勾玉が何かしら変化を始めたように感じた。うっすらと赤みを帯び始めたのだ。先に鬼達に迫られた時のように急激ではないが、わずかに、密かに変わり始める・・。
「お前は帰って良い。」
「エッ。いや、罪滅ぼしです。さ、最後までお供を・・。」
「ならぬ。これ以上は危険だ。かえって足手まといになるだけだ。」と激しく威嚇すると、さすがのイシマツも雰囲気を察して頷く。
「ご、ご、ご武運をお祈り申し上げます。」と足を反対方向に向けて歩き出した。
トシは感じようとしていた。
勾玉の変化、先の草薙剣の奇跡的な動き、風の変化。すべては自分が成したものではない。誰かの力が作用しているとしか思えない。そして、それは、そう、チクシのもたらすものではないか?自分を助けるために?だとすれば何故に?
白いもやの中から、何かが出て来る。生唾を呑み込んで身構えた。チクシか、邪悪の化身、始皇帝の亡霊か。
現われたのは、あのチクシのようだった。
そうだ。チクシで間違いない。
何年ぶりの再会だろう。無表情な他はあの時と変わらないチクシの輪郭。チクシは何かを呟きながらゆっくりと、こちらに歩んでくる。
顔がハッキリ見えてきた。あの時と変わらない顔。年老いた自分とは違い、若いままの姿に見とれる。チクシが目を見開く。敵意も殺気も感じられぬ。
こちらを呑み込むように瞳孔が膨らみ、黒い眼が何かを示唆しているかのようだ。無表情ながら、何を伝えようとしているのか?唇の動きを読む・・。
心眼。心眼を聞け・・といっているかのようだ。チクシの黒い眼を見つめた。
無心になると、チクシの言葉が次々と表われてきた。しかし、脈絡のない言葉達。
あたしはもう亡霊に支配されているの。
あたしを助けて。
あたしの魂を鎮めて。
あたしを殺して。
魂が引き裂かれているのよ。
・・かと思えば
助ける事ができるのはあなただけなのよ。
その剣を渡しなさい。
そしたら、あたし・・
突然、チクシの姿が陽炎のように揺れ、始皇帝の姿に変わる。
「大王たるお前が、単身、来るとは思わなんだ。暗殺者かと思い、鬼どもに返り討ちを命じたが、失敗してくれて良かった。会いたかったぞ。ウワッハハ。」
「まだこの世のとどまっているのか?」トシは睨んだ。
「チクシが献身的に世話してくれてのう。おかげで受けた傷も癒えて、再び動けるようにはなって来た。だが、チクシ殿も可哀そうじゃ。お疲れのようで、一人でワシの世話するのは大変だろうからな。」
「チクシを解放しろ。」
「朕もチクシ殿の負担を軽減してあげなければ、と思っていたところじゃ。どうじゃ。我等三人、仲間で結ばれんか?」
「何?」
「全世界に平和をもたらそうではないか。我等三人が協力すれば倭国を我等の手中にする事など簡単なもの。その勢いで韓半島、中国、はるかローマ、インドなど、世界の全ての覇王になる事も可能だ。さすれば世に戦争はなくなり平和は実現される。我々の志が成し遂げられるのだ。世界は統一され、我等の君臨に皆がひれ伏すのだからな。」
言葉では平和や志を口にしているが、要は自分だけを中心とした世界統一だ。トシに憑依させてくれと言っている。
徐先生にしたようにトシを乗っ取り、覇王の執行役にする、それは倭国を乗っ取る事を意味する。チクシを、自分の甦りを推進させる役割に専任させる事で、始皇帝の亡霊パワーを増殖させる事が出来ると考えているのだ。
そのパワーでヤマタのオロチだのを沢山創り出し、世界征服に繰り出そうというのだろう。同時にトシの持つ莫邪、またの名を天叢雲、またの名を草薙の剣を我がものとするとする事で最強のそして不死身の権力者になる・・という魂胆だ。
「お前が平和だの志を口にするとは、それらの言葉に失礼だろう。力で抑え付ける圧政に志はない。」
チクシの声が聞えた。「あたしを助けてくれないの?皇帝に力を貸してあげるだけで救われるのよ。」
「お前とチクシとは堅い絆で結ばれているのではなかったのか?彼女の叫びを無視するというのか?」亡霊が冷たい表情でトシを見た。
チクシが本気で、亡霊と組する事をよしとするわけはない。心眼だ。眼を瞑ってチクシの声を聞こうとした。
「亡霊を始末して。あたしを殺して!」
後の言葉は意味不明だが、亡霊を征伐するようにとの意思であるのはハッキリしていた。トシは草薙剣を抜いた。
「人が下手に出ていれば、いい気になりやがって。チクシの気持ちを裏切る不逞の輩は成敗あるのみ。」亡霊も剣を手にしてトシとの間合いを測っている。
「飛んで火に入る虫ケラめ。お前を乗っ取り、その剣も我がものとせん。」亡霊が切り付けてきた。
返す刃。幸運にも剣の切っ先が敵に命中した。しかし、戦いの相手は亡霊である。本来なら致命傷を与えたとの手応えはあっても、相手は、弱りはするものの、なお、力を残しているのが感じられる。異様な戦いといえば異様である。トシの方も、亡霊剣の刃を浴びても傷にならない。ただ、鮮血こそ出ないが、命脈が傷つけられているのが判った。
このままでは命が尽きる。
そう感じたトシはミクモ姫に応援を求めた。危機を感じた時、想いだすようにと姫に言われたのを思い出し、渡されたお守り札に手を当てたのだった。
伊勢の宮では、トシの危機を感じ取ったミクモが、遠隔の回復施術のお祈りを始めていた。と、みるまにトシの傷ついた命脈が修復されていく。
傷ついてもなお、回復するトシをみて、亡霊にも焦りが見えてきた。
「おぬし、誰かの助けを借りておるな。」
ついに忍耐の限界が来たと見え、亡霊が消え去った。
入れ替わりにチクシが現れる。
心眼でチクシの声を聞く。
・・亡霊はあたしの身体に潜って回復を図っているわ。今がその時よ。あたしをその剣で刺しなさい。あたしが死ねば、甦りの支えを失うわ。亡霊は完全に消滅するのよ。あたしを殺して!
そう言われても。目の前のチクシに・・手を掛ける事など出来はしない。そう逡巡していると、再び完全回復した亡霊が、トシに立ちはだかる事になる。
何度、同じ情況を繰り返したことか。戦いは果てしなく続くように感じられた。が、始皇帝の亡霊が完全に回復するのに対し、トシは完全に回復とまではいかなかった。
「これでは最終的に負けるだろう。」トシは次回、亡霊がチクシに潜り込んだ時が決断の時と悟った。チクシを刺さなければならない。自分に出来るだろうか。
決断の時が来た。自分の体力ではこの機会を逃せば、完全回復した亡霊に立ち向かう事が出来ないだろう。
「やるのだ。」
自分に言い聞かせるように切っ先をチクシに向けた。チクシは目を瞑り、既に覚悟している。「今だ!」トシは剣を振り下ろした・・
だが、結局はチクシを殺す事は不可能だった。
チクシを助けたいのだ。その為に生き、ここまで来たのだ。手に掛ける事など出来る道理はなかった。
チクシから亡霊が産まれ、トシに襲い掛かった。勝利を確信した薄笑い。
「お前を、乗っ取ったり!」
その時、遠い伊勢の地でミクモ姫が薬を飲んでいた。あのサルタヒコが姫を守る為、残して行った、よみがえりの秘薬、最後の一粒である。トシの命脈が絶たれてしまいそう。そう判断した姫の行為であった。「これで見納めね。」ミクモ姫の瞳に勇者の姿が浮かんで消える。
トシの腰にあったキクチヒコの秘剣がいつの間にか、スーッと抜かれた。剣を手にしたのはその勇者。キクチヒコが、トシに襲い掛かろうとする始皇帝の亡霊を切り裂いたのだ。
亡霊同士の戦いは、一瞬。キクチヒコはトシをみて、笑みをみせたまま、フッと消えた。
すべてが終わったのか?。
「ウギャー!」
しかし・・。
断末魔の叫びをあげてもなお、始皇帝はチクシの中に潜もうとした。
「われを回復させよ。」と亡霊がチクシに命じた。
「それはもう出来ないわ。あたしは拒否します。何を言われようと。」チクシの胸に掛けられていた勾玉が異様に光った
「俺の言う事を聞けない奴はもう要らん。強制的に回復させるようお前を操作するだけさ。その後は、お払い箱にしてやる。邪馬台国に行ってな。お前の後釜に入り込むだけだ。お前の子、壱与・・とやらにな。」
「壱与はダメ!」チクシが金切声で叫んだ。
「壱与はトシ、私達の子供よ。」
そう言い放つと、チクシが凄まじい勢いで向かってきた。トシが構えた草薙剣の切っ先に・・自らの胸を押し当てたのだ。
戦いは終わった。
始皇帝の亡霊は完全に消滅したのだ。
「あいつに支配された・・あたしにも、幸せな時はあったのよ。・・あなたが、あたしの事を想い起してくれる時。」それから・・笑みを浮かべたように思えた。
「あの世であなたとやり直したいわ。フフ。」
チクシの崩れ落ちる身体を抱きかかえながら・・。トシの茫然自失の時間。それは永久に続くのではと思われた。
胸に耳を当てても心臓の鼓動は感じられない。透き通るような遺体。若くして心身を乗っ取られてしまった。
チクシ。何か悪い事をしたわけでもないのに・・。おい、お前の巫女力、魔力で自らを復活させる事は出来ないのか?
おやおや、あんたも老いぼれちまったねえ。そんなんじゃ、あたしをモノにする事は夢のまた夢だよ・・と俺をからかう事も出来ないのか?
「お前の可愛い表情も、憎まれ口も、もはや、見る事も聞く事もないのだ。」
俺の未来にチクシが登場する場面はもう無い。チクシによって活かされ、その影を追い続けた人生。もう俺の人生は終わったのだ。唯、涙を落す事しか出来ないのだ。今の俺には・・
人一倍、自己実現の意欲に満ちたチクシ。それが夢を閉ざされ、未来を断ち切られた日々を余儀なくされた。
どれだけ口惜しかったことだろう。チクシの人生・・それでもチクシにはこの世に生まれ、生きて良かったと思って欲しかった。俺がチクシと出会って良かった・・と思えたように。
あんな最後になるなら・・それなら俺がお前の人生を抱きしめてあげるさ。それが俺の鎮魂歌。・・・。
チクシの亡きがらを埋葬し、よろめくようにその場を立ち去ったトシ。涙で先の道は良く見えないのだった。
その時、金鵄鳥が現われ、トシを追いかけるように白い鷺が飛び立ったことも・・。
フジを去った、失意のトシは伊勢のミクモ姫の所に立ち寄った。預かった草薙剣を返し、亡霊との戦いに大きな支援を戴いた事のお礼を述べた。
トシはキクチヒコの神剣も姫に差し出した。「託された使命は一応果たしました。これはキクチヒコ様の形見としてお渡しします。」
「あなたは与えられた志を、立派に果たそうとなさいましたわ。」
姫の声が聞えない・・虚ろなるトシ。
「終わりました。私の全てが・・。」力なく立ち去ろうとする姿に、姫もかける言葉を見つけられなかった。
涙枯れ・・。
悲しんでばかりはいられない。トシは今後の大王の選出のやり方を定めて、内乱の芽を摘んでおかねばならなかった。そして壱与様を邪馬台国から招聘する事を実現しなければならない。
自分でもう一度掛け合おう。出来なければ、後継者に託さねばならない。壱与様はチクシと自分の子供なのだ。チクシと旅したあの一夜は、幻ではなかったのだ。それが先に向かう、トシの唯一の夢なのだった。
だが、その為に向かった大和に向かう道。そこでトシは、その一生を終える事になる。
三重の山中で賊に討たれ命を落としたのだった。もはや、神剣を携えておらず、戦う気力も残っていなかった。
賊は物取りか、はたまた、政権抗争に絡んでの暗殺かは定かでなかった。
だが、大王たるトシが亡くなった後、後継を巡って先妻と後妻の息子同士が争い、後妻の息子が大王の座についた。息子同士の血の争い。トシにとっては不覚の出来事だったろう。
ただ、これは書きしるして置かねばならないだろう。
金鵄鳥が羽ばたき、空を旋回した。
その時、トシの骸から白い鷺が飛び立ったのだ。
東からトシを追いかけてきたように飛翔する、もう一羽の鷺と合流、西に西と大空を駆けて行ったのだった。
完