闇の支配者-3
白い湯気がふわりと揺らめく。
時刻は既に深夜3:00。
次第に人通りも減りタクシーが道を行き交うのみとなっていた。
赤い提灯をぶら下げ暖簾をくぐれば空腹からか香る匂いに心踊る。
「はい、おまちどおさま」
目の前に豪快に置かれた豚骨ラーメン。
華やぐ緑の小ネギに程よい煮卵、厚く切られたチャーシューからは肉の旨味が流れ出る。
パキンと小気味良く割り箸を割れば麺を取りふぅふぅと息を吹き掛ければいざ己の口へ。
ずるるるるるるっ。
一気にすすれば鼻腔に広がる豚骨の香り。
心が満たされ次を欲する。
「良い食いっぷりだねぇ、見てて気持ちいいくらいなんだが」
すっかりラーメンに取り付かれ彼の存在を忘れていた。
「…すいません、全然食べてなかったもので」
跳ねた汁を拭いながら改めて彼に向き直る。
「いいや構わんさ。まさか飲んでもいないのにフラついているとは思わなかったんだが…もしかして行き倒れの真っ只中だったのか?」
「あながち間違いではないかもしれませんね…」
「それはまた大変な事態だな。まずはそれで腹を満たすんだな」
そう言えば箸を手に取りふぅふぅと冷まし出す彼。
確かにそうだなと僕もラーメンへと向かった。
「いやぁ、美味しかった!」
「そうですね、とても美味しいでした」
暖簾を背にふぅ、と息をつけば辺りはだいぶ白んできていた。
「ここが旨いって前聞いたんだけど、俺もはじめてきたんだ。口に合ったようで良かったよ」
ぐーっと身体を伸ばせば緩め僕を見やる。
「さて、腹も満たされたことだ。君の目的を果たそうじゃないか」
僕の目的?
「…君のその力、それは代償が大きい物なんだ。だからいままでの君ではきっと居られなくなる」
え…?
僕の力…?
何を言っているんだろう?
まさか、ローレンツの言っていた"刻の観測者"の事なのか…?
「その反応だと殆ど説明は受けていないみたいだね」
はぁ、と溜め息をつく彼。
真剣な眼差しを向ければ仕方ない、とぼやく。
「本来俺の役割じゃないが、今回の場合、君には責任がない。…観測者、名は?」
なぜその事を知っているのだろう?
今まで僕の触れたことのない世界。
恐らく非日常とも言えるこれはどう形容して良いのかわからない。
それに僕はもう日本名は覚えていない…
「…Ein Beobachter der Einsamkeit」
悲しい事だかこれが決定的に"己の人生を書き換えられた"と自覚できる証だった。
多分僕の名前はそこまで有名でも珍しくもなくいたって普通な名前だっただろう。
だけど微塵も思い出せない。
そしてそこを起点に僕の核となる"なにか"すらも変質して…
「ストップ。そこまでだ。それ以上踏み込めばまた"呑まれる"ぞ。さっきの眩暈もそれによるものだろう、アイン」
呑まれる…
「刻の観測者。それは様々な事象を客観的にとらえなければならない。つまり私情を挟むのはタブーなんだ。そしてその刻の観測者と見込まれた君は、きつい言い方かもしれないが自己主張に欠ける存在だった。それを見通した奴は君を抜擢した、って訳だろう」
奴、というには恐らくローレンツだろう。
仲が悪いのか苦虫を潰したような表情で続ける彼。
「…だが見誤ってはいけない。人はその生きてきた年数だけ経験や記憶があるものだ。それを否定し書き換え改竄する術式、それが本にでも仕込んであったんだろう」
そう言えば試験と命したその本にはよくファンタジーであるような魔方陣が随所に散りばめられていた。
「君の頭痛や眩暈はそれが原因となっている。それはそうさ、今までの"君自身を否定して"新たな存在として暗示を掛けているんだから。まったく酷い事をしやがるぜ」
やれやれと首を振れば上着から小さな手帳を差し出してきた。
「…これは?」
暗い藍色の皮の手帳は銀のレリーフがあしらわれた美しいデザインだ。
「これは君の掛けられている暗示を逆演算して解除してくれる魔術が掛けられている。そして刻の観測者には欠かせない暦だ。観測者は常に出来事を記さなければならない。これは開けば"今この時"のページを広げ、望めば今までの記録を簡単に呼び出せる優れものだ」
ゆっくりと受け取れば見た目よりも軽い事に驚く。
パラパラと捲れば終わりはなく永遠とページを捲ることができた。
「それはアカシックレコードの延長線とも言える重要な刻の鍵にもなっている。くれぐれも他人には渡すなよ?勿論奴…ローレンツにも、だ」
言われるがままに頷けば、手帳をしまう。
「…なにかまたあればそれにヘルプと唱えろ。そうすればきっとなにか役にでも立つだろうから。んじゃ、俺はそろそろ行くよ」
意外となんでもありそうな手帳をぎゅっと服越しに握れば背を向けたまま手を振る彼に小さく会釈した。