8 昼食を挟んで、気持ちを切り替えましょう
「閣下、大丈夫ですか? お元気がないようですが」
ジブライールが俺の顔をのぞき込むようにして、声をかけてくれる。
ちなみに、ジブライールの服装は、いつもの軍服に戻っていた。可愛かったのに。可愛かったのに。可愛かったのに!
いや、軍服でも可愛いけども!
「なんでもない。ただ……子供とか、大人でも無爵者を相手に魔術を教えるのって、難しいなって……」
「閣下にも、苦手なことがあるのですね」
「そりゃあ、あるさ。たくさんある」
そうだとも。俺が得意なのなんて、魔術の操作くらいだ。
女性の扱いも下手なら、子供の相手も苦手だ。それに親友と呼べる相手も、今や一人もいない。
あれ……つまりこれって、俺に対人スキルがないってこと、では…………。
「けれど、ええ。誰かに魔術を教えるのって、本当に難しいですよね。わかります」
実父にお前は人に教えるのが下手だ、と言われたこともあるジブライールだ。俺の気持ちを察してくれるらしい。
食卓上で組んだ俺の手を、そっと包み込むように握ってくれる。
ああ、柔らかい手の感触に、ささくれだった心が解れていく。
もっと癒やされたい。今すぐこの食卓を飛び越えて、体ごとぎゅうっと抱き返したらいけないだろうか。
わかってる。駄目に決まっている。
ここは修練所付属の賑わいだ一般食堂、つまりは衆人環視の中なのだ。
たとえ今この食卓には、俺とジブライールだけしかついていないとしても。
妹についてきてくれているのが、ナティンタで本当によかった。彼女はマーミルやネネネセと、別卓で食事をとってくれているのだった。
もっとも、別と言ったって、通路を挟んだすぐ隣のことではあるが。
とはいえ、妹が俺とジブライールを二人きりにすることを了承したのは、妹の方にケルヴィスが一緒だからかもしれない。
子供たちはワイワイ、楽しそうに会話と食事を楽しんでいる。マーミルなんて、隣のケルヴィスに夢中でお兄さまを一瞥もしてくれない。
おかげでこうしてジブライールと手を握りあえるわけだが、それはそれでちょっと寂しくもあるという、複雑な心境だ。
俺と妹は、そろそろお互い兄妹離れする時期にきているのかもしれないなぁ。
「ジブライールは、いつ城に帰る予定なんだ?」
俺がいる間中、修練所に挑戦し続けるつもりのマーミルとネネネセを送り届けるため、ジブライールは来てくれただけのはず。
自身の城での業務もあることだし、さすがにずっと滞在しているというわけにもいかないだろう。
「本当は昨晩のうちにでも帰るべきだったんでしょうが……閣下のお顔を一目でも拝見したいと、つい長居してしまいました。でも……あと一泊だけ、していってもいいでしょうか」
最後は消え入るような小声だった。熟れた頬で小首を傾げるジブライールを見て、気分が晴れたのだから、俺も単純なものである。
「もちろんいいとも」
今晩泊まるのは宿舎じゃなくて、俺の部屋にだがな! 今ぎゅうっとできない分は、あとで思う存分、堪能させてもらおう。
なお、妹とネネネセは、修練所に挑戦している身なので、やはり今晩も宿泊所に泊まることになる。大公の身内だからといって、宿舎に泊まったりというような特別扱いはしないのだ。
「ジブライールのおかげで元気が出たよ。ありがとう」
あとでもっと元気をもらおう。
「そんな……私の方こそ」
ん? 私の方こそ?
「ジブライールも何か元気がなくなることがあったのか?」
「あ、いえ……そういう訳では……」
とたんにあわてた様子を見せるジブライール。怪しい……。
ジブライールは今日、基本的には総司令室にいたはずだ。そこにいるのは……。
「まさか、ラディーリアと何かあったのか?」
「いえ、なにも……」
ジブライールが瞳をそらす。その様子がもう肯定としか思えない。まさか、気が合わなくて殴り合いの喧嘩をした、とか?
いや、さすがにそれはないだろう。周知の通り、ジブライールは公爵で、ラディーリアは侯爵だ。地位通りにジブライールの方が強い。
「何かあったんだろ?」
「本当に、何もありません。私がただ、勝手に心配しているだけで……杞憂だとわかっているんです。でも……」
「心配って、何を?」
「だって……」
ジブライールは言いにくそうに口ごもる。
「ラディーリアは閣下のお好みでしょう? その……この、あたりが……」
ジブライールは自分の胸のあたりに手を置き、上目遣いでこちらを見てきた。
「は? いや……」
つまりジブライール……まさか俺の浮気を心配しているのか? それも単に、相手の胸が大きいからという理由で?
確かに大きい。ラディーリアのは、なんならウィストベルより大きいかもしれない、とか、思わずそんな感想を抱いたことはある。
だとしても、そこで相手を好きになるわけではない。
「俺は別に、大きい方がいいだなんて、一度も言ったことはないはずだが」
ないよな? ないよな? 口に出して言った事なんて一度もないよな?
「でも、好きですよね?」
「いやいやいや……」
嫌いとは言わない。言わないが……。
「だいたい、ラディーリアは魔王様の恋人の一人なんだぞ。俺が手を出せるはずが……」
あ、まて。この言い方はマズい。
じゃあ、魔王様の恋人でなければいいのか、という話になりかねない。
「じゃ、なくて、さすがにそれはラディーリアにも失礼だと思うぞ。ジブライールだって、俺という恋人がいながら、ただ職場が一緒だからという理由で、全く興味のない男との仲を疑われても困るだろ」
「それは……そうですね。わかっているんです、余計な心配をしすぎだって。でも……」
しょんぼりしたように肩を落とす。
なぜ、ジブライールは俺の恋人として、そんなに自信がないのだろう?
こんなにも強いし美人だし可愛いのに?
ああ、そうだとも。正直なところ、こんな嫉妬心さえ可愛いという感想しか抱けないのだが。
なんだろう。ジブライールのことは初対面の時からずっと美人だとは思っていたよ? だけど、付き合いだしてから、むしろどんなジブライールも可愛くて仕方ないのだが?
あれ? 俺ってこんなタイプだっけ?
以前はもっと、恋人にも冷静だった気がするんだけど。
「ジブライール、ほら、美味しいぞ」
「えっ!」
俺は食べかけのオムライスをすくったスプーンを、ジブライールに向けて差し出した。
どんな彼女であっても可愛いとはいえ、いらぬ嫉妬で落ち込んでいられるより、美味しいものでも食べて、元気を出してもらいたいではないか。
「あ、あのっ」
「あーん」
「っ!」
俺だって拒否されれば引っ込めようと思っていた。だが、ジブライールは気落ちした様子はどこへやら、目元を真っ赤に染めながら、そろそろと口を開いたのだ。
小鳥が親鳥からの餌をついばむように……いや、そんなわけはない。正直に言おう。
自分が使っているスプーンの自分の食べかけを、相手がくわえる。これで興奮しない男がいるだろうか?
正直に言おう。「あーん」ってなんか、エロくていいよな!
ジブライールが俺の食べかけのオムライスを口に含み、咀嚼し、飲み下すところをつぶさに観察して……今すぐ二人っきりになりたかった!
だが、今日はなんといっても修練所の初日なのだ。俺は無理矢理、煩悩を頭から追い出した。
「こんなに可愛い恋人がいるのに、他の女性に目移りすると思うか?」
「ジャーイル様……」
そうだとも。男は決して、胸ばかり見ているわけではない。少なくとも、俺は。
……本当だ。本当に本当だ。
「あの、私もいいですか? お返しに……」
ジブライールが自分のパスタをフォークに巻き付け、俺に差し出してくる。ものっすごくうっとりとした表情で。
当然、俺もいただいた。
食堂でベタベタするわけにはいかないのだから、このくらいのいちゃつきは許してほしい。でなければジブライールの不安はいつまで経ってもなくなりそうにないのだから。
「……食べ過ぎたかしら。胸焼けしそうですわ」
その言葉で通路の向こうを見ると、妹がこちらを冷たい目で見ているではないか。
なんだよ。お前だって、つい今の今までケルヴィスに夢中になっていたくせに!
「と、ところで閣下」
ジブライールはフォークを置いてゴホンと咳払いをするや、そそくさと手を膝の上に引っ込め、姿勢をただす。
「閣下が授業をなさっている間に、プート大公閣下が総司令室にいらっしゃいました」
副司令官モードというか、声がふにゃふにゃしたものから、きりりと張りのある低音に変わる。
名残惜しくはあるが、この切り替わりの早いところも、ジブライールのいいところだ。
それにしても、結局来たのか、金獅子……。距離感がどうのと言っていたのに。
いや、まぁ、別の大公が総司令室に様子を見に来るぐらいは普通のことだと思うけど。
「それで、どうした?」
「マーミル様についてきたのがアレスディアでないと知って、すぐに帰られました」
……。
大丈夫、このくらいはまだ距離感を破ってはいないとみなそう。
「お兄さま。そろそろ参りませんこと?」
妹がナプキンを置いて立ち上がる。
「そうだな」
そこで俺と子供たちは、ジブライールとナティンタにしばしの別れを告げ、魔術教室に向かったのだった。