五十二話め. アイツ笑ったら凄い可愛いんだ。
どれくらい経ったのか。
あのガキが倒れたプレハブを離れてから歩き続けている。
森の中をウロウロウロウロウロウロ。
道が合っているのかすら解らない。
唯、唯、歩く。
手が震えていた。
歩き続けているせいか、足元も覚束ない。
慌てて白衣のポケットから錠剤を取り出す。
震える手は上手く取り出せずに幾つか落としてしまう。
それを気にする余裕も無く。
幾つだったか数を数える余裕すらも無く。
錠剤を乱暴に口に放り込む。
苦い薬の味とは別に鉄の味に気づく。
錠剤に血が付いていたようだ。
忌々しく舌打ちをする。
屑の血が口に入った。
それだけで気分を害する。
薬が効いてきたのか、手の震えが徐々に収まっていく。
足の振るえが完全に止まったわけでは無いが歩くには十分。
精神安定剤が必要になったのはいつからだろうか。
こんな物を頼らなければならない程に私が弱くなったのはいつ頃だろうか。
頭を掻き毟る。
強く掻き毟る。
私は、私はまだ冷静だ。
まだ落ち着いている。
ああ。
私は、私は……『僕は』。
いつからこんな風になったのだろう。
無心病に囚われているあの老人と僕は一緒だ。
無心病で大切な人を亡くしてから狂ったように研究を続けた。
何人も苦しめた。
無心病者が何人死のうと僕の心が揺れる事は無く。
あの日から、大切な、大切なあの女性を失ってから。
正義感が強く、力強くて、感情豊かな彼女。
間違った事をすれば熱い瞳で僕を見つめ、止めてくれた。
そんな、彼女が。
弱弱しく薄い感情になって行く姿だけは忘れる事も無い。
もう目の前から消えてしまっているにも関わらず、亡霊のように病気を追いかけている僕こそ。
人間では無いのだろう。
……それでも僕は冷静だ。
だからこそ、あの男が、彼女とダブる。
窓から、好きだった彼女が良く言った台詞と共に現れたあいつが憎い。
感情豊かで、必死で助けようとする姿が。
僕の目の前から消えた彼女の様で。
苛ただしくて。
……いや、どうでもいい。
僕が続ける事は変わらない。
仇を討つように、怨念を込める様に。悪霊の様に。
この病を呪う。
助けられなかった自身を呪う。
この病に関わる全ての物を呪う。
それでも僕は冷静だ。
彼女の心臓を生きたまま引き摺り出すと言った。
それでも僕は冷静だ。
病院の明かりが見えて来た。
やっと森を出た様だ。
病院の入り口が、妙に騒がしい。
もうめんどくさい事はゴメンだ。
こういう風に考えれるんだ。あの男を殴り殺そうとしたが。
僕はまだ冷静に対処出来ている。
大丈夫だ。
病院の裏口。
緊急用の入り口から入る。
受付の小さな窓の奥には人が居る。
そんな夜勤の看護師と目が合った。
看護師は僕を見て固まると、表情を強張らせ、その後、弾ける様に看護師は立ち上がると奥に行ってしまう。
誰かを呼ぼうとしている声が受付の窓越しにも聞こえる。
僕も知っている看護師だが、こんな表情を見せたのは初めて見る。
何を、そんなに、驚く?
蛍光灯の光が受付のガラスを照らす。
その時に、受付のガラス張りに映る自分が目に入った。
白衣は返り血で血だらけで。
それだけでもギョッとするだろうが、それだけでは無い。
血走った目は見開かれ、口から唾液が零れていた。
その姿は異常で、狂っているようにさえ見えて。
そんな自身の事にすら気づく事が出来ず。
確信してしまう。
ああ、僕は。
狂って、いたのか?
慌ててポケットの錠剤に手を突っ込む。
先程と同じように錠剤を乱暴に口に放り込んだ。
だ、大丈夫だ。どうなっていようが僕は、冷静だ。
大丈夫。僕の行動に間違い等無い。
ま、間違っていても、彼女が止めてくれるから。
そうさ、いつも彼女が、間違っていれば僕を止めてくれた。
ぼ、僕のヒーローが。
フラフラと、明かりの付いている部屋に吸い込まれるように入る。
様々な器具が机の上に並べられているその部屋から、目的の物を見つけた。
鈍く光るメスを握る手は震える。
何故震えるのだろう。怖いから? 違う、嬉しいからだ。
再び歩き出す。今度は少し早足。
見つけた。
手術室のランプは、まだ手術中と赤く光っていた。
ああ、間に合った。良かった。
まだ生きてる。心臓を取り出せる。
自分でも気づかずに頬が割れるように笑ってしまう。
後ろからドタドタと荒々しい音が聞こえた。
無意識に音の方を向く。
そこには、血だらけで立っている男。
涙で赤くなったであろう瞳、それ以上に赤い血は頭から流れ出たまま。
ボタボタと流れる赤い血等気にする様子は見えない。
満身創痍の筈のその男は、熱く燃えるような瞳は僕を睨む。
ああ。
また、コイツだ。
何度潰しても立ち上がりやがって、立ち上がりやがって。
メスを強く握り締め、男を睨む。
今度こそ。
殺してやる。
病院に着くと、イケメンが入り口で暴れていた。
「だーかーら! 救急車だっつってんだろが!」
捕まえようとしている大人達を器用に避けながら苛立った声を挙げている男が居た。
背中におぶられながら「器用な奴だな……」と、他人事。
「……おい、下ろすぞ」
隆二の声が何故か上ずっている。
息を切らした様子が無いのは流石だが、では何故そんな声になっているのか少し不思議に思う。
下ろされてから理解する。
隆二の瞳が爛々と輝いていた。
俺が何か言う前に隆二が暴れている大人達に向けて走り出す。
「俺も混ぜろーー!」
「っげ! お前何でこんなとこいんだコラ! 馬鹿はどうした!」
暴れ足りない様子の隆二が来て、ぎょっとしている様だ
その後、俺に気づく。
俺と視線を交わしたのは一瞬。
「サッサと行けバァカ!!」
その台詞と共にイケメンまで暴れている大人達に飛び込む。
流石は付き合いが長いだけはある。
俺は何も言わずに走り出す。
■
間に合った。
返り血で白衣は赤く染まっていた。
目は血走り、狂ったようにギョロっと俺を見る。
その姿は、いつもの上から目線で俺を見下していた男とは大違いで。
狂っているようにも、哀れにも見える姿だった。
頭から流れる血を腕で拭う。
俺の姿も、人の事を言える立場じゃ無いな。
俺自身も慢心創意でしか無く、お前と一緒だ。
正直立っているだけでも足が震えている。
俺を見て医者の口端が上がる。
それは笑顔と言うには不気味な姿。
「おまえか」
簡単に言う。
解っていたような言い方だ。
「文句あるかよ」
皮肉を込めた俺の言い方に、医者は狂ったような短い笑い声を挙げる。
「女を守れなかった負け犬じゃ無いか、何しに来た? 今更助けに来たか? 死体を助けに来たのか?」
その言葉に心が、ッグと痛くなるのを感じた。
この男からすれば死ぬ手前だと言うのに無駄だ、と言いたいのかもしれない。
しかし俺自身は。
俺自身は……死んでいると知っている。
「ああ、そうだよ」
言い訳はしない。
俺が、殺したんだ。
医者は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「ガキが付け上るからこうなるんだよォ……お前が殺したんだ、お前が何もしなければ生きていたんだ」
医者の言ってる事は正しい。
その通りだ。
俺が関わらなければ、俺が行動をしなければ。
きっとあいつは本当なら今でも、窓際の机で一人空を見上げていたであろう。
生きているのか死んでいるのか解らない中途半端な幽霊娘は。
ずっと、一人だっただろう。
捲くし立てる言葉に節操は無く。
爆発したように医者は喋り続ける。
「あのモルモットはなァ! 寂しい人生だったよなァ!! 死体だとほざく哀れな女はようやく死ねたんだ!! 感謝してるかもなぁ!!」
挑発する台詞は俺の心に響く。
そうだ。
感謝してたよ。
殺してくれてありがとうって、言ったんだ。
「そうなんだよな……あいつ感謝してたんだよなァ……」
最後に見せた表情が脳裏を過ぎる。
幽霊娘は最後に零したのだ。
笑いながら泣いたんだ。
生きたいと、生きていたいと。
人間らしく涙を流して生きていたいと、願う人間のどこが死人だと言うのか。
自分で言って、自身の言葉が俺自身に……突き刺さる。
生きたいと言った彼女はもういないのだ。
死人から、やっと……やっと人になれたのに。
死んでしまったんだ。
俯く視線を上げる。
男を睨み付ける。
落ち込むのは終わりだろ。
今はそれどころじゃ無いだろ。
「あの馬鹿は死体なんかじゃ無い」
男に向けて声を荒げる。
敵意を込めて、強く睨む。
「拗ねたり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、唯の普通の女の子だ! 幽霊でも無い! モルモットでも無い! アイツは! アゲハだ!!」
「……あ? あああ? ああああ!?」
俺の言葉に男は苛立ったように髪を掻き毟る。
「意味が、意味が意味が意味が意味がわからねーーーーんだよガキ!ガキが!ガキが!」
俺の言葉が理解出来ないのか、医者は奇声を上げながら罵倒の言葉を並べる。
自分の行動が思い通りにならない子供のように声を張り上げながら。
「普通の女の子なわけねェェェェだろうが! だったら僕の今迄の研究が無駄だって言うのかよォォォ!! お前が殺した癖に! お前が殺した癖にィィィィ!!!」
言葉の意味も、意図も解らなくなっている男は、走り出す。
俺に向けて走り出す。
その手にはギラつくメスを手に。
「ああ! 俺が殺したんだ! だから! お前には指一本触らせてやるか!!! お前になんか!! 殺させてやるもんか!!! 」
殺して、とアゲハに言われたのは俺何だ。
殺したのは俺何だ! ありがとうと、俺に言ったんだ!!
殺意を込めた医者に対して、俺も最後の力を振り絞って走る。
医者は躊躇う素振りも無く顔面にメスを振るう。
俺自身も、躊躇う必要等無い。
合わせるように懇親の力を込めて拳を振りかぶる。
目の焦点すら合っていない医者の攻撃は大きくずれていた。
メスが頬を削る。
大量の血が廊下に飛び散る。
痛い、それでも俺は目を背けない。
痛み等、どうでもいい。
メスに対してクロスカウンターの様に拳を振りぬいた。
血飛沫と共に、男の顔に拳がめり込む。
容赦などしない。
体重を思いっきり乗せたまま全力で振り切る。
強い衝撃と共に医者の顔が後方に跳ねる。
医者は鼻血を飛ばしながら後ろにヨタヨタとよろめいた。
目を白目にしながらも医者はメスを離す事は無い。
「あ……あ……ああああああ゛ぁぁぁ!!」
涎を垂らし、悲鳴のような嗚咽を零しながら医者は再び俺に向かう。
先ほどと同じ様に、メスを振るう。
前に出た医者に対して。
同じ様に一歩前に出て拳を再び顔に叩き込む。
今度はメスが顔に掠る事も無く宙に舞う。
短い悲鳴を上げ、一歩後ろに下がる医者に対して。
一歩詰める。
また拳を振るう。
既に自分の血か、男の血かも解らない大量の血を撒き散らしながら。
よろめいて後ろに下がる医者に対して。
また一歩
また一歩、一歩、一歩。
頭から、頬からも流れる血は止まらない。
そんな物は気にしない。
怒りに任せて拳を振るい続ける。
これは。
アイツを嬲ったお前に対する報復だ。
これは。
コイツを止める為に必要な暴力だ。
これは。
……。
唯の俺の八つ当たりだ。
涙は血に混じる。
怒りも、悲しみも、全てを混ぜ込んだ俺の感情は止まらない。
俺自身も叫び声を上げる。
医者に向けて怒りの声を向けながら、拳を止めない。
「ちょっとだけでも優しくしてやればよかったんだ! ちょっとだけでも幸せにしたあげれば良かったんだ!! 不幸で可哀想な馬鹿なあの娘は! 何の為に生きてたんだよォォォォォォォォ!!!!!」
不幸な不幸な笑えない少女。
楽しい事も解らず、悲しい事も解らず、唯々……生きていただけだった幽霊。
だって可哀想じゃないか。
普通の女の子なのに、だって不憫じゃないか。
何度拳を叩き付けたのだろう。
拳は赤く染まる。
男の血だけでは無い。
容赦無く叩き付けた拳は耐え切れずに皮や肉がつぶれている。
下がる事も出来なくなっていた医者は、壁にもたれるようになっていた。
医者はズルズルと床に崩れ落ちる。
白い病院の廊下は血で赤く染まっていた。
医者が、動かなくなっていた。
そこで俺は、手を止める。
いつから動かなくなっていたのか何て知らない。
顔に付いた血を拭う事もせず、空ろな瞳で潰れた医者から、手術室のドアに目をやる。
ヨロヨロとドアの前に歩を進めると、力の無い瞳でドアを見つめていた。
ゆっくりと、力が抜けて行くと膝を付いてしまう。
この先に、彼女が居る。
幽霊娘。本物の死人になりやがって。
でも守ってやったぞ。カッコイイだろ。お前が待ってたヒーローみたいだろ。
手遅れになっちまったけど。
なあ、笑ってくれてるかよ。
笑ったら、お前本当に普通の女の子みたいだからよ。
天国でご両親と笑ってると良いな。
今の俺は面白いかよ。
幸せな笑顔で、死んだかよ。
……でも俺は笑えねえみたいだわ。
涙が止まらないんだ。
こんな時には、感情が無かったお前が羨ましいよ。
「うう…………」
嗚咽が、漏れる。
力が抜けた様に、その場に膝を着いて、蹲うずくまる。
冷たい廊下に子供の様に蹲うずくまる。
「ううう……うううう~~~~」
情けなく泣く。惨めに泣く。
鼻水が垂れ、涙で顔がぐしゃぐしゃになる。
「うううううううあああああああああああああ~~~~~……」
廊下に響く声は、俺の声。
ヒーローとは懸け離れた、情けない負け犬の、遠吠え。
「ずっと、戦っていたんだね」
声は突然、上から振ってくる。
その声に対して顔を挙げる力すら俺はもう残っていない。
声の主がそっと俺の背中に手を置いて、優しく摩る。
弱弱しく感じたその手は暖かい。
視線を横に向けると、手術服の姿の爺ちゃん先生が居た。
「良く……良く……頑張ったね」
その一言が、俺から力を抜けさせた。
気の張っていた意識が、突然遠くなる。
このまま死ねば、彼女にまた会えるのかな、何て。
頭の何所かで考えてしまっていた。
そんなわけが無いのは解っているのに。
精神的なせいなのか、身体的なものなのか。
頭の整理が付かなくなって来ている。
まるで頭の中をぐちゃぐちゃにされたような。
薄れ行く意識、朦朧とする。
それでも頭の中だけは目まぐるしく回転する。
わけが解らなくなっている中、思考は別の方へと向かっていく。
脳は認めたがらない、認めない思考は。
その問題から視線を逸らす。
ここはどこだっけ。
ここはなんだっけ。
俺は何してるんだっけ。
ああ、そうだ。
笑わせようとしてたんだった。
そうだ。 面白い事思いついたぞ。
これなら絶対に笑わせられる。
俺がアイツに好きだって言うんだ。
そしたらアイツは、きっとびっくりして、恥ずかしそうに笑う。
本当を少しだけ混ぜたら騙しやすいって良く言うもんな。
照れさせたり、とか、そういう方面では笑わした事無かったし。
これはやってみる価値があるよな。
いや、駄目だな。
アイツはどうせ無表情な顔で「私も」とか言って、逆に俺を慌てさせようとするに決まってる。
そしたら最後に、いつもみたいに。「冗談よ」って返すんだろうな。
じゃあ別の作戦にしよう。
そうだな、悪友共にもまた手伝って貰って。
絶対に今度こそアイツ笑うぞ。
アイツ笑ったら。
凄い。
可愛いんだ。




