おにおん 第二夜
夜遅く。町の地下にひしめく者どもは倉庫の軒下の鼠返しを囲み、攻城チュー。挑んでは落とされてのその繰り返しを一匹の老いさらばえた七郎鼠がじっと眺めては溜息を吐いていた。
「どいておれ。儂が手本を見せよう」
"夜を喰らう者"。町の鼠妖族の長老として知られる七郎鼠の大妖にとって、鼠返し等はアスレチックの遊具に過ぎない。幼く、まだ妖物として目覚めてもいない熊鼠や廿日鼠達の目の前で、"夜喰い”は軽々と、アクロバティックに、伸ばした尻尾の先を鼠返しに巻き付け、難なく穀物倉庫を攻略してのけた。
得意げに獲物のジャガイモをかじる"夜喰い"の周りに集う、おこぼれに預かろうという鼠達。
「すごいチュー」
そんな鼠達の姿を見て、褒めちぎられていても、"夜喰い"は誇らしげに胸を反らすだけ。
「じこチュー」
いつもどおり一人で平らげる"夜喰い"には、不平も寄せられた。
「だまらっしゃい。上手い飯が食いたかったら、お前さんらも妖力を操れるようにならんとのう」
"夜喰い"には大望がある。過去には、鼠小僧という、要らぬ大判小判を捨てて、人を喜ばせつつ、うまいものを食い散らかした大妖がいた。己のそれは、数以外他に取り柄のない種族を率いて、いつしか、地下世界"下水管"より進撃し、この人間の町を乗っ取ろうというものだ。
それには、出来ない事を出来ると示し、修練させるより他無い。
ある日のこと。
「いくら"夜喰い"様でもきっとあそこは無理チュー」
「あ、もしかしてあそこチュか」
意味深な言葉をささやき合う二匹の声を聞き、"夜喰い"は鼻をヒクヒクとさせながら思案した。
「ちゅっちゅっチュー」
「こんなところじゃだめチュー」
近隣のどこかの家からムーディッシュな夜想曲が流れる中、一組の番いがはじめようとする何か。それを制するが如くそれを押しのける"夜喰い"。曲もまた止まった。
夜喰いは後ろ足で器用に立った。
「儂に挑めぬ処なぞ、あるわけがあるまい」
顔を見合わせる二匹。
「……お、おにおんのすみかチュー」
「人間が言ってたチュー。危険チュー」
「玉葱の住処? たまにはそういうのもよかろう」
中に何があるかなど関係が無い。"夜喰い"は無理と言われると可能と示したくなる性分だった。
呆気に取られるほど簡単。床下より壁の中を通って天井に出て、降りれそうなところを試してみると、高く積まれていた柔らかいものの上に落ちる。それを掴んで器用に下り、光の漏れる襖に鼻先を押し込んで開かせると、押し入れの中に入ってくる光に積み重ねられた布団が浮かび上がった。
大人しそうな男が一人、台所で食器を片付けていた。
"夜喰い"は大妖らしく堂々床を這って歩き、立派なヒゲを床に擦らせぬよう背筋をそらし、尻尾をピンと立てて、しゃなりしゃなりと歩いた。その姿には鼠の貴賓らしい気品が漂っていた。
このまま人の足下でも駆けてからかい、飯の一つも掠め取ってきてやるか。そう思っていたところ。
「おお、こ、これは」
リビングの片隅にある仏壇から、香しい臭いが漂う。そちらを見た"夜喰い"は、カマンベールのなんとも柔らかそうな身を見て目の色を変えた。急ぎかけよってみると、むせかえるような馥郁たる香りが鼻を刺激した。
「ん、んまい。こっこれは……なんという」
忘我の境。鼻先が埋まるほどの柔らかいチーズ。無我夢中で食らいつく"夜喰い"は、ふと己を覆うほどの影が仏壇にかかっていることに気づいて、後ろを振り向いた。
「俺の目の前で、チーズを喰うだぁ? てめぇよう。良い度胸してんじゃねえか」
『な、なんと!?』
迫り来る圧倒的な存在感と殺意。鉈の如き凶器。
なぜ、こんな気配に気づけなかったのか。狼狽する"夜喰い"。だが、大震災も空爆も生き延びた怪鼠だ。怯むのも一瞬。
跳躍して宙返り。たちまち、どろん、とスレンダーでありながら眼差しの妖艶な女へと変じる。
「おやめ下さいまし。御腹が空いていたので御座います。御礼に何なりと致します故、どうぞ」
隣室よりベランダを通して、ミハイル・グリンカの『別れ』がかすかに聞こえる。
これぞ、年の功。人の男の子の心なんぞ、たちまちのうちに手玉にとってくれようぞ。"夜喰い"は変じた人の女の顔にしなをつくらせて口を開いた。
「鼠だけに、マウストゥーマウス、なぁんて……ね?」
どれだけ修羅場をくぐり抜けてきたか。緊張を解すトークも何のその。微笑を浮かべし"夜喰い"の魅了の業。
「へぇ。……今、なんでもって、言ったなぁ。そいつに間違いはねぇんだろうなぁ」
「ええ」
仏壇に飾られる写真。"夜喰い"はその姿に変じていた。おおかた、敷かれた布団の上に横たわらせられて、少々遊ばれるのだろう。しかし、それが終われば、晴れて明日の夜明けには生きて出られる。
ぐい、手首を引かれる"夜喰い"。かかった、とほくそ笑む。
PCデスクの前へと鼠女を連れたオニオンは、壊れてしまったPC用ワイヤレスマウスを突きつけた。
「こいつに化けろ」
「……は、はぁ」
"夜喰い"にとっては予想外の展開。だが、男が右手にしている骨切り包丁が振るわれさえしなければいい。
どろん。
見事に化けてのけた"夜喰い"の変化の妙。分厚い皮の手に包まれた"夜喰い"マウス。
「動かねえじゃねえか」
掴み上げられる"夜喰い"マウス。オニオンの双眸に宿る妖しい輝きを見て戦慄する。今度こそ調伏されてしまうのではなかろうか。そう怯えていたところ。
「あ、そうか。すまねえな」
鼠の姿であれば腹のあたりより大分下。そこを見たオニオンが一人納得し、引き出しからティムという社名の入ったパックに包まれた、ポールという製品名の単三乾電池を取り出し、一本だけ剥いた。
挿入タイプの電池入れへと宛がわれる、単三乾電池。
『ま、待つのじゃ。……や、やめてくれ。許して、そ、それだけは……』
哀願する"夜喰い"。だが、その悲哀に満ちた音色に、オニオンの嗜虐性がくすぐられた。
『ッンア゛ー!!』
この日、鬼怨の棲家より響き渡る闇のメロディーに新たな音色が加わった。
電気責めに乾電池挿入でへとへととなった"夜喰い"は、つまようじを杖にしてよたよたと歩き。仲間の鼠たちに肩を貸されてからは、手の届かない尻に必死に前足を伸ばす滑稽な格好で、その家を後にした。
以後、鼠たちはけっしてそのマンションには近づかなくなり、管理会社は防鼠対策の高評価に、首をかしげたという。