第8幕
呼び出し音が鳴り続いている。これで何回目だろうか。今日、朝起きてから同じ人に時間を置いて何回も電話を掛けているがなかなか捕まえることができない。相手が出るまで落ち着かず、自分の部屋でうろうろしてしまう。結局昨日はなかなか寝ることができず、最後に時計を見たのは3時を少し過ぎた頃だった。
今の時間は1時過ぎだ。起きたのはついさっき。昨日の疲れがまだ取れていないようだ。重い瞼を擦っていた時、受話器の向こうで相手が出る音がした。
「はいはい、どうしたの。何回も掛けてきて」
「あ、お母さん?」
朝から電話を掛けていたのは母親の岬だ。
「聞きたいことがあって」
葉介は遠慮気味に切り出した。
「大丈夫よ。仕事も一段落して、今休憩だから」
その言葉にほっとする。
「俺が5歳くらいのこと聞きたいんだけどいいかな」
「え……」
岬が少し戸惑うのがわかった。葉介の両親が離婚協議を行っていた時期はちょうど葉介が5歳の時だ。
「ごめん。嫌なこと思い出させるかもしれないけど」
「まあ、いいわ。解決したことだもの。大丈夫よ」
葉介の身体に纏わりついていた緊張がするりと解けた。
「おばあちゃん家にいた時、俺の友達で綾って子がいたの憶えてる?」
「んー……そうね」
岬はしばらく考え込んでいた。当時のことを思い出しているのだろう。葉介が律の元に預けられているとき、彼は毎晩その日にあったことを母親の岬に話していたらしい。それなら綾のことを岬に話しているだろうと葉介は推測した。
「憶えてないわね……。そんな名前聞いたことないわ。何かあったの?」
しかし、葉介の推測は呆気なく外れてしまった。母親の岬が好きだったそのころの葉介がその日遊んだ子のことを言い忘れるはずがなかった。1日2日ならまだしも、その当時葉介は毎日のように綾と遊んでいたのだ。絶対に一回は母親に話すはずである。
「そっか。いや、憶えてないならいいんだ。ありがとう」
「そう。あ、ちょっと待って」
電話を切ろうとした葉介を岬は呼び止めた。
「葉介、あんたいつ帰ってくるの? 大丈夫なの?」
心配そうな声が聞こえてきた。安心感が葉介を包む。
「もうすぐ帰るよ。心配かけてごめん」
母親を安心させるためにそう言う。安心させるために言ったが本当にもうすぐ帰るだろうなと思った。
「そう。気を付けて帰ってらっしゃいね」
「うん。ありがとう。じゃあ」
そう言って電話を切る。葉介の中の疑問は大きく膨れていく。
「綾……お前は誰だ」
そう呟いて、腰を下ろし、壁にもたれ掛った。生温い風は葉介の不安をより一層煽るだけだった。
「ただいまあ」
玄関の引き戸が開いたと思ったら、次の瞬間明るい声が聞こえた。
「葉介―いるのー?」
律は玄関で履物を脱ぎながら、家の奥へ向かってそう声を掛けた。どすどすと階段を降りる音が聞こえたと思うと、葉介がひょこっと顔を出した。
「ばあちゃんおかえり。今日も友達のところ?」
「ええ。葉介は今日はおうちでおとなしいのね」
「まあね」
律の言葉にそうとしか答えられない。
「友達とは遊ばないの?」
この律の言葉にハッとする。
「ばあちゃん、俺の友達の名前知ってる?」
葉介は少し勢いづいて律に聞く。それに圧倒され、律は仰け反るが落ち着いて答える。
「いいえ。知らないわ」
「本当に? 綾って子、知らない?」
「……。あなた、綾のことについて何か知ってるの?」
律が急に静かに言った。葉介は確信した。律は綾のことを知っている。
「知らない。ばあちゃん何か知ってるんだね」
律は静かに頷く。
「少し出かけましょう。そこで話してあげるわ」
そう言って律は脱いだ履物を履き直し、玄関を出た。葉介は慌てて後を追いかけた。
律と葉介は墓地にいた。真中家と彫られた墓石の前に二人で並んで手を合わせている。
「ばあちゃん、ここは」
「私の友人のお墓よ」
墓前に線香が立っている。ラベンダーの香りを流れてくる。
「真中綾。それがここに眠っている私の友人の……あなたが幼馴染と思っている子の名前よ」
葉介は驚きのあまり、眼を見開く。
「え……。じゃあ、綾は……」
「私が二一、彼女が二〇の時に亡くなったわ」
そう言うと律はポツリポツリと話し始めた。
律と綾は親戚同士、律の母親の姪が綾だった。家も近く、歳も近いことから小さいころから二人で頻繁に遊んでいた。どこに行くのも二人一緒であった。川に行って遊んだり、おはじきやあやとりなどもして遊んだ。本当に仲のいい、姉妹のような二人だった。しかし、その関係も突如として終わりを告げる。
律が二一になって一週間たった夏の日だ。井戸から綾の死体が上がったのだ。死亡推定時刻は前日の夜らしい。警察に事情聴取されている時にアリバイを聞かれたのがその時間帯だったからだ。
律は激しい悲しみに襲われた。夜も寝つけない日が続いた。しかし、そんな律をさらにどん底に陥れる事件が起こる。
ある朝、激しい怒声に目が覚めた。声は玄関先から聞こえてくるようだ。眠い目を擦りながら玄関へ向かうと、警察と手錠を掛けられた父の姿があった。何の罪かは気が動転して憶えていない。後から落ち着いて聞くと、父は綾を犯した後に殺し、井戸に捨てたという。
絶望であった。実の父が大切な友人の命を奪ったのだ。それからは律は魂の抜けたように呆けて一日を過ごすようになった。
そんなある日だった。いつものように縁側でぼうっとしていた時だ。
「律ちゃん」
懐かしい声が聞こえた。振り返ると、懐かしいショートカットの髪が目に入った。
「綾……」
あまりに突然の事で事態が飲み込めないが、視界はぼんやりとぼやけていた。
「泣かないで……。こうやってまた会えたんだから」
「ごめんなさい。ごめんなさい。綾」
律は綾に抱きつき、何度も何度も謝り続けた。
「いいのよ。律ちゃんは何も悪くないわ。それに……おじさんもね」
その言葉にハッと顔を上げる。
「何言ってるの? お父さんは最低よ。あんな人、父親以前に人間でもないわ」
律がそう言い捨てると、綾の手のひらが律の左頬をすり抜けた。
「綾……?」
「やっぱり触れないか……」
綾は悲しそうに自分の右手を見た。
「あなた……」
「幽霊になっちゃったみたい」
綾はそういうと悲しそうに笑った。
「律ちゃん。律ちゃんのお父さんはちゃんと人間だよ」
「何を言うの?」
「私は律ちゃんのお父さん、恨んでなんかないの。愛してくれたからね」
律は苦悶の表情を浮かべた。
「そんな……」
「律ちゃん、人って死んだ人を忘れる何てことできないのね。おじさん、おばさんの事今でも想ってるって言ってた」
その言葉に律は、わけがわからないっといった表情を浮かべる。
「どういうこと?」
その疑問はそのまま言葉となっていた。
「おじさんはおばさんと私を重ねてみていたの……。かわいそうだった。だから私も身体を許してしまった」
綾が自分の身体を抱え、少し震えた。掴んだ腕に細い指が食い込む。
「でも、おじさんは怖くなったのね。終わった後におじさんの手が首に伸びて……私は死んだの」
綾の目に涙が滲み始めていた。律は既に涙と鼻水で顔を汚していた。吐き気すら催している。胃液が込み上げては下がっていくのを何度も感じていた。
「死ぬ直前に思ったわ。おじさんを愛し、おじさんから愛された。それでいいのって。もう未練はないのって。そう思って死んだの」
綾の頬に一筋の光が滑る。滑らかに顎まで伝って、一粒の雫が零れた。
「目が覚めたらって言ったらいいのかわからないけど。気が付いたら井戸の前にいたわ。井戸を覗くと私がいた。死んだんだって思った。それから何日経っても何も起こらない。私は何で天に召されるなり、成仏するなりしないんだろうって思ったの。考えて考えて……・ある日一つの結論に辿り着いたの」
律の肩に綾の手が置かれた。無論、乗せられているという感覚は律にはない。綾は真っ直ぐ律を見つめる。その目は涙を溜め切れず、ボロボロと涙が溢れ出ている。
「律ちゃん……私、愛されたい」
言葉の最後は嗚咽交じりで聞き取りにくかったが、律ははっきりそう聞いた。綾は堰を切ったように言葉を紡ぐ。
「愛されたいよ……! 誰かの代わりとしてでなく! ちゃんと、私として愛されたいよ。ただ受け止めるだけじゃなくて、何かを返すあいしかたをしたいよ! 律ちゃん」
律はしゃくりあげる綾をゆっくりと抱きしめた。露出した肌に、綾が触れているという感覚はなかったが、確かにここにいるんだと感じることができた。この未練こそが彼女をこの世に繋ぎ止める理由なのだと感じた。
それから五〇余年。綾はずっと律の家にいた。律の夫が引っ越しを提案した時も、夫が死に近所に親戚がいなくなり、葉介の父など息子たちが一緒に住もうと言った時も律は家から出ようとしなかった。綾が存在できる場所だから引き払うわけにはいかなかったのだ。
「……。じゃあ、綾は俺の親戚でもあるってことか」
「そうなるわね」
葉介はいまいち話が飲み込めないでいた。綾は、この世の人間ではない。しかし、そんな現実離れした話は信じられなかった。
「綾は小さい頃の葉ちゃんとも遊んでたみたいね……。綾からよく話を聞いたもの」
当時のことを思い出す。綾と遊んだ風景が脳裏に浮かんでくるが、記憶の中の綾は黒い靄のようなものが掛かって、うまく思い出せない。混乱する葉介を余所に、律は手に提げているカバンから一枚の紙切れを取り出し、葉介に差し出した。
「これが綾と取った最後の写真よ」
「!」
葉介の知らない人に混じって、一人の少女と仲睦まし気に肩を並べる綾の姿がそこに移っていた。背景にあるのは律の家の門だ。
「隣がばあちゃん?」
「そうよ。若いでしょ?」
律は照れたように笑ったが、葉介は写真に気を取られており、生返事しかできなかった。確かに写真の中で笑っているのは綾だ。間違いようがなかった。
「あ……」
記憶の中の黒い靄がすうっと消えていく。記憶の中にはっきりと綾の姿が映し出されたが、その姿は写真の中のままだ。当時5歳の葉介の身長とはだいぶ差があった。何故、幼馴染と思えていたのだろう。
「小さい頃は遊ぶたびに記憶を消していたみたいね。でも、再会した時に自分の姿に関しての記憶以外は思い出させたみたい。器用な子ね」
律は困ったように笑ったが、葉介の写真の持つ手は震えていた。
「幽霊なんだろ……? しかも5歳のときに母さんたちのとこに戻ってからもばあちゃん家には行ってたけど、綾には会ってないよ……」
葉介はその時の一番の疑問を律に聞いてみた。
「何で今、また見えるようになったんだよ」
律は少し考え込むような素振りをした後、葉介に向かって言った。
「葉ちゃんが苦しみを抱えていたからじゃない?」
葉介はわけがわからずに、
「苦しみ……?」
と繰り返すだけだった。
「そう。私もそうだけど。私は父親が犯罪者という大きな苦しみを持ってるでしょう? 同じように、あなたも大きな苦しみを抱えていたからじゃないかしら。私の知り合いにも、ほら、あの喫茶店のマスター。大地っていう名前なんだけど。彼も綾が見えてた時期があるのよ。お店が経営難になってね。その時も大ちゃんは大きな苦しみを抱えていたわね。だから、葉ちゃんも大きな苦しみがあるから綾が見えるのよ」
そう言うと律は、優しく葉介を見つめた。何となくだが、その説明で納得してしまいそうだった。いや、もう納得してしまっているのかもしれない。葉介の脳が考えるのを放棄しているような気もする。
「これが綾の秘密よ。綾はもう死んでるの。でも、本当の愛を求めて、今も彷徨ってるわ。あの子は綺麗だから、たくさんの男の人に言い寄られたわ。でもね、その誰もが綾の中身を見なかったの。綾を綾という人間として見てなかったのね。そこに私が先に結婚しちゃって、愛に飢えていた所に父親が……。父親も亡き母を綾を通して見ているに過ぎなかった。最初は綾という人間を見てくれていると思ったのかもしれないけど、死ぬ直前で気づいてしまったのよね。父も綾を愛しているわけでなく、綾を通して見える母を愛しているに過ぎないんだって。だから……葉ちゃん……」
そこまで話して、律は言葉を詰まらす。何か言いにくいことを言おうとしているのがわかる。葉介は黙って律を見て、言葉を待つ。
「綾のことどう思う?」
「え?」
葉介はいきなりの質問に素っ頓狂な声を上げる。吹き出した汗が頬を伝う。
「どうって……」
葉介の頭の中は様々な情報が駆け巡り、渋滞を起こし、また新たな思考を始められる状態ではなかった。言葉が出てこず、沈黙する。
「綾の事、好き?」
「……」
律の目は真っ直ぐに葉介の目を捉えている。優しさの中に真剣さが垣間見える。それに葉介は面食らう。この質問がどういう意味を持つのか、葉介にはわからない。
「私は綾を早く楽にしてあげたいと思うの。私が死ぬ前に。あの子を見ていられるうちに」
「……楽に」
楽にしてあげたい。この意味が分からない程、葉介はバカではない。律の昔話を聞いて、確かに楽にしてやりたいとは思う。今だって、過去の嫌な思い出や、満たされない思いを抱え、どこかを彷徨っているのだろう。しかし、
「ばあちゃん、ごめん。わからない」
強い風がざあっと吹く。線香の煙がそれに煽られて、真横に伸びた。ラベンダーの香りが葉介の鼻に纏わりつく。
「そう……。しょうがないわね。恋っていうのは一人の一方的な気持ちじゃ成り立たないし、強要されるものでもするものでもないわ。ごめんなさい。私、急ぎ過ぎちゃうみたい」
そう言う律の顔はどこか悲しげだ。葉介の胸は、その表情にざわつき始める。
「ふふ、そんな顔しないでも大丈夫よ。私の勝手な願いなのよ。一瞬でも孫にそれを押し付けようなんて思っちゃいないわ。安心して」
律はそう言うと、葉介の頭に手を置き、優しく撫でた。柔らかく、優しい手だ。律の言っていることが本心だとわかる。胸のざわつきが徐々に治まっていく。
「さあ、帰りましょうか」
律はさっと立ち上がり、大きく伸びをした。
「ああもう、ばあちゃん腰に悪いよ」
そんな様子に葉介は苦笑しつつ、律と家路についたのだった。