第7幕
次の日、葉介は朝から綾を探しに出かけるも、ここ辺りと言えばやはりあの川しか思い当たらず、再びあの森へ行ってみたが川自体が見つからず、そのまま昼になってしまった。葉介の中の綾との思い出と言えば、あの川しか思い当たらず、それ以外にも律に連れて行ってもらった神社や公園なども探してみたが見当たらなかったのは昨日の話だ。
二日目にして捜索は行き詰ってしまった。
「さっきから溜息ばかりですねえ」
カウンターの向こうのマスターが笑いながらは葉介に話しかけた。仕事は昼のピークの時間を過ぎて落ち着いている。
「いや、まあそうですね」
葉介もそれに力無い笑顔で答える。昼を過ぎてどこへ行けばいいかわからなくなり、途方に暮れていた所にこの喫茶店が目に入ったので足を運んだのだ。
「また何かお悩みですか? この前とはまた違った表情をしていますが」
「そうですか?」
思わず自分の頬を摩る。
「ええ、何というか、答えが見えないというか。そんな表情をしていらっしゃいますよ」
マスターはグラスを磨きながら言った。
「確かに……。答えというか。理由がわからないってところですね」
「理由……ですか?」
マスターは意外そうに尋ねた。それに葉介は首を縦に動かし応え、続ける。
「そうなんですよ。幼馴染に今抱えている悩みを打ち明けたんですよ」
「よかったじゃないですか。それは進歩だと思いますが」
「その時に言われたんですよね。その悩みから逃げろみたいなことを」
そこまで話して、葉介は再び大きなため息を吐いた。
「逃げる……?」
「はい。確かにその幼馴染の言う通りにすれば、僕の抱えている悩みは無くなりますが、それはなんというか」
そこまで言って葉介は俯いた。言葉を紡げずにいる。
「逃げることは悪いことでしょうか」
マスターがぽつりと呟いた。
「え?」
「逃げることって、悪いことなんですかね?」
マスターはそこまで言って、また笑った。そして葉介を見る。
「逃げることから、逃げてると言うことも考えられますけどね」
葉介にはよくわからなかった。
「とりあえず、幼馴染には一通り話してみたんですけど、どうにも僕の状況を理解しきれないみたいなんです。それでなんか喧嘩みたいになっちゃって」
「そうだったんですか」
「ええ。僕にはわからないんですよ。なんであんなことを言われたのか。わからないというか、向こうがわかってないというか」
そう言って葉介は膨れる。呆れ返ったようにマスターは苦笑する。そして葉介に正対する。
「本当ににわからなくても、その子はわかろうとしてくれたんだと思いますよ。わかろうとした上で、あなたに逃げるように言ったんじゃないですか?」
「僕にはそれがおせっかいに感じますよ」
葉介は不機嫌に言い放つ。マスターは相変わらず優しげな笑顔を崩さない。そして突拍子もないことを言う。
「それだけ好きなんですよ。あなたのことが」
葉介は飲んでいた緑茶を吹き出しそうになる。少量気管に流れ込み、激しく咳き込む。大きく見開かれた目でマスターを見る。
「それはあり得ないですよ」
「そうとは限りません」
「幼馴染です」
葉介は必死にマスターの言う可能性を否定する。
あり得ない。綾は幼馴染だ。昔からの彼女を知っているのだ。お互いがお互いに好意を抱くなど、あり得ない。昔はそんな感情が彼女の方にも自分にもあった時期があるかもしれないが、今現在は考えにくかった。
「幼馴染と言っても、女性の気持ちはわからんものです」
マスターが含みのある笑顔を葉介に向ける。
「だから、ないですってば」
それに葉介は困った笑顔を向け、応じた。
「その幼馴染の方とはいつごろからの付き合いなんですか? ここに来るたびに遊んでいるようですけど」
「え……? そうですね……。5歳頃……」
そこで葉介が時折感じていた、綾に対する違和感の正体が、霧が晴れるようにくっきりしてきた。
「違う……。俺、綾とは5歳のころから……」
「どうしました?」
急に動揺し始めた葉介に、マスターは驚き、そう声を掛けた。しかし、葉介の動揺は大きく、マスターの声は届いていないようだ。
「すいません。今日はもう帰ります。お会計を……」
カウンター席をフラフラと立ち上がり、マスターにそう告げた。マスターは戸惑いながらもそれに頷き、金額を伝えた。
「ありがとうございます」
葉介は一礼すると喫茶店を覚束ない足取りで出た。
家に帰ると中はしんとしていた。律はまた出かけているらしい。廊下を進み、居間に入る。テレビを点けようとして、リモコンを本体に向けた時だ。
テレビ台の引き出しが少し開いている。律が開けて、閉め忘れたのだろうか。その僅かな隙間が気になり、近づいて閉めようと手を伸ばした時だ。
「ん?」
葉介の目が何かを捉えた。
「写真か?」
その何かを取り出し、よく見てみる。葉介の言った通り、写真である。だいぶ前に取ったものらしく、劣化が見られた。
「これ、俺じゃん」
その写真は、5歳の頃この家で律と死んだ祖父とで取った写真であった。
「こんな小さかったんだ俺。ん? 俺が持ってるのって」
写真に写る自分の手元に視線が行った。
「このお菓子……。綾が好きなやつじゃん」
幼い葉介が握っていたのは、綾が好きなものであった。そして、綾の言動を思い出す。
「パッケージのデザイン、この頃から変わってねえよ」