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つめたいナツ  作者: 無明
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第6幕

 カーテンがふわりと膨らんでいる。視界に移る涼しげな光景とは裏腹に、生温い風が葉介の肌を撫でた。じわりじわりと体から水分が抜けていくのがわかる。抜けていくと言うよりも飛んでいくと言った方がいい。蒸気となって飛んでいく。生温い風に乗って、微かに香るものがあった。水がコンクリートに染みる匂いや、刈られた草の断面から立ち込める匂い、そんな自然な匂いに混じって、人工的な香りが漂ってくる。

「……ラベンダー?」

 それは人工的に凝縮されたラベンダーの香りだった。芳香剤のような、アロマオイルのようなそんな人工物の香りだ。

「どこから?」

 そう考えかけたが、どこかの芳香剤が香っているのだと思ってやめた。再び寝転がると先程とは打って変わって、涼しい、いや涼しすぎるくらいの風が舞い込んだ。腕にはぼつぼつと鳥肌が立つ。起き上り、窓に手を伸ばすと後ろから声が聞こえた。

「ほんと、私がいないと出不精だよね」

 振り返ると、白いワンピースのスカートが揺れた。少し悲しげな表情が葉介の胸を衝く。が構わず応戦する。

「悪かったな。外に出る気起きなくて」

「何? ほっとかれたの怒ってる?」

「何でだよ」

 二、三言葉を交わすと、いつも通りだ。普通に話せる自分にほっとする。

「いつも通り……」

 そう呟いて、はっとする。またこの感覚だ。いつも通りと言うほど彼女と時間を共にしていただろうか。突如としてそんな疑問が思考を支配した。

「葉ちゃん?」

 綾の声で現実に引き戻される。短い髪が、さらさらと揺れている。それをぼんやりと眺める。艶のいい髪だ。

「どうしたの?」

「いや、何でもない」

「やめなよ」

 突然、綾はそんなことを言った。

「え?」

 葉介は何が〝やめなよ〟なのかわからなかった。

「そうやって言いたいこと飲み込むの、やめなよ」

 綾の表情はどことなく苦しそうだ。いや、実際苦しいのかもしれない。

「そんなことな」

「そんなことあるじゃん」

 葉介の言葉を待たずに綾は言った。葉介は言葉を続けることができない。


「葉ちゃん、あの人と別れて」

「薫のことは関係ないだろ!」

 何故、ここで薫が出てくるのか理解できなかった。

「……あるよ」

 ぽつりと綾の口からそう零れた。いつの間にか俯き、その表情は窺うことはできない。ひやりとした風が吹き込み、汗で濡れた肌を冷やした。

「何であるんだよ?」

 やっとのことで声を絞り出す。

「あの人は葉ちゃんの優しさを貪ってるだけだよ。葉ちゃんの優しさは独占するものじゃないよ」

「そんなこと言うな!」

 葉介の声が荒くなる。目の前の綾に怒りを向けているはずなのに、全くそういう感覚にならない。胸の奥が、化膿した傷のように痛む。

「事実だよ。葉ちゃんもわかってるはずだよ」

「事実……?」

「あの人に何か返してもらったことある?」

 一瞬、綾のいう〝何か〟の意味するものがわからなかった。

「……」

 薫から優しさを返してもらったことはない。いつでも葉介から薫へ対して、優しさは向けられていた。その事実が言葉を詰まらせていた。

「もうあの人とは別れよう?」

 綾が念を押す。

「やめろって言ってるだろ!」

 突然の怒声に綾は肩を竦めた。葉介は呼吸が荒くなっているのに気付いた。思った以上に動揺している。

「葉ちゃんは……幸せになっていいんだよ……。幸せになるためだけにその優しさを誰かに与えるの」

 懇願するような眼差しで綾は葉介を見つめた。その眼には涙がうっすらと滲んでいる。

「お願い。自分をこれ以上傷付けないで」

「うるさいよ」

 葉介はなんとかそう絞り出した。その瞬間、ポケットに入れていた携帯が震えだした。話を中断して、携帯を取り出す。薫からだった。一瞬眩暈がする。

「出ないで」

 綾の声が頭に響いた。

「何で?」


 そう言って綾を睨む。

「出ないで!」

 綾がそう張り上げたと同時に振動は止んだ。画面を見ると圏外になっている。

「……またか」

「逃げられないなら、もうここに住めばいい。あの人の記憶から葉ちゃんが無くなるまで」

「無茶言うなよ。大学だってあるし」

 そう言うと二人とも黙り込んでしまった。

「葉ちゃん、もう一度言うけど」

「もう黙ってろよ」

 綾の目も見ずにそう言い捨てた。言った後にしまったという後悔が湧き、頭に上った血が引いていく。綾に目を向ける。彼女は黙っていた。何も言わない。ただ、その頬には涙が一筋の線を引いていた。この世の中にある何ものにも優って綺麗だった。

「あ、綾」

「ごめんね。救い出してあげたいって思ったんだけど」

 そう言うと、綾は立ち上がって部屋から出ていった。葉介はその後を追うことができなかった。再び生温い風が葉介を包んだ。ラベンダーの香りがまだ立ち込めていた。

 5分程経った後、やっと動けるようになった葉介は綾を探しに、雲行きの怪しくなってきた空の下に立っていた。


 墓前で手を合わせていた律は、急に自分に影が差したので、伏せていた顔を挙げた。

「あら……綾じゃない」

「りっちゃん……」

 律を見つめ、綾は顔を歪める。また涙が頬を伝った。

「どうしたの? 喧嘩でもした? 」

 泣き止まない綾を律はそっと包み込んだ。律よりも背の低い綾は、律の襟元にその目元を押しつけた。小さく嗚咽が漏れている。そんな綾の頭を、律は優しく撫でた。

「喧嘩したのね……」

「葉ちゃん、何もわかってくれない。みんながどれだけ葉ちゃんに幸せになってほしいと思って……」

「綾……しょうがないのよ」

 律が優しく言った。

「何が? 何がしょうがないの?」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった綾に律は優しく言う。

「簡単にはわかり合えないものよ、人っていうのは。だから正面からぶつかれば反発もする。でもね、大丈夫。きっとわかり合えるわよ」


「そうかな?」

 そう不安げに見上げる綾に、律は優しく微笑む。

「でもね……わからないの。葉ちゃんが何で幸せになろうとしないのか」

 綾はそう言ってすぐに俯いてしまった。その様子に律の微笑みも引っ込んでしまった。

「どういうことなの? 少しお話しましょうか」

 律は墓地のすぐそばの段差に腰を下ろし、綾にも隣に来るように促した。座った二人の間に沈黙が訪れた。蝉がけたたましく鳴いているが、それが暑さを助長することはない。日なたにいるにも関わらず、涼しい空気が二人を包んでいた。律の汗も徐々に引いていく。

「あのね」

 沈黙を破ったのは綾だ。律はそっと綾に向き直る。切り出したはいいものの、綾は続きを口に出すのを躊躇っているように見える。柔らかい風が綾の髪を揺らしている。

「葉ちゃんにはこのことを話したの、内緒にしてほしいの」

 律は静かに頷く。

「もちろんよ。抱えきれないものは降ろして軽くしないとね」

「ごめんね。黙っていようと思ったんだけどもうどうすればいいかわからなくて。私がここにいられる唯一の理由なのに……私」

「落ち着きなさい。大丈夫。ゆっくり話せばいいの」

 綾は深呼吸をした後、ぽつりぽつりと葉介から聞いた、彼の都会での生活を話した。律はそれに、時に大きく頷き、時に驚いたように大きく目を見開きながら聞いていた。

 相変わらず蝉がうるさく鳴いていたが、二人は気にも留めずに話し続けた。律が置いた線香が風に乗って流れていった。


 律が玄関を開けると葉介が座り込んでいた。夕方になり、日の入らなくなった玄関は薄暗く、一瞬何がいるのか律は判断することができなかった。

「葉ちゃん?」

 恐る恐る声を掛けると、葉介はゆっくりと顔を上げた。その顔には尋常でない疲労が見える。

「ああ……。ばあちゃん。遅かったね」

「いつからいるの?」

「ええと……三〇分前かな」

 葉介は力なく笑う。

「ばあちゃん、どこ行ってたの?」

「ちょっと、古い友人に会いにね」

「この前言ってた喫茶店の?」

「違うわよ」

 律は首を横に振ると、履物を脱ぎ、家に上がった。葉介の横をすり抜けると、振り返り、葉介に言った。


「葉ちゃん、晩御飯作るから、手伝ってちょうだい。今日はとんかつにするから」

 葉介の頭の中には、きつね色の衣が浮かんでいた。

「ん? ばあちゃん、なんか香水つけてる?」

 律は不思議そうに葉介の顔を見る。

「いいえ。つけてないわよ」

「なんかラベンダーの匂いがするから」

「あら、友達の匂いつけられちゃったわ」

 律は嬉しそうに笑った。


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