第5幕
「ようちゃーん、こっちこっちー」
川岸を挟んだ向こう側で綾が手を振っている。今日は朝から綾に振り回されている。町中をひたすら連れまわされ、ここが変わった、あれは昔からあるなどと綾がずっと喋っていた。
「ちょっと待ってくれよ。今日はやけにはしゃいでるよな」
葉介は息を切らしながら、やっとのことで綾に追いつくと綾を見上げながら言った。
「まあねえ。葉ちゃんがなんか元気そうだから……かな」
「どういうことだよ」
「いいじゃない。楽しいでしょ?」
実際、綾とこうして過ごしている時間が一番心が安らいでいる気がした。気を使うこともなく、自然体でいれる。つい最近まで、四六時中神経を張りつめていた自分が嘘のようだった。
「楽しいよ」
こうして心の底からの笑顔も久々かもしれない。ここに来て綾と再会してからというもの、凍てついていた感情が解けて、心の中で躍動し始めるように感じていた。
「この川って昔からここにあったっけ?」
ぼんやりとそう、綾に訊ねていた。綾はその言葉に一瞬戸惑ったように見えたがすぐに答えた。
「うん、そうだよ。どうして?」
「いや、なんでもない」
考えるのはやめよう。そう葉介は考えていた。律が嘘を言っているはずがなかった。しかし、あるものはあるのだ。目の前に。涼しげな流水が心地よい音を耳に運んでくる。その音もはっきり聞こえているのだ。あるかないかということはそれほど重要でない気がしていた。
「なにぼうっとしてんのよ」
目の前で綾の手に握られた、生きのいい魚が躍っていた。
「おわっ」
葉介はバランスを崩し、川の中へ靴のまま、足を突っ込んでしまった。ばしゃりという音に遅れて、じんわりと水が靴下を浸していくのが感じられた。
「つめてえ。なにすんだよ」
きっと綾を睨むが、その視線の先にある顔には悪びれた様子は窺えない。それを見て再び笑った。
「葉ちゃん、ほんとに元気になった」
綾は柔らかく微笑む。
「うん」
葉介もそれに応えて笑顔で綾を見つめた。
「ちょっとトイレ」
綾はそういうと川から上がり、森の奥へ消えていった。
「どこのトイレ使う気なんだろう」
そう不審に思っていると、ポケットの中で小さい振動を感じた。
「…………」
しばらくすると振動は止んだ。葉介はポケットに手を突っ込み、黒いプラスチックの塊を取り出す。画面には薫の名前が表示されていた。自然とため息が出る。メールらしい。開いてみるとこう書かれていた。
あの時はごめん。ホントにただの友達なの。
たったの二行だ。しかし、怒りは湧いてこない。あのことがあった瞬間も怒りは抱いてなかった。むしろ、何かから解き放たれるような、そんな感覚が全身を支配していたような気がする。
「!」
いきなり、眺めていた携帯が震えだした。今度は電話だったらしく、反射で通話ボタンを押してしまった。
「……もしもし」
そっと携帯を耳に当てるとそう聞こえてきた。薫の声だ。
「なに?」
なるべく冷静に返事をする。心臓は今にも喉を這い登って出てきそうだ。
「あの……謝りたくって。私はあなた一筋だから」
「だから?」
「だから……ごめんね。誤解なの。好きなの、葉介が」
「そう」
ああ、まただ。葉介の頭の中で心の声が反響した。また、引き戻される。前にもこれに似た出来事が何度もあった。この先にある苦痛を避けるべく、同じ言葉で戻ってきてしまうのだ。
「……いいよ」
頭から一気に血の気が引いた。背中にずしりとした何かが圧し掛かった。
「ホントに? ありがとう」
受話器からは嬉しそうな声が聞こえてくる。葉介が許してくれたことに喜んでいるのではないことがはっきりわかる。しかし、そのことよりもまたこの慰み物としての自分を押し殺した生活に戻るのかという考えが葉介の気分を沈ませた。
「やっぱり葉介もわた―」
そこで通話は切れてしまった。画面を見るとまたもや圏外になっている。山奥だからなのか、よく圏外になるものだ。
「ああ、葉ちゃん。ごめんね、遅くなって」
木陰から綾が顔を出した。葉介は携帯を反射的にポケットに押し込み、綾の方を振り向いた。
「全然。魚を追ってたらすぐだったよ」
「葉ちゃん……この前も聞いたと思うんだけど……」
「ん?」
「電話……誰なの? どういう関係なの?」
綾のその言葉に、無意識に目を伏せてしまっていた。
「あんまりいい関係でもないみたいだし」
そんな葉介を見て、綾はさらに訊ねた。
「……。聞いてくれるかな」
「うん。聞かせて。葉ちゃんが元気をなくしてしまった理由を」
葉介は頷くとぽつりぽつりと語り始めた。
薫と葉介の出会いは、一年前の春、大学のあるサークルの新入生歓迎会の席でだった。この機会を逃すまいと最初は必死に同学年の男女に話しかけていた葉介だが、そういうことが苦手なこともあって、序盤で疲れてしまい、いい具合に盛り上がるテーブルからは離れて、静かにソフトドリンクを飲んでいた。
「隣いい?」
隣を見ると、茶髪のセミロングの女がコーラか何か入ったグラス片手に葉介の顔を覗き込んでいた。
「ああ、いいよ」
「盛り上がってるね」
「うるさいのはあんまり得意じゃないんだよな。忘れてたよ」
そう言って頭を掻く葉介を薫はにこにこしながら見ていた。
「なんかおもしろいことあった?」
「ううん。ただ気が合いそうだなあと思って」
その言葉に葉介は少し苦笑いした。さっきからこの女は、その言葉、いやこれに似たニュアンスの言葉をここに来ている男どもほとんどに言っていたのを知っていたからだ。
「そうかな。気が合うとか合わないとかそんな一瞬でわかるのかな」
そう言って別のテーブルへ行こうとすると、いきなり肩を強く掴まれた。
「この後さ、抜け出さない?」
薫は小首を傾げ、葉介の目をじっと見つめていた。心臓が跳ね上がるのを感じた。葉介はその日、初めて女を抱いた。抱いたと言うと少し見栄を張った言い方になる。正確にはあの時からしばらくは薫に抱かれたと言う方がいいのかもしれない。とにかく、右も左もわからない葉介をリードしてくれたことは確かだ。葉介はこの日が初めての新歓への参加だったが、薫はそうでないことは後々わかる。
それからの進展は早かった。その日から一週間も経たないうちに葉介と薫は周囲が認めるカップル同然になっていた。この進展の早さには葉介も驚いたが、これは薫が知らない間に葉介と一線を越えたことを言いふらしたからなのだということをしばらくして察した。
「私達ホントに気が合うよね。あの時話した時から思ってたんだよ」
これが薫の口癖だった。葉介はそんなことは微塵も思ったことはない。
「私がこうしたいって言ったとき、葉介も同じこと思ってくれてるんだもん」
これは薫のしたいことが葉介によって承認された時に出る言葉だ。ある日、薫が水族館に行きたいと言い出した。その日は葉介は違う場所に行きたかったので、そこに行こうと提案した。しかし、薫はそれを聞いて激怒してこう言い放った。
「恋人なんだから、お互いがおんなじこと思ってなきゃダメだよ。ね? 水族館行こうよ」
それ以来、薫が何かしたいと言ったとき、葉介は決まってこう言った。
「俺も同じこと考えてたよ」
薫といる時は、いつしか、自分の中に自分は存在していなかった。楽しいとか嬉しいとかそんな感情は出てきたことがなかった。自分の意思は、薫の激昂によって打ち消される。何も薫だけが悪いのではない。葉介は誰よりもそのことを理解していた。ずるずると薫の要求を受け入れ続けていた自分のほうが、罪は深い。
「葉介って私のこと、好きすぎじゃない?」
背中をぞわぞわしたものが駆け抜ける。頭に血が上っていくのもわかった。薫が、他の男と遊んだという話をした時があった。初めは普通に聞いていた。大学生だ。異性の友人などいてもおかしくない。相槌を打っていると、次第に薫の顔が曇りだした。
「嫉妬……しないんだね」
冷や汗が全身から出てくるのがわかった。慌てて取り繕った。それ以降、嫉妬する振りをした。その葉介を見て、満足げに言うのだった。
「そういう束縛、怖いなあ」
嫉妬されて、行動を制限されるのに疲れたのだろう。そういう言葉がここに来るだいぶ前から目立ち始めた。そして、葉介が律のもとを訪れる一週間ほど前だ。
「葉介はさ、自分は彼氏だっていうよりも、セフレ? みたいに思ってほしいの。都合いい男というか。そのほうが私も楽だしさ。葉介も楽でしょ?」
その時にはもう、そういうことなのだと思った。自分は人間とすら思われていないのだと。人形だと思った。蒸し暑いはずの薫の部屋が急に温度を失った。目の前にいる、気怠そうな女を凝視することしかできなかった。
「そう……」
それ以外の言葉は、許されないような気がした。怒ることもできたと、今は思う。しかし、怒ればそれ以上の人格否定が葉介を襲う。反論する余力はもう残っていなかった。
一通り話し終えると、葉介はふうと一息ついた。隣の綾は黙ったままだ。風が緩く吹いて綾の短い髪を揺らす。
「でも……別れるんだよね?」
固い表情のまま、綾は葉介を見た。
「え? なんで?」
「なんでって! 浮気されてるんだよ?」
困ったように笑った葉介に向かって、綾は食って掛かった。息が心なしか上がっている。綾はゆっくり立ち上がると葉介を見下ろした。そして、口を開く。恐る恐るなのが葉介にも伝わる。
「その人と別れて。これは葉ちゃんの意思で何とかできる問題だよ……」
別れてという言葉が葉介の胸をざわつかせる。
「昔のこととは違ってね」
綾は悔しそうに拳を握る。
「え?」
「とにかく。その人と別れてよ」
悲しそうに綾が声を絞り出す。しかし、葉介は綾のその様子に気づかない。何故綾にとやかく言われなければならないのかという感情が、急に葉介の胸に湧き上がり、そのまま綾に向けられた。
「綾にはわからないだろ」
自分でもぞっとするほどの声色だ。しかし、止まらない。
「できるならとっくにそうしてるさ。でもな、都合が悪くなるたびに刃物を持ち出されてみろ! もう死ぬからって、その切っ先があいつの首に向くんだぞ」
葉介の目に、その時の光景が浮かんでくる。
「自分のせいで、一つの命が消えるかもしれない。どんなに怖いか。わかんねえよ! ! 自分が死ぬかもしれないって思うより怖いんだぞ」
葉介の肩が上下する。綾はまた黙ってしまった。しばらく沈黙が続いたが、先に沈黙を破ったのは綾だった。
「今日は帰るね。葉ちゃん……ごめん」
綾は振り返りもせずに森を出ていく。葉介はそれを黙って見ているだけだった。辺りはいつも間にか薄暗くなっていた。ひぐらしの声が聞こえていた。
家に帰ると律が夕飯の支度をしている最中だった。葉介の顔を見て、不思議そうにしていた。
「なんだか疲れてるわねえ」
律が心配そうに葉介の顔を覗き込んだ。葉介は困ったように微笑み、それに応え、律の隣へ立った。味噌汁の入った鍋がぐらぐらと煮えている。
「これ、温めすぎじゃない?」
そう言ってコンロのつまみを捻る。火が小さくなる。小さくなり過ぎた火はゆらゆらと揺れて、消えそうになる。慌ててつまみを反対に回し、微調整する。
「熱々にしとけば食べる頃には程よくなってるわよ」
「そう言って程よかったことなんかなかったよ」
苦笑いを律に向けると彼女は肩を竦め、調理を進めた。調理台の上にはいくつかのパットが置かれ、そこに刻まれた野菜が乗っている。野菜の品目からするに、煮物らしい。
「珍しいね。煮物なんて」
律の装いは和装が多いが、作る料理は洋食が多い。葉介が来るときに気を使って洋食を作っているのかと思った時期もあったが、それは違うらしい。とにかく、そんな律が和食を作るのが珍しく、そう口をついて出た。
「そうねえ。たまにはいいかしらと思って」
蓮根を切り終わると、律は味噌汁の火をを止めてコンロから退けると鍋置きに置いた。違う鍋を取り出すと煮物の準備に取り掛かった。
「普通逆じゃない?」
「え?」
「いや、煮物って時間かかるからさ。作る順番逆なんじゃと思って」
律は少し考えてから言った。
「そうね」
その表情は少し困ったような顔をしていた。
「慣れないものを作るもんじゃないわね」
「慣れないと言いつつも美味しいんだけどね」
少し照れた横顔を見ながら、葉介は言った。