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つめたいナツ  作者: 無明
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第4幕

「ああ、あそこの喫茶店に行ったのね」

 律はその喫茶店の存在を知っていたようだ。夕飯の支度をしながら、詳しくその店について話し始めた。

「あそこはあたしが小さいころからあるのよ。幼馴染の男の子の親がその当時は経営しててね」

「え? てことは……」

「そう。その幼馴染が、今日、葉ちゃんと話したっていう男の人」

 意外な接点に驚いていると、律は振り向いて葉介を見た。

「いい人よ。あの人の言うことって、だいたい正しいのよ。言われた時はわからないことが多いけどね」

 律は困ったように笑いながら、夕食を机の上に並べ始めた。葉介はそれを見て、慌てて手伝う。食器を食卓に並べ終えると、二人は向かい合って座った。

「それで、あの人、葉ちゃんになんて言ったの?」

 手を合わせ、二人が食べ始めてすぐ、律はそう訊ねた。

「ええと……。『あなたの優しさは、誰かに貪られるためにあるのではない』って」

 葉介は一旦箸を止め、そう答えた。

「そうね。あの人らしい」

 律はにっこり笑って、箸を進めた。

「あの人らしいって……」

「言ったでしょ。あの人の言うことはだいたい正しいの。今のあなたに言うべき言葉よ、それが」

汁物を啜りながらそう言った。そんな律を葉介はただ黙って見ていた。

「歳だけくっちゃって、的外れなこと言って。嫌なばあさんになったものだわ」

 困ったように笑いながら、律は大皿に箸をつけた。

「そんなことはないよ。ただ……」

 葉介はそこで言葉が詰まる。

「ただ?」

 律が続きを促すが、葉介はうまく言葉を紡げない。しばらく、考え込んでから、茶で口の中のものを流し込んで続けた。

「ただ、二人とも、俺の決断の助けをしてくれてるだけなんだ。切り口は違うけど、考えてることは一緒だよ、きっと」

 そう言うと葉介も大皿に箸を延ばした。

「これ、うまいね」

「そうでしょ。お母さんにもレシピ教えてあげようかしら」

 得意げに律が笑う。

「やめてあげてよ。あの人、味噌汁もろくに作れないんだから」


 葉介は笑いながら言う。

「あら、あの人まだ料理できないの?」

「そんな、女の人が全員料理できるなんて、今もう都市伝説だよ」

 料理ができない。昔、葉介の両親が離婚しそうになったことがある。その理由の一つがそれだった。父が仕事から帰ってきて、食卓に並ぶのはコンビニ弁当など、出来合いのものだけだった。それに嫌気がさしたらしい。とどめと言ってもいい。葉介はここ、律のもとに預けられ、両親は離婚協議に入った。毎夜、喧嘩続きの環境に、幼い葉介の精神は押し潰されていった。そんな状況を見兼ねて、律は葉介を預かることを申し出たというのが後から聞いた話だった。

「そうなの? 好きな人に喜んでほしいと思わないのかしら」

 律は不思議そうに首を傾げた。

「さあ? 他の人は分からないけど、お母さんは料理以外の家事を精一杯やってるよ」

 離婚協議が結局成立しなかったのは、母親が料理以外の家事を精一杯やるから別れないでくれという懇願があったからだった。なので、その後は、父が料理を担当し、そのほかの家事を専業主婦の母が担当することになった。今ではお互いに支え合っているという認識のもと夫婦生活を円満に送っている。

「そうね。よく話を聞くわ。息子からね」

 意外だった。普段無口な父が律に連絡を取っているとは。

「何変な顔をしてるの?」

「いや、父さんがばあちゃんに連絡取っているとは思わなくて」

「しょっちゅう来るわよ。今日はあいつがあれやってくれただの、だからお礼にあいつの好きな生姜焼き作ってやっただの」

 珍しく毒を吐く律に、葉介は苦笑いを浮かべる。

「相手は未亡人よ。しわくちゃですけどね。手加減してほしいわ」

 やれやれと言うように律は顔をしかめる。いつもは優しげに笑っている律も息子の惚気話にはさすがに嫌気が差しているらしい。そんな律を見て、少し疑問に思ったことがある。

「よく……母さんを許す気になったね」

 律は葉介を黙って見つめると、ふふっと笑った。

「許すも何も、それは息子の問題よ。私がでしゃばって口出しすることじゃないもの。最初から恨んでも憎んでもいないわ」

 息子の幸せは息子が決めるもの、親があれこれ世話焼くのは仕事に就くまでよ。と続けて、律は食器を持って台所へ向かった。姿が見えなくなると、蛇口を捻る音、それに続けて水道管に水が通る音がした。

 葉介も少し遅れて、台所に食器を持って行った。女性のはずの律の背中がやけに大きく見えた気がした。


「洗い物やっておくから、お風呂沸かしてちょうだいな」

「わかった」

 葉介は手を拭くと、風呂場へ向かった。浴槽は洗ってある。昼間に律がやり終えたのだろう。白い陶器が、電灯のオレンジ色の光を反射させていた。鎖に繋がれた黒いゴム製の詮で排水口を塞ぐ。

 律の家は外観こそ古い民家だが、大概のものは機械化されていた。この風呂場も例外ではなく、壁にはリモコンが備え付けてあった。給湯ボタンを押すと、勢いよく湯が出始めた。熱が逃げないように蓋を閉める。

 居間に戻ると、律が座って寛いでいた。煎餅が机の上の皿に開けられていた。

「あら、お帰りなさい。お煎餅どう?」

 口をもごもごさせながら言う。ごりごりと咀嚼音も聞こえてくる。

「ばあちゃんって上品なのか下品なのかわからないよ」

 そう言って苦笑いする。

「そうかしら? 家族なんだから楽にさせてちょうだい」

 律の顔が綻ぶ。つられて葉介も笑う。隣に腰かけて煎餅に手を伸ばす。小気味いい音を二人で響かせながら、茶を啜る。

「穏やかねえ」

 律がそう溢す隣で、葉介は二枚目に手を付けていた。醤油の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。さっき夕食を済ませたばかりだというのにかすかな空腹を感じた。

「香ばしさって恐ろしいね」

「そうねえ。太っちゃうわ」

 本当に深刻そうに律は言う。

「いや、塩分の方を気にした方がいいよ。真面目に」

「それもそうね」

 二人はまた、微笑み合った。涼しい風が居間に吹き込む。湿っぽい匂いが香ばしい匂いに混ざった。

「涼しいわね」

「うん」

 ふと、葉介は思い出したことを口にした。

「そういえば、ここからちょっと言ったところに雑木林があるよね」

「ええ、あるわね。昔葉ちゃんがよく行ってたからね」

「そこに小さな川ってあったよね?」

 律は少し考えて、口を開いた。

「いいえ? 無いわよ?」

「え……」


「無いわよ。昔、葉ちゃんに連れられて行ったこと、何回もあるけど、川なんて無いわ」

 呆然として律を見つめる。

「そういえば、その時も葉ちゃん、必死に川を探してたわ」

 あり得ない。葉介の頭には、その言葉が真っ先に浮かんだ。確かに川が存在したはずなのだ。現に一日目に帰ってきたときに、律自身が口にしていたのだ。「川臭い」と。ではあの川はいったい何なのか。

 律が心配そうに葉介の顔を覗き見る。

 葉介の額にはじわりと冷や汗が滲む。胃が押し上がってきたかのような異物感を喉に感じる。正体のわからない不安感と不快感が全身に纏わりつく。

「葉ちゃん?」

 律が声を掛ける。

「記憶違いってこともあるんじゃないかしら? 小さい頃に間違えて憶えた場所を今でも憶えてて」

「…………そう……かも」

 律の言葉に、間をたっぷり取りながらそう答えるしかなかった。頭の中でまとまりのつかない考えがぐるぐると回る。一つだけ確実に言えることは、〝律の言うことはあり得ない〟ということだ。

 あの雑木林は葉介が子供のころから、律の家に来ると必ず遊びに行っていた場所なのは確かである。川も必ず遊びに行っていた。小さい頃の記憶の混同はよくあることだ。葉介が幼かったあの頃以来、川に近づいていないというのなら律の話は大いにあり得るし、むしろ、川を見つけられない今の状況なら可能性が高い。

 しかしだ。葉介は、一日目に雑木林に行き、正確な場所は曖昧だが、その雑木林の中に川を見つけているのだ。絶対に記憶違いなどあり得ない。

「ありがとう」

 短くそう言い残し、居間を後にしようとしたがとっさに律が今から顔を出して言った。

「お風呂、先に入ってしまいなさい。汗でべたついて気分悪いでしょう」

 それに軽く頷いて、風呂場に向かった。

 律と話していた間に沸いたらしい。浴槽の蓋を上げると、もわっと湯気が葉介の顔を撫でた。湯に腕を浸し、温度を見る。適温だ。

 湯から手を抜き、脱衣所へ戻ると、着ていたTシャツに手をかけた。やはり、昼間の散歩のせいか、Tシャツの生地が肌に張り付く。その感触が強烈な不快感をもたらすが、脱いでしまえば何とも言えない解放感が訪れる。

 全部服を脱ぐとそのまま体を流し、湯船に浸かった。一日の疲れが体中の毛穴から抜け出ていくような感覚だった。



 律は居間で冷えた緑茶を啜っていた。風が風鈴を涼しげに鳴らしている。どこからかラベンダーの香りが漂ってきた。

「律ちゃん、私もよばれていいかな」

 律の目の前で白いワンピースが揺れた。

「お好きになさいな」

 綾は隣に座り、煎餅を手に取った。鼻を近づけ、その香りを目一杯吸い込む。

「いい匂い。あのお菓子はある?」

「あるわよ。台所かしら」

 綾はそれを聞き終わる前に台所に消えていった。ごそごそと何か漁る音がする。

「あったあった」

 大きな袋を携えて戻ってくると、それを抱え、また隣に座り直した。中から一つ、小さく包装されたものを取り出すと、それを開封した。

「好きよねえ、それ」

 独特の匂いが立ち込める。

「この匂いが堪んないのよねえ」

 綾はすうと吸い込むと、満足げに吐き出した。一口それを放り込むと思い出したように律に向き直った。

「そうそう、これの袋の絵柄、なんか変わったよね?」

「そうだったかしら。ずっとそのデザインだった気がするわね」

「で、?」

「ああ、絵柄のことよ」

「そのデザインってのは変わってないの?」

 綾は不思議そうに首を傾げる。

「本当に?」

 しつこく聞く。律は持っていたグラスを置いて、一口、その菓子を食べる。懐かしい匂いが口いっぱいに広がる。

「本当よ」

 そっかと小さく言い、綾は立ち上がった。仄かな香りが律の横を通り過ぎる。居間を出ようとする直前に、綾は振り返った。

「毎年ありがとうね。こうやって会いに来てるのに。葉ちゃんも大きくなった」

「今年で二十よ」

 律のその言葉を聞いて柔らかく微笑むと、綾は居間を後にした。律は腰を上げ、ちゃぶ台の上を片付けにかかった。

「ばあちゃん、上がったよ」


 そう言いながら葉介は居間に入ってきた。シャツの襟もとから覗く肌からはうっすら湯気が昇っている。

「ばあちゃん、それ洗っとくからお風呂行きなよ」

 律の横まで来ると、葉介は流しにあるスポンジを握っていた。

「あら、じゃあお言葉に甘えようかしら」

 律は濡らしてしまった手を拭いて、エプロンを脱いだ。

「洗ったらそこの布巾で拭いて、横に重ねておいてちょうだいな」

 脱いだエプロンを椅子の背もたれに掛けながらそう言うと、台所を後にした。

 律が出ていくと同時に洗い物を始めた。葉介はそれが終わると、律が出てこないうちに自分の部屋に戻り、眠りに落ちて行った。


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