第3幕
寝苦しい暑さに、葉介はむくりと起き上った。蝉が相変わらず、せわしく鳴いている。
「ん……。ばあちゃん帰ってきてるのか」
台所から包丁の刻む、小気味のいいリズムが聞こえてきた。時計を見ると、もう正午前である。小一時間寝ていたらしい。寝苦しかったのは真上まで上った太陽からの日光が、遮るものなく縁側で寝ていた彼に降り注いでいたからだった。
「いいにおいがする……」
どこか懐かしい匂いが葉介の鼻と胃袋をくすぐった。
「そういえば、綾がいないな。帰ったのか」
意識を失うまで一緒にいた幼馴染がいないことに気づいたが、彼女が突然姿を消すことは珍しくなかったので、さほど心配もしなかった。
「どうせ飯食いに帰ったんだろう」
そういうと、祖母がいる台所へ入った。台所に入ると、そこにはやはり祖母が立っていた。いつも思うが、本当に台所が似合う人だ。台所の住人と言っても何の差支えもない。
「ばあちゃん、おかえり」
「葉ちゃん、おはよう。気持ちよさそうに寝てたわねえ。寝不足かしら?」
まだ目が開ききっていない葉介を見て、律は優しく笑った。すでに何品かは食卓に並んでいた。葉介はほこりが入らないように伏せられていた茶碗を二つ、自分のものと律のものを取り、炊飯器の置かれている棚の前へ向かった。
「ご飯、装うか?」
「ああ、ありがとう。お願いするわ。こっちもこれができたら終わりだから」
律は汁物を温めていた。下に溜まった具をかき混ぜていたお玉を持つ手を止めて、葉介の方に向き、軽く頷いた。
葉介はその所作に、どこか気品を感じていた。律の動きは一つ一つが丁寧であった。挨拶から家事をしている姿まで、丁寧で上品で、それでいて自然体だった。だからか、葉介は祖母に対して、安心感を強く感じていた。この人の傍なら大丈夫と、何の根拠もないが確信していた。
「うん。おいしい」
汁物を一口啜って頷いた。そんな葉介を見て、律は微笑んだ。窓から吹き込む風が椀から立ち込める煙を攫った。
「よかった。帰ってきて一番いい笑顔よ、今の」
「え?」
「今まで笑っててもどこか苦しそうだったもの」
祖母は今度は心配そうに眉を寄せたが、すぐに笑顔に戻って、
「まあ、大学生も忙しいものねえ」
と言って、話を切り上げた。葉介としても、あまり心配され過ぎるのも心苦しかった。
「そうだね。忙しいし、安心してるのもあるからかな」
祖母の顔を見つめ、葉介はにこりと笑った。それを見て、律も微笑み返す。ふわりと二人の間を風が吹き抜けた。
「外は暑いけど、風が吹き込むと涼しいわねえ」
昨今騒がれている温暖化の影響は確実にこの町にも及んでいたが、さすがに風が吹き込むと涼しかった。都会のコンクリートジャングルは、そのコンクリートが熱を反射し、暑さが一際ひどい。
「夜も寝苦しくないでしょう?」
ねえ、と語尾に付け足し、葉介に訊ねた。
「そうだね。逆にちょっと肌寒いくらいだよ」
葉介は昨日の夜のことを思い出していた。そういえば、夕飯の後に綾が遊びに来ていて、昼間の疲れもあってか寝てしまったのだが、始終肌寒さを感じていた。
「そう? 涼しい風は入ってくるけど、そんな寒いかしら? 布団ちゃんと被って寝なさいな」
「はは、ちゃんと被ってるよ」
祖母の心配そうな言葉に安心してくれと言わんばかりに返した。
「そういえば、ばあちゃんさっきどこ行ってたの?」
葉介はふと思い出したことを聞いてみる。
「え?」
「ほら、いつも台所から動かないばあちゃんがめずらしい」
「ああ」
律の顔が一瞬真剣になる。
「墓参りよ。昔の友達のね」
「命日……?」
「そうなの」
そういって律はカレンダーの方へ顔を向けた。今日の日付のところに印がつけてあった。
「仲が良かったわ。とっても」
懐かしそうに眼を細める。
「私は昔はお転婆だったの」
「え? ばあちゃんが?」
今の姿からは想像もつかなかった。今は生活感のある洋服に身を包み、どこへ行っても物腰の柔らかい律にそんな時代があったというのだ。
「何? 疑ってるの? これでも昔は蛙とかザリガニとか素手で捕まえてたんだから」
「ええ? 本当かよ」
あまりの意外性に持っていた箸を落としそうになる。
「ほんとほんと。その友達と毎日のように遊んでたのよ」
律はカレンダーから視線を外して、葉介を見る。その眼は何かを諭すようにきらりと光りを反射させていた。
「後悔のないように生きなさいね」
見たことのない真剣な目だった。このまま見続けているとその暗い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「な、なんだよ。急に」
間に耐えられなくなり、慌てて白米を掻き込み、律から視線を外した。
「ごめんなさい。なんだか急に伝えたくなって」
困ったように笑いながら、律も箸を進めた。
その時、無意識に机の上に置いていた携帯が震えだした。急な着信で葉介の体はビクついた。ディスプレイには薫の名前が表示されていた。その文字を見て、今度は体が硬直していくのを感じた。携帯はけたたましく、机との細かい衝突を繰り返していた。
「…………葉ちゃん?」
しばらくすると、携帯は震えるのをやめた。その代わりに不在着信を知らせるランプが静かに点滅していた。
「出なくてよかったの? だいぶ長い時間鳴ってたけど」
「ああ、いいんだ。いたず……」
葉介の言葉を遮って、再び携帯が鳴りだした。今度も電話のようだ。
「葉ちゃん…………。やっぱり大事な連絡なんじゃ」
葉介は突然携帯を手に取ると、その電源を切った。
「あ……」
と短く律がつぶやいた。携帯の画面は会社のロゴマークを表示した数秒後に暗くなった。
「いいんだ。話したくない」
「女の子の名前みたいだったけど、彼女さんなの?」
律は不安げに眉を下げる。
「ああ……うん、そんなところ」
綾に聞かれた時と同じように、あいまいな返事をしてしまう。視線もまともに律を見ることができずに、宙をさまよっていた。
「…………。葉介」
急に名前で呼ばれ、ハッと律を見る。先ほど見せた真剣な表情よりも引き締まっていた。そんな律に目を奪われていると、彼女はポツリポツリと話し始めた。
「葉介、あなたは優しい。それはあなたの本当にいいところだと思います。昔からね。ただ、その優しさは時には凶器にもなるのです。人を癒すだけではないの。時として傷つけ、苦しめてしまうのよ。あなたは多分、今、それを学んでいるはず」
いつの間にか食べ終わったのだろう。律の食器はきれいにまとめられていた。律はそこまで話すと、コップに注がれた麦茶を一口飲んだ。
そして、さらに続けた。
「でも、それはあなただけが悪いということでもないというのは、私はわかっていますからね」
葉介は、その一言で全身の緊張が解けるのを感じた。鼻の奥がつんとする。
「葉ちゃんが何故急にここへ来たのか、何となくわかりました。葉ちゃんは賢い子です。このままではいけないことも、逃げてばかりもいられないこともわかってると思うので、急かしたりはしません。存分にここで休みなさい」
そう言うと、律は自分の食器を持って台所へ行ってしまった。葉介はしばらく茶碗と箸を手に動けなかった。たった二日でここまで察知されてしまうのだ。年の功には勝てないのかもしれない。
「ありがとう、ばあちゃん」
味方でいてくれる。それだけで安心した。
葉介も食べ終わると、食器を台所へ持っていた。
「お菓子でも持ってきて一緒に食べようか。お母さんたちの様子も聞かせておくれ」
律はそう言うと、葉介に木でできた深い皿を渡した。葉介はそれを受け取ると、棚から菓子を掴み取りし、皿へ無造作に入れた。そのまま今に持って行った。時計を見ると、日本人なら誰でも知っている長寿番組が終わるころだった。
「ふー、ちょっと家事も落ち着いたし、休憩休憩」
律は足を放り出し、両手を後ろについて、葉介の隣に腰を下ろした。葉介は律の持ってきた麦茶を受け取ると、それをぐいっと半分ほど飲み、机に置いた。そして、皿に煩雑に転がっている菓子に手を伸ばし、包装を破り、小さなそれを口に放り込んだ。
「あ、うまい」
それは綾が気に入っているものだった。
「それね、今日お墓参り行った友達が好物だったのよ。私も影響されちゃってよく食べるのよ」
棒状で薄焼きのクッキーの中にクリームが入ったそれは、何とも懐かしい味がした。
「何か懐かしい味がするよ」
素直な感想を述べる。
「そういえば、葉ちゃんもそれよく食べてたわ。ここへ来るたびにせがまれたものよ」
記憶にはないが、自分がそんなことをしていたのかと思うと気恥ずかしくなってくる。
「ふふ、照れちゃって」
からかうように律が葉介の顔を覗き込んだ。それに気づいてさらに気まずくなる。
「やめてくれよ、ばあちゃん」
困ったように笑いながら、残りの麦茶を飲みほした。律はボトルを傾け、空になったグラスに麦茶を注いだ。氷の触れ合う冷ややかな音が鳴った。
最後の菓子に手を付けたのは律であった。慣れた手つきで包装を破いて、最後の一個を口へ放り込むと、すくっと立ち上がり、二つのグラスと皿を盆に乗せ、台所へ戻っていった。
「私、庭のお手入れをしてくるから、葉ちゃんはゆっくりお散歩でも行ってこれば? ずっと家にいるのも気が滅入るでしょ」
そう台所から叫ぶと、そのまま玄関へ向かって、外へ出てしまった。
「散歩か……。それもいいな。行ってくるか」
葉介はそう言うと腰を上げ、玄関へ向かった。
靴を履き、外へ出ると倉庫から出てきた律と出くわした。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
律はそう言うと、倉庫から出してきた一輪車を担ぎ直し、それを押して庭の手入れの行き届いていないところへ向かった。葉介はそれを見送ると門をくぐって外へ出た。道へ出ると、燦々とした日差しが葉介の肌を刺した。さっき補給した水分があっという間に蒸発してしまいそうだ。
「帽子を持って来ればよかった」
そんな後悔を零しながら、初日に綾と行った森の方向へ向かって歩き出した。
森への道は思ったよりも長く、夏の太陽が盛んな昼間に歩くには、少々酷な距離だった。目の前に鬱蒼と茂っている森は、綾と一緒に来た時よりも不気味に思えた。そこまで広い森ではないのだが、やはり中はじめじめとしていて、薄暗かった。
「こんな暗かったか? 夕方でももう少し明るかったような気がするけど」
そんな疑問にクビを捻りつつも、夕飯までの時間をここで潰すことにした。手にしたペットボトルの蓋を開け、中に入った黒褐色の炭酸を飲む。さわやかな炭酸の後に、合成物質の放つ独特の匂いが喉を通り抜けた。
「よし行くか」
ペットボトルの蓋を閉めると、それをかなり強引にズボンの後ろポケットにねじ込んで、森へ一歩踏み出した。やはり森の土は水分を多く含んでいて、あの時のように靴が地面に捕まってしまう。
「やっぱりうまく歩けないな。そういえば、いつも行ってる川はどこだっけ?」
そう言うと捕まった足を引っこ抜いて、例の川の捜索に乗り出した。しかし、いつまで経ってもその川にはたどり着けなかった。
「あれ? どこだっけ……。この前来たのにな」
記憶を頼りに捜索を続けるが見つからず、そのまま一時間が過ぎてしまった。
「おかしい。なんでないんだ」
額に浮き出た汗を拭いながら、葉介は一人呟いた。森の中を4分の1を探し終えたところだった。記憶をたどって探しているのだから見つかってもいい頃合いなのだが、水の音すらしなかった。
「本当におかしい」
もう一度呟く。しかし、おかしいのはそれだけではない。
「俺はどうやってあの川、見つけたんだっけ」
綾に促されるままに川の方向へ向かったのだが、それが森のどのあたりで、どの方向に向かって川にたどり着いたのか全く覚えていなかったのだ。
「夢……なわけないもんな」
葉介はもう一度あの時のことを思い出していた。その記憶には何の間違いもなかった。帰ってきてから律に川臭いとまで言われたのだ。
「まあ……いいか」
ふと我に返ってそう呟いた。近くにあった少し大きめの石に腰を下ろし、炭酸飲料をのどに流し込む。ふうとため息をつきながら、辺りを見渡す。川が実際にあるかないか、どこにあるのか。それは葉介にとってどうでもいいことなのだ。ここに帰ってきて、懐かしい人々と会い、現実から少しだけ目を逸らす。そのことが葉介の心を癒している。それが、それだけが事実としてあればいい。葉介は素直な心でそう思えた。
「次はどこ行こうか」
石から腰を上げると、森を出た。道へ出ると葉介は立ち止まり、左右を見た。ここ以外には行く先は決めていなかった。
「地図開いてなんか探そうかな」
そう言うと、ポケットから携帯を取り出し、電源を入れた。先ほど電源を切ってから携帯をあまり見たくなかったが、一応安全のため持ち歩いていた。やはり拘束具とも言えるこの最先端技術の結晶を葉介は疎ましく思っていた。
携帯が立ち上がると素早く地図を開いて、近場にある休憩できそうな場所を探した。自分のいる位置を示している赤い点の周りに視線を巡らす。喫茶店が近くにあるらしい。ちょうど帰り道の中間辺りにあるので、小腹を満たして少し寛いで帰宅することにした。
その喫茶店は和風の外観で、店内に入ると黒塗りのテーブルと椅子が置いてあり、南にある窓からは日の光が差し込み、黒を基調とした店内に明るさを与えていた。テーブルや椅子が置いてあるが、障子や襖など、ところどころに和風のインテリアを取り入れていて、なかなかおしゃれな店だった。
「えーと、冷茶と自家製饅頭一つ」
席についてさっそく注文をする。店内は程よく冷房も効いていて、汗も自然と引いていった。カウンターにいる、白髪交じりの髪と口に蓄えたおしゃれな髭が印象的な中年の男が、棚から茶筒を取り出し、匙で茶葉を急須に入れていく。やかんを持ってきて、低温の湯を急須に注いでいく。ふんわりとした青い香りが店内に充満していた。
葉介はその男の所作の一つ一つに魅入っていた。黙々と、急かされるわけでもない。ゆったりとした余裕が彼から感じられた。
急須から氷の入った大きめの湯呑に注ぐと、カチカチと氷にひびの入る音がした。和盆に湯呑を乗せ、饅頭の乗った皿も乗せた。男はそれを持つと静かに、葉介の座る席に歩み寄った。
「お待たせいたしました。冷茶と自家製饅頭でございます」
そういうと和盆から品物をテーブルへ移し、丁寧に一礼した。
「どこかでお会いしましたか?」
「え?」
予想していなかった一言に葉介は一瞬言葉に詰まる。
「いえ、先ほどから私を見ていたものですから」
「あ、すいません。落ち着いた雰囲気の方だなと思って……魅入ってしまいました」
「なるほど。よければカウンターでお召し上がりになりませんか? 少し中年の話し相手になってもらえませんかね」
「ええ……いいですよ」
いきなりの提案に戸惑いながら応じる。男は運んできた品物を再び和盆に乗せ、カウンターへ運び直した。
「先ほどから何やら浮かないお顔をしていらっしゃいましたね」
まただ。またそんな顔をしていたのか。
「ああ、まあいろいろうまくいってなくて」
初対面の相手なので何となくはぐらかそうとする。いい具合に冷えた湯呑に手を伸ばす。雫が数滴、湯呑の側面を伝ってぽたぽたとカウンターを濡らした。一口含むと青い香りが口いっぱいに広がった。コンビニやスーパーに並んでいるペットボトル入りのものなど足下にも及ばないほどおいしいと感じた。
「おいしいですね」
そういって男の顔を見たときに、机の上の携帯が震えだした。ディスプレイには忌まわしい名前が浮き上がっていた。それを一瞥して、もう一度男の顔を見た。男は柔らかに微笑んでそれに答えた。
葉介は外に出ると電話に出た。
「なにしてるの!」
耳をつんざくような金切り声が受話器から聞こえてきた。
「ごめん。ずっと圏外で」
葉介は嘘をつく。
「そんなの聞いてない。今なにしてるのって聞いたの」
「いや……ちょっと旅行」
とっさにごまかす。いつだか経験した息苦しさが葉介を襲っていた。
受話器からはすすり泣く声が聞こえている。
「さみしいんだから……。勝手なことしないで」
その言葉に胸がつぶれそうなほどのプレッシャーが込められているのを葉介は感じた。受話器からは葉介への恨みつらみが聞こえてきた。しかし、その声の向こうで何やらもう一人の人間が動く音が聞こえていた。
「薫、誰かいる? とも……」
「薫う、もう電話切れって。はじめよ……」
そこで電話が切れてしまった。
「なんだよ……それ」
葉介は、様々な感情が心になだれ込んできたせいで、むしろ、一瞬自分から感情が抜け落ちたように感じてしまった。
そんなことよりも、さっきの声が気になった。明らかに男の声だ。いや、もう気にならなくなった。
「初めから、そういう存在なんだよ。俺って」
携帯をしまうと、葉介は店に戻っていった。
「早かったですね」
「なぜ?」
戻ってきた葉介に男はそう声をかけた。それに葉介はとっさに答えた。
「いや、顔色から察するになかなかの面倒事のようにおもいましたので」
男は柔らかく笑い、そう答えた。それに葉介は笑いながら応じた。
「そうですね。なかなかの強敵だと思ってましたが、もうすぐ終わりそうです。いや、もう終わったのかも」
そう言うとポケットから携帯を取り出し、カウンターの上へ乗せた。
「終わり……ですか」
「そう、終わったんですよきっと」
葉介は茶を一口飲み、饅頭にかぶりつく。
「そうは、思えませんな」
男はぽつりと言った。葉介は饅頭から男に視線を移す。
「あなたは優しい」
昼に律に言われたことだ。
「あなたはまだ情を断ち切れたわけではないですよ」
そう男は続けた。
「そんなこと……。それにもう向こうからは連絡来ないと思います」
「人が持ちうる優しさの量というのは決まっています。私はそう思います」
葉介は黙って男の言葉を待った。
「あなたの優しさは、誰かに貪られるためにあるのではないですよ」
男はそれだけ言うと黙ってしまった。
「その……ありがとうございます」
いえ、と短く答えると男はカウンターへ戻っていった。葉介は代金を渡した。
「本当にありがとうございました」
最後にそういうと葉介はその店を後にした。