第2幕
時にうっとおしさすら感じさせる朝の日差しは、容赦無く葉介の目の奥を刺激した。眩さを通り越して、鈍痛すら感じる。窓を開けて寝たというのに、寝間着の背中は寝汗に濡れていた。
「暑さは田舎も都会も変わらないな……」
うんざりしながら寝間着を脱ぎ捨てる。キャリーケースから新しい下着と服を取り出す。無造作に詰め込んだせいで、服と服とが絡まり合い、あっという間にキャリーケースの周りは服や小物で散らかってしまった。
「はあ……。やっちまったか」
そうつぶやくと、無意識に携帯に目をやっていた。
「…………」
ぼんやりと点滅を繰り返す青白い光を、なんの感情も込めずに見つめる。ゆっくりと光に向かって手を伸ばし、熱で生暖かい、無機質な感触に触れた。
「……はあ」
口にするのも億劫なほどの受信と着信の数に思わずため息が漏れる。何も言わずに画面に指を滑らせ、メールの2、3通に目を通す。
今どこにいるの。
なんで電話出ないの。
メール見てるの。
4通目は開いた直後に、目も通さずに画面を閉じた。不意に蜘蛛の巣に引っかかったような不快感が腑に絡みついた。手に持った小型機器の重ささえ、支えられなくなり、持っていた手から滑り落ちた。鈍く、しつこく、吐き気がするくらいの不快感にしばらく身を委ねていると、携帯がメールの受信を知らせた。
葉介は携帯を再び手にすると、宛先も見ずに受信画面を開き、受信メールを一斉削除した。待機の画面に切り替わる。球体のグラフィックが画面の中でクルクル回っている。その回転に合わせて、頭の中もかき混ぜられているような気がした。
ふうとため息を一つ吐く。画面には削除完了の文字が表示され、続けて完了を知らせるベルが鳴った。体が鉛のように重くなる。
「勘弁してくれ……」
自分の置かれている状況を再認識して項垂れる。と、突然携帯がけたたましく鳴り出したかと思うと、ワンテンポ遅れて激しく震え出した。けたたましく、激しく。そう脳が錯覚しているだけかもしれないが、今の葉介にはそのように感じられた。
画面には忌々しい文字が表示される。
田上薫。
その文字が目に入ると、全身の毛穴から冷や汗が滲むのを感じた。真夏にもかかわらず、葉介は一つ身震いをして携帯を握った。
しばらく凝視してみるが、通話のボタンを押す気にはなれなかった。その間にも、携帯は持ち主に着信を知らせるために、懸命に震えていた。がしばらくするとその振動は止まり、画面も暗くなった。
ため息をまた吐いた。が、その顔に安堵の表情はない。
すかさず第二の呼び出し音が部屋に響いた。葉介は今度は間を置かずにすぐに通話のボタンを押す。受話器に耳をあてると同時に凄まじい怒声が耳をつんざいた。
「どうしてずっと電話出ないの? メールも返さないし!」
地獄を告げる第一声である。
「家行ってもいないし!どんだけ寂しかったと思ってんの?」
薫と出会ったのは、もう一年も前のことである。新入生歓迎会に出て、たまたま隣に座ったのが彼女であった。
趣味や好きな音楽が似ていたので、話が弾み、学部以外の友達になるまで時間はかからなかった。どういう関係なのかと言われれば、おそらく恋人なのだろう。しかし、2人の間に告白だとかいう甘いステップは無かった。いつの間にかいつも一緒にいるようになり、周りがなんとなく、あの二人は付き合ってるんだという認識になったのだ。
「ねえ? 今どこなの? 会いたいよ?」
そう言う声は、怒りで震えていた。
突然消えた人間に対して、まず出てくる言葉は安否の確認ではないのか。そんなことが葉介の頭には過った。その態度に辟易する。
彼女の口から出てくるのは自分がどれだけ傷ついたか、嫌な思いをしたか。そんなことばかりだ。その吐き出される言葉たちに“愛”などというものは感じられなかった。
それもそうだろう。彼女は葉介を愛してなどいないのだ。ただ、寂しい心を埋める、人形のようにしか思っていない。
「ねえ、帰ってきて? 待ってるからね」
「うん……。そのうちね」
「ねえ! そのそのうちってい……」
突然通話が切れてしまった。画面の左上を見ると圏外の文字が点滅していた。
葉介は安堵とともに少しの不安を感じた。その不安は次第に葉介の心をジリジリと締め上げていくのがわかった。息苦しくなってくる。薫の電話やメールを見るとよく起きる現象だった。相当参っているのは自分でもわかっていた。だがそれ以上に逃れられないことも十分にわかる。
ひやりとした風が頬を撫でた。たまたま雲に日がかかり、陰になったせいだろうか。
「ねえ、誰からの電話なの?」
「え?」
葉介の背後から綾が顔を覗かせていた。どうやら携帯を覗き込んでいるらしい。
「お前、いつの間に……」
「んー。ねえ! そのうちってーってところかなあ」
よかった。そう葉介は思った。
「終わりの方か。彼女……? かな?」
最初の質問に疑問符をつけて返答する。
「なにそれ。変なの」
怪訝な顔で葉介の目を凝視していた。葉介は正直に答えたつもりだった。愛し合っていない男女の関係を何と言えばいいのだろうか。セフレと学部の友人の口から聞いたのはいつだったか。その類に、葉介たちの関係は含まれるのだろうか。セフレという結びつきにある彼らもまた、少なからず、偽りであってもその行為や関係の中に愛を求めているのではないだろうか。
自分たちの関係は一体……。そんな想いが真実の告白を妨げた。
「葉介!」
自分の名前を叫ばれ、はっとする。目の前には険しい顔つきの綾がいた。何度も呼ばれていたらしい。
「なんかずっと浮かない顔してるね」
「え?」
綾の表情に影が差す。
「そんな顔してた?」
少し困った顔で葉介は尋ねる。意外だった。ここに来ればそんな顔をしないと思っていたからだ。自分はそんな落ち込んでいたのか。
「してるよ。ずっと。まあそんなときもあるのかな? って思ってたからあえて聞かなかったんだけど」
そう言って、綾は柔らかく微笑んだ。
「やっぱ気になっちゃって」
困ったように綾は笑った。
「今日はいい天気だねえ。どこに行こっか?」
葉介の方へ身を乗り出して、目を輝かせた。白いワンピースから透き通るような肌が覗いていた。少し胸の奥が高鳴るのを感じた。見慣れた光景のはずなのに、妙に緊張していた。
「みな……れた?」
ふと感じた違和感にハッとする。しばらく顔を見せていなかった幼馴染に対して、〟見慣れた〟なんて言葉がはたして相応しいのだろうか。考え込むように視線を落とす。
「葉介?」
名前を呼ばれ顔を上げる。どうしたの? そういう顔が目の前にあった。
「いや……なんでもない。今日は家でゆっくりしたいかな」
そうだね、と呑気な返事を聞いてホッとした。相手は幼馴染だ。そんな感情を抱いても少しもおかしくないだろう。葉介はそう自分に言い聞かせた。
「縁側行っててくれ。お茶淹れてくる」
台所に向かい、グラスと麦茶の入ったボトルを用意する。
「あれ? ばあちゃん……」
朝からやけに静かだと思えば、律はどこかへ行ってしまったらしい。昔から台所が定位置のごとく居座っていた律が珍しく外出していた。
「ばあちゃん……お茶菓子どこにしまってんだよ」
茶菓子が見つからず、戸棚を漁る。
「あ、あった。こんなところにあるのに気づかないなんて」
戸棚の隣にある、葉介の腰ほどの高さの棚の天板にかごがあった。その中に市販のなんの変哲もない地味な包装が無造作に突っ込んであったのだ。
「ん……? なんだ、今日なんかあるのか?」
ふと棚から目線をあげた位置にあるカレンダーが目に入った。今日の日付のところを大きく丸で囲ってあった。
「なにか、あったのか?」
考えても答えが出るはずもないので、グラスに茶を注ぐ。盆にグラスと茶菓子の入った皿を乗せ、縁側へ向かった。
「遅ーいよ! 喉からから!」
「ごめんごめん。お茶菓子見つからなくて」
麦茶の入ったグラスを綾に渡して、葉介も茶菓子の皿を挟んで隣に座る。遠くの林で、蝉がけたたましく鳴いている。陽射しも強く、縁側の下に入っていなければ焼け死んでしまいそうだ。風が頭上の風鈴を揺らし、少し葉介には涼しすぎる音色を運んでくれていた。
「わあー、このお茶菓子おいしいよね。だいすき! あ、なんか包装のデザイン変わってる?」
「本当に好きなんだな、それ。これ見たとき、お前、目の色変えてたぞ」
ふふふと綾がはにかむ。柔らかそうな頬が少し染まる。
「照れてるな、お前」
へへへと今度はいたずらっぽい笑顔を見せるのだった。
風が、雲が、時間が、ゆっくりと穏やかに進んでいた。向こうにいた頃には感じられないほどのゆったりとした時間の流れに葉介は浸っていた。
「ああ、こんなにゆっくりした時間は久しぶりだ。生き返る気分だ」
「そんな忙しいの? 大学」
その言葉に葉介の顔が一瞬曇る。
人生のモラトリアムと呼ばれるほど大学生というのは時間に猶予がある。講義も要領良くやればさほど忙しくない。バイトでもやればそこそこ忙しいが、それほど熱心にバイトを探してもいなかった。学外活動や部活もやっていない。ここまでの情報だけなら誰も葉介を忙しいと思う者はいないだろう。
「まあな。いろいろあるんだよなあ」
「そう……なんだ」
綾はなぜか納得のいかないような雰囲気をその返答に含ませた。が葉介はこのゆったりした時間の流れにもう少し浸っていたかったので、それ以上踏み込まないことにした。
「あーあ、まだ眠り足んないな」
葉介は大きく伸びをして、そのまま後ろに倒れこんだ。そして、大空に一筋の飛行機雲をその瞳に捉えると、ゆっくり瞼を閉じた。
「え? また寝るの? ちょっと! ……もう本当寝坊助!」
眉間にシワを寄せ、不服そうに葉介を見つめる綾だったが、穏やかなその表情を見て、柔らかく笑い、葉介の頬をそっと撫でた。
「お疲れだね」
葉介の頬を柔らかな夏の風が撫でた。意識は遠く、おぼろげになっていくが、はっきりと綾の気配だけは感じていた。