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つめたいナツ  作者: 無明
2/10

第1幕

夢を見た。白い靄の中からショートカットの少女が手招きをする。どんな顔をしているのか全くわからない。輪郭もぼやけたり、はっきり見えたりを繰り返しているが、どんな顔をしているのかだけはわからなかった。

しばらくその光景を眺めていると、その少女が何かを必死で訴え始めた。

「……て…………きて! ……」

口が開いているのかすらわからないにもかかわらず、目の前にいる少女が喋っているということがはっきりとわかった。夢の中なのにやけにはっきりした意識で、不思議なものを見ていると葉介は考えていた。

「…………お…………て」

しかし、その声すらもはっきり聞き取れない。断片的に聞こえてくる語気には、はっきりと何かを訴えていることが窺える。

「起きろ!」

その怒声によって、葉介は心地よい微睡みの底から一気に引き上げられた。それこそ深海から灼熱の陸地に揚げられた魚のように口をぱくぱくさせ、辺りを見回す。

「本当によく寝るよね、昔から」

細く、白い腕を組みながら少女は言う。まったくというつぶやきに合わせ、頭が横に振られ、ショートカットの黒髪がさらさらと音を立てて揺れた。

「せっかく幼馴染が来たっていうのに爆睡なんだもんなあ。冷たい人だ」

褐色の瞳が、するどく葉介を捉えた。たじろぎながらそれに応戦する。

「いやいや……。ちょっと長旅で疲れたんだよ。許してくれ」

手を合わせ、頭を下げる。顔は見えないがかなり呆れている雰囲気が肩にのしかかってくる。ため息が一つ聞こえた。

「まあ、しょうがないか。おかえりなさい」

そういって彼女は微笑んだ。

「そういえば、なんでお前入って来れたんだよ? 来客が来たらばあちゃんがいつも言いに来るのに」

「びっくりさせようと思って。あそこ」

いたずらっぽい笑顔のままで、親指で開け放たれた窓を差した。

「お前なあ……。どこぞのマンガじゃないんだから」

葉介は呆れ顔で立ち上がり、窓を閉めた。夕方と言っても真夏のそれはまだまだ灼熱の時間である。が珍しく今日は涼しい風が入り込んだらしい。少し肌寒いまでに部屋は冷えていた。

「あれ……」

だいぶ長い間寝ていたらしいので、溜まったメールを見ようと携帯の電源を入れると、画面の隅に圏外の文字が光っていた。

「どうしたの?」

「綾、携帯見てくれ」

「ごめん、私持ってないんだよねえ」

そういって綾は困った顔をする。

「こんなご時世に珍しいもんだな。ほら……圏外になってる」

葉介は携帯を開き、綾に見せてみた。

「本当だね。大丈夫? 誰かから連絡とか」

心配そうに葉介の顔を覗き込んでくる。その心配も当たり前だろう。今や、携帯がなければ仕事すら円滑に進められない、と父親が溢しているのを聞いたことを思い出した。

「大丈夫。たぶん親以外から連絡、来ないと思うから」

葉介はしばらく携帯を見つめてから、それをポケットにしまった。


親しい友人にはしばらく連絡が取れないことを伝えてあった。

「なんで1人で帰ってきたの?」

その問いに葉介の動きが一瞬止まる。部屋を出ようとしていたので、綾の位置からは表情は伺えない。

「ちょっと、静かなところで勉強したくて」

寝起きだからなのか、ややかすれ気味のその声には気怠さより他の何かが感じられたが、綾にはまだわからなかった。

「……そっか」

綾はすっと立ち上がり、葉介の隣まで歩いた。隣に来ると今度はいきなり腕を組んだ。歳相応の少女の柔らかな体温が葉介の腕を包む。

「ねえ! ちょっと散歩しようよ! 眠気も覚めるよ?」

と言い終わらぬうちに歩き出し、葉介を外へ連れ出した。

「おい! なんだよ、いきなり!」

門をくぐったところでようやく綾が歩みを止める。と同時にその抱かれた腕を解く。

「ごめん、なんか元気ないなって……」

「そういえば……。綾って俺が落ち込んでる時とか元気ない時いつもこうやって外に連れ出してくれたっけ?」

そんな記憶が脳の最深部から急に浮き上がってきた。

そういえば、ザリガニやおたまじゃくしを取っていたのも綾と一緒だったということも、思い出した。記憶の中にあるザリガニやおたまじゃくしを取っている情景の中に、急に綾の姿が上乗せされた。

「懐かしいなあ」

そういって葉介は目を細める。1日騒いで、悩んでいたことを忘れて、夕飯を食べて寝て、朝起きたらもう綾が部屋に迎えに来ていて、また遊ぶ。そんな日々をここでは過ごしていたのだ。

「よし! 行くか!」

その言葉に綾の目が反応して、キラキラと輝き出した。もう一度葉介の腕を抱いて、嬉しそうに笑っている。

急に、あの頃遊んだ川に行きたくなった。ザリガニやおたまじゃくしが恋しくなった。

「ふふ、じゃあこっちだね」

綾は昔と同じように葉介を引っ張って、ツクツクボウシがけたたましく鳴いている林へ向かった。

林の中は湿っぽく、冷たい空気に満たされていた。木々や枯葉の腐った匂いが鼻を覆っている。

「久しぶりすぎて、どこに川があったとか忘れちゃってるな」

葉介はあたりを見回しながら、記憶にある川を探した。時間が時間だけに早く見つけなければならない。もうすぐ日没である。

「何してるの? こっちだよ!」

しばらく離れたところにいた綾がこっちを向いて手招きをしていた。雪のように白い手が、それもまた雪のようにひらひらと宙を舞っていた。

「おお! そっちか!」

葉介はその手に応えて、綾の元へと向かった。

「遅いよー」


腐葉土でぬかるんだ地面に足を取られ、なかなか進めない葉介を見て、綾は笑顔で不平を浴びせる。いくらか履き潰したスニーカーがなおさらみすぼらしくなったが、気にしないことにした。

綾の立っている場所の少し奥の方は突然地面が途切れていて、その下に、涼しげな音とともに水が流れていた。覗き込むと名前も知らない魚が流れに逆らう形で懸命にその尾びれを振っていた。つがいだろうか、二匹ぴったりと並んでいる。

「お、いるな」

その魚の横の岩の隙間から、赤黒いハサミを覗かせているものがいる。

「よし」

夏場だというのに、骨まで凍ってしまいそうな水に手を入れて、ハサミの主の背を掴む。

「腕は衰えてないみたいですな」

ハサミを振り上げ、威嚇するそれと、葉介の無邪気な笑顔を交互に見ながら、綾がニヤリとする。

それだけで昔に戻ったようだ。

「やっぱりいいなあ、この場所は」

子供の頃と何も変わっていない。匂いも、冷たさも何一つ。

そう実感すると無性に腹が減ってきた。これも昔と同じだった。

程なくして、空腹を知らせる時報がなる。

「あ……」

「そこも変わらないなあ」

葉介は照れ臭そうに自分の腹を抑えて、はにかむ。

「帰ろっか」

綾はそのはにかみに応えるように、笑顔を咲かせてみせた。

「食べていかないのか?」

葉介の見開かれた目が綾をジッと見つめていた。辺りはまだ明るいが、定刻で点灯を始める街灯はすでにその光を灯していた。門のすぐそばにある街灯の淡い光の中に二人は立っていた。

「うん、親に……連絡してなくて」

ごめんね、と綾は困った顔で笑った。

「まあ、それならしょうがないか」

葉介は口惜しそうに小さな声で言った。

「またどっかに食べに行こうよ。そうだ、葉ちゃんの大学の近くに遊びに行ったら、案内してよ!」

そう言うと綾は右手を差し出し、小指を立てた。

「ったく。約束だからな?」

葉介はそう言いながら、綾の立てられた小指に自分の小指を絡ませた。夏の炎天下にいた人間のものとは思えないほど冷たかった。そして、細く、柔らかい。

「約束ね!」

ふわりと笑う綾の表情には夕陽のせいか、悲しい雰囲気が漂っていた。

「お前も忘れるなよ? 」

指を解いて、葉介は念を押すように言う。それに対して不満を抱いたのか、綾が口を尖らせる。

「忘れませんよう。あ、もう時間だ。じゃ、また明日」

白い腕に巻かれている、深い緑のベルトに目をやると、慌ただしく挨拶を交わした。手を振って、ゆっくりと背を向ける綾を確認してから門を潜りかける。

「あ、明日は何時に……」


そう言いかけた言葉は、相手に聞こえることはなかった。さっきまで農道をのんびり歩いていた彼女は、夕陽の日差しの中に溶けてしまったかのように消えてしまっていた。

その直後に、葉介の右ポケットに微弱な振動が走った。

「未読125件……か」

未読のメールや不在着信を通知する携帯の点滅によって、葉介の気分は再び谷底に突き落とされてしまった。

葉介はしつこく光る携帯をポケットにしまい込み、門をくぐって、玄関の引き戸を開けた。この夕方特有の家庭の匂いが一層強くなり、葉介の胃袋を刺激した。

「あら、遅かったねえ。もうできてるよ」

食卓の上には、数品のおかずとつやつやと光る白米が茶碗に盛られて、並べられていた。

「うまそう……」

葉介は固唾を呑んでそれらを見渡した。

「手を洗ってらっしゃい。川臭いわよ」

自分の分の白米をよそって、律は炊飯器を閉めた。葉介は自分の服の裾を引っ張り、鼻の先へ持っていった。微かに泥の匂いがする。

「ん?」

「どうしたの? ご飯に虫でも入ってる?」

「いや、なんでもないよ。手を洗ってくる」

服の裾を離して、首を横に振った。洗面所へ行って、蛇口を捻る。流れ出る冷水で手を流しながら、ぼんやりとさっきの匂いを思い出した。

泥の匂いの中から仄かに感じる、ラベンダーの香りを。


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