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白い焔、蒼い氷、白銀の鞭

 『退院した』はずの大事な友達は、『半年前に病死』している。

 茜崎さんが視たえにしの糸は、そんな嘘まで看破してしまうのか。むっとした、日本特有の湿度の高い不快な暑さが束の間遠ざかる。急に寒くなって、思わずむき出しの腕をさすった。

 鈴原さんは何故、嘘をつく必要があったのだろうか。

 そしてフランはどんな気持ちで、鈴原さんの嘘を暴いたのだろう。

 どろりとした冷たい油を流し込んだような沈黙に耐え切れず、僕は口を開く。フランは焦点のあわない硝子の瞳で僕を見つめていた。

「ねえ」

「うん?」

 いかにも夏の午後らしい、はじけるような白みを帯びた黄金色の光に染まる髪が、細い背を滑る。

「鈴原さんは何か隠してる。危険なことも潜んでいるかもしれない。それでも」

 断定してしまったら実際にそれが襲いかかってくるような気がして、断定できない自分の弱さが嫌になる。それでもフランの方をひたっと見つめ、言葉を続ける。

「依頼は、受けるんだよね?」

「当たり前だろう!」

 即答だった。

 その言葉を合図にして、真っ白な頬に血が通ってほのかに色づき、髪がまるで生きているかのようにしなやかにうねり、折れそうに細い指先がソファを蹴って跳ね上がる。

 立ち上がったフランは僕の手を痛いほど強く掴んで、自分の胸の前に引き寄せた。

「何があっても、何をしてでもっ! 絶対に、依頼を完遂してみせる!」

 今ここで君に誓うと高らかに叫び、紅潮した頬を隠すようにそっぽを向く。

 座っている僕より高い位置にある顔を呆然と見上げながら、僕はフランが見せた唐突な激しさに、ただ驚いていた。

 まるでたわめられた竹が一気に弾けるような、過剰なまでのフランの反応。切ないほどに懸命で、真っ直ぐな約束。

「見損なわないでくれ。危険だからなんて理由で、依頼を放り出すようなことはしない」

 一句一句刻み付けるように、はっきりと告げられた台詞。今まで見せたことがないほど苛烈な視線が不意にずれ、ギリシア彫刻のように美しい横顔が辛そうに歪むのを、僕はただ見ていた。

 次の一言を発するまで、長い時間が必要だった。嫌な予感が、彼女の返事が、弱虫な僕にはたまらなく怖かったから。

「僕も、一緒にいていいんだよね?」

 ものすごい力で掴まれ、互いに折れてしまいそうな手の、刺すように鋭利な冷たさ。透明な焔のようにゆらゆらと彷徨っていた髪は、いつの間にかフランの背で一筋の滝のように流れ、荒れ狂う獣の激しさを失っていた。

 僕を透かして、どこか遠くを――とても深いところにある何かを見つめる、しんとした一対の蒼い瞳。

「君はどうしたいんだ?」

 意識して柔らかさや温度を消し飛ばしたような、ある種の酷薄さを孕む声。

「君は、引き返すかい」

 ひりつく空気。息が出来ない。

「怖いんだろう?」

「――怖くなんて」

 神話に語られる残酷な女神のように、口の端だけ三日月の形に引き上げて笑うフランを直視出来ない。

「危険だよ」

 淡々とした声、不穏に凪いだ蒼い瞳。

 笑みを消した赤い唇が、感情を不気味なまでに押し殺した言葉を紡いでいく。

「危険だよ、これ以上は。今までのようには行かないかもしれない。いや、行かないと断言した方がいいのだろうね。イツキ、君は人の『想い』の怖さを知らないだろう。死んでいった人間があまりにも強い想いを抱いて、焦がれて焦がれて焦がれ狂って、それ以外の全てを捨て去ったとき、どうなるのか知らないだろう。

 それを駆逐し無に還す、半ば人間ではない者たちの惨さもね」

 一瞬だけ目を伏せる。次に目をあけたときにはもう、微かに漂っていた儚げな色彩は消えていた。

 こぼれ落ちる言葉は完全に温度を失って、葬儀の夜に降る雪のようにフローリングの床に音もなく積もっていく。

「君はそれでも、こちら側に足を踏み入れるのかい。今ならまだ引き返せる」

「何で――」

「イツキはまだ、正気を保っている幽霊にしか出会っていない。ただでさえ危うい心のバランスを完全に欠いて、襲いかかってくるような幽霊に出会ったことなどないだろう?」

 フランは答えず、僕の言葉を遮るようにして続ける。無知で愚かな人間を嬲るかのように、執拗に逸らされない視線を受け止めるのが精一杯だった僕はそこで初めて、フランの拳が真っ白になって震えていることに気付いた。

 哀しいまでに美しく脆い、硝子の女神。

「運が良かったんだ。そうでなければ、今頃君はノイローゼにでもなって首筋を掻き切っているだろうからね」

「……」

「それくらい、正気を欠いた者は多い。考えてみれば当然だね。死んだはずなのに、何故か『この世』にいる。動けない。気付いてもらえない。辛い、寂しい、苦しい――おかしくなってしまう! 

 何故、自分は死んで、お前は生きている? お前は、お前が、お前を!

 私達は、何度もそんな幽霊を見てきたよ。君が来る前にやってきた助手達は皆、それに耐えられずに辞めていった。例外なく自分達も心のバランスを失って、私を化け物、疫病神、死神と罵ってね」

 フランの表情に初めて、ぞっとするほど凄惨な笑みが浮かんだ。ここまで明確に人を怖いと思ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。じっとりとした脂汗がシャツにまとわりついて気持ち悪い。

「甘いよ」

 蒼い瞳の奥で、大蛇おろちのように白い焔が燃えている。

「そんな状態で『死繋執行人』を続けるなんて。『死繋執行人』である私と一緒にいるなんて」

「違――」

 灼け、渇いた喉で、言葉は止まる。

 違うのか、本当に?

 安穏と、何の覚悟もなく、幽霊に接してきただろう。まさか襲ってくるだなんて――殺そうとしてくるだなんて、欠片も考えたこと無いじゃないか。

「甘いよ。つくづく甘い。君は危険すぎる」

 血の気のない真っ白な貌で、白銀の髪で、己を押し隠すような黒衣で、こちらを無表情に見つめるフランは知らない誰かのようだった。

 そしてあまりに残酷で唐突な一言が、氷柱のように僕に突き刺さる。


「藤岡樹木、君を解雇する」


 周囲の音、すべてが消えた。神経が、筋肉が、脳が、思考が、凍りついて止まる。

「……え?」

 やっとのことで押し出した声は間の抜けた疑問符だった。フランは微動だにせず、体温の宿らない無機質な瞳で僕を見つめている。

 その、何一つ読み取ることの出来ない、冬の湖のような瞳から――

 ほろりと一筋、涙が白い頬を滑り落ちた。

「フラン」

 超然とした無表情の薄氷を破るようにして――ほろほろと、華の雫がこぼれ落ちていく。驚いたようにごしごしと涙を拭っても、後から後からこぼれてきて止まらない。

 本人が一番驚いているようだった。焦ったように頬をこすり続けるフランから、鎧のように彼女を覆う無表情は溶けて消えていた。

 僕のよく知る『死繋執行人』の少女、フランシスは声をたてずに泣いていた。

「フラン……」

 迷うような素振りと共に開かれた薄桃色の唇は、結局何も言わずに閉じられた。複雑に絡んだ糸玉のようにもどかしい沈黙の中、不意に滲んだ視界の中でフランは僕に背を向ける。

 振りほどかれた手をもう一度捕まえようと、僕は夢中で手を伸ばす。

 触れたら斬れてしまいそうに鋭い白銀の鞭が、鮮やかな軌跡を残して宙を舞い、僕の頬をしたたかに打った。フランは上半身だけで僕の方を向いている。

「出ていけ。二度と来るな」

 喰いしばられた真珠色の歯。涙をいっぱいに溜めた蒼い瞳。

 僕の手は何にも触れないまま、空中でぴたりと止まった。どうしても、そこから前に進めない。

「――莫迦」

 フランは凍りついたように固まった僕の横をすり抜けて、小さな『伝言メッセージサービス』事務所を出て行った。


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