勘違い、錯覚、捏造
フランが事務所に戻ってきたのは、僕が事務所内の掃除を終えて買い出しに行き、昼食を作っているときだった。ちなみにフランは、炊事やら洗濯やらの家事全般を僕にまかせっきりにしている。
フランは食べ物の好き嫌いが尋常じゃなく激しいので、バランスよく食べさせるにはメニューをしっかり組まねばならない。何しろ野菜の約半数と豚肉が使えないのだ。当然時間がかかるので、これが僕の主要業務になっている。
……これは『助手』の業務に入れていいものなのだろうか。意外と楽しいからいいんだけど。
そんなことをつらつらと考えながら、トマトソースで甘酸っぱく煮たロールキャベツを皿によそっていると、フランが給湯室に入ってきた。季節はずれな感がないでもないんだけど、これはフランの大好物なので、月に二、三回は作る。
「つまみ食いはだめだよ」
「まだ何も言ってないぞ」
と言いながらも、頬がちょっとだけ膨らんでいる。
フランに手伝ってもらいながら、隣の部屋へ皿を運んでいく。いかに設備が充実している給湯室でも、二人座って食べるには狭いのだ。
いそいそと席につき、目を輝かせているフラン。こういうときは本当に子供っぽい。西洋系の顔立ちはあまりにも整いすぎていて年齢が判断できないけれど、本当は何歳なのだろう、と食事のたびに思う。
「いただきます」
今日のメニューはロールキャベツとパン、きゅうりのサラダ。
フランは口いっぱいにロールキャベツを頬張っているせいで、リスみたいにぷっくりと頬が膨らんでいる。
「美味しい?」
「うむ!」
こちらに一切視線を寄越さずに、おざなりな返事を返してくる。態度は素っ気無いけどかなり嬉しい。実はロールキャベツの中に、フランの苦手なパプリカをこっそり入れてある。どうやら気付いていないみたいだ。
にやけそうな顔を隠すため、自分もフォークで切ったロールキャベツを口に入れる。うん、上出来。
ものすごい勢いで平らげていくフランを見ながら、僕は『気をつけろ』の件をいつフランに相談するべきかどうか、悩んでいた。タイミング的には今がちょうどいい。でも、どう切り出したらいいものか。
ちらちら窺っていたのがばれたんだろうか。フランが「ん?」と視線だけを僕に向け、首を傾げて見せた。この間も手と口は忙しく動き続けている。
ごくんと咀嚼していたものを飲み込んでから、フランが言った。
「イツキ、どうした?」
「うん……」
何て言ったらいいのかな。
「悩み事か?」
「悩み事っていうか、相談なんだけど」
いつになくキリッとした顔のフランが、僕を覗き込んだ。
「いらないなら喜んで貰うぞ」
「狙いはそっちかよ」
心配してくれたんじゃなかったんだ。まあ予想してたけど。
ともあれ、助かった。僕は皿をフランの方に押しやってから、アイスティーを一口飲んで話し出した。
(フランが鈴原さんに投げかけた質問の事や、茜崎さんの女性遍歴など)訊いていいのか分からないこともあったから、迷いながらの長い話になってしまったけれど、フランは一言も口を挟まないまま耳を傾けてくれた。
ようやく話し終えると、どっと疲れた。三十分くらいぶっ通しで話し続けていたのだ、当たり前かもしれない。
誰かに話せば考えがまとまるかもしれないという期待も、正直なところ少なからずあったんだけど、そんなことは全然なかった。相変わらず白いジグソーパズルを組み立てているような途方のなさは感じていたし、むしろかえって分からなくなったような気さえした。
自分でよく考えなければならない。何かがおかしい……?
思考のループにずるずる引っぱり込まれていく僕を呼び戻したのは、フランの澄みきった中性的な声だった。
「京子が気をつけろと言ったのだね。確かにそうかもしれない」
「何に」
凛とした表情で、白くて細い手を組み合わせる。首にかけられた黒リボンのチョーカーが揺れた。モチーフは鍵だろうか。
「イツキは、どう思う?」
聡明な蒼い目が僕を真っ直ぐに見つめている。こちらの考えは全て見透かされているような気がするのに、フラン自身の思いは一切窺えない。
下手に誤魔化しても無駄だろう。あんまり言いたくない考えだけど、仕方がない。
「ちょっとおかしいと思う」
無言で続きを促すフラン。
腹をくくって、僕の想像でしかないんだけど、と前置きをした。
「鈴原さんの依頼はちょっとおかしい。幽霊は、この世の物に触れないはずだ。棚の中にある注射器や重い皿を落としたりなんて、出来ないはずなんだよ」
だから僕は、この依頼を胡散臭いと思ったのだ。
「勘違いとか、錯覚とか……あんまり考えたくないけど、捏造、とか」
でも、専門家に見破られる危険を冒してまで、捏造なんてことをする理由が見つからない。だから、捏造はないんじゃないかと思う。
そう思いたいだけなのかもしれないけど。何か別の思惑――例えば、僕らを病院に呼び出すことそのものが目的であるとか――があったら、十分ありえることなのだから。
「うむ」
「フランが依頼を受けると言ったとき、びっくりしたんだ。でも、もし、勘違いでも錯覚でも……捏造でもなかったとしたら」
そのどれでもなかったとしたら。
フランが依頼を受けると言った、理由が分かる。
「犯人は、幽霊じゃない」
沈黙が降りた。比喩じゃなく空気が重い。
フランの溜息が聞こえたのは、一体どれくらいの時間が経ってからだったか。
「そう……だね」
そのとおりだよ、と呟く声が遠い。
――それだけじゃないからだ。
僕が情報の断片をかき集めて編み上げた想像は、それだけじゃない。そこで終わらない。
「でも、人間でもない気がする」
そうでなければ、京子さんが『気をつけろ』『よく考えな』と警告を発してくるとは思えない。茜崎さんが『忙しく』なるのは、死者が大勢いるときだけだ。生者が大勢いても、縁の糸を辿って人を探す『探偵』である彼の手間はそれほど増えない。彼らは自分で大切な人と話すことが出来る。動くことが出来る。『探偵』の手は必要ないのだ。
もっと危険な、ナニカ。そんなものがいるんだろうか。
いるのかもしれない。京子さんが危険だと言い、フランが他人の過去を抉ってでも手を打たなければならないと判断した、ナニカ。
「――それだけじゃないだろう」
顔を上げると、フランの真剣な眼差しが目に入った。怖いほど鋭利な輝きを宿す銀の髪と蒼い瞳。まるで目にナイフを突きつけられたようで、身体がまったく動かせなくなる。
「うん」
嘘は吐けなかった。
未だはっきりとは掴めない、それでも頭にこびりついて離れない想像を、口にする。
「鈴原さんの『大事な友達』が、絡んでるんじゃないかと思うんだ」
「……」
フランが髪をかき回す。水銀のように形を変えては光をはじき、うねる髪がソファを流れる。
「いつまでも隠している訳にはいかないから、言っておくよ」
かたく閉じられていた瞳が開き、僕を真っ直ぐに見据えた。痛いほど直に雪崩れ込んでくる感情が、頭の芯で凍りついていた恐怖心を粉々に砕いてしまう。
「さっき茜崎の事務所へ行ってきたんだ」
白銀の鍵が小刻みに震えている。
「鈴原文乃の言っていた『大事な友達』……野上恭平という彼女の恋人は、あの病院で半年ほど前に病気で亡くなっている」