クリームソーダとデリカシーと危機意識
茶系のインテリアで統一された、落ち着いた雰囲気の『喫茶 ピエロ』店内。真っ先に一番奥のボックス席に陣取ったフランが、バニラアイスをのせたスプーンを真剣そのものの目で睨みつける。人形のように整った顔が寄り目がちになっていて、ちょっとユーモラスだ。
「……本当にクリームソーダ、大好きなんだね」
「うむ」
呆れかえっている僕の言葉に返事をしつつ、視線は目の前に置かれたクリームソーダのグラスから逸らさないフラン。まったく、変なところで律儀なのだ。
すくったアイスを落とさないよう、慎重にぱくっと口に入れ、幸せそうに微笑む。とろけそうな笑顔とは、こんな笑顔のことをいうのだろう。僕は目の前に置かれたミルクティーのカップに手を伸ばしながら、向かいに座る鈴原さんに目を向けた。
チョコレート色のソファにちょこんと座った鈴原さんは、アイスココアのマグカップを両手で包み込むように持ったまま、目を細めてフランを見つめている。やんちゃな妹を見守る優しい姉、といった印象だ。
細心の注意を払ってバニラアイスをすくい、陽だまりの猫みたいな表情で飲み込み、小さな桃色の唇で可愛らしくストローを咥える。フランの挙動そのものは女の子らしくておしとやかなのに、グラスの中身が減っていくスピードが半端じゃなく速い。こいつ、口がいくつかある妖怪か何かだったのだろうか。
僕がそんな阿呆なことを考え出すくらいの速さでみるみる下がっていく水位が、大きめのグラスの真ん中を下回るころ。フランはようやくグラスから視線を上げ、マグカップを持って微笑む鈴原さんを見た。
「話を聞こうか」
蒼い瞳を鋭く輝かせ、尊大に告げる。が、口元にクリームが付いてしまっているので威厳の欠片も無い。
鈴原さんはマグカップをコースターに戻し、小柄な体を姿勢よく伸ばして、きちんと向かいに座る僕らに向き合った。
「今回依頼したいのは、病院のお払いなの」
「ほう?」
「お母さんが働いてる病院なんだけど、夜な夜な『出る』らしくて。患者さんが怖がってるから、お母さん達も困ってるみたいなんだ」
形のいい眉を寄せ、鈴原さん自身も困ったような表情を作る。
「鈴原さんのお母さん、看護師?」
「うん。そうだよ」
そう言って、市内の病院の名前を挙げる。この辺りでは一番大きな総合病院だ。
「夜な夜な『出る』ね……。他の同業者には頼まなかったのかい?」
フランは浮かない顔。というより、胡散臭そうな顔だ。理由は僕にも分かる。
幽霊はいつだって『其処』にいる。わずかな例外を除いて、彼らは自分が死を迎えた場所から動くことが出来ないのだ。つまり、夜な夜な『出る』のは難しい。昼夜を問わず、ずっとそこにいるのだから。
それに加えて、幽霊はこの世が生み出したものに触れられない。多くの人は姿を捉えることも出来ない。危害を加えることも、驚かせることもないのだ。
こういった依頼は大抵の場合、勘違いや群集心理による錯覚である。今回もそのパターンだと考えているのだろう。鈴原さんには悪いけど、僕もそう思う。
「専門家に頼もうっていう話も出たみたい。でも、そういうモノを信じない人も多くて、結局その話は無かったことになったんだ。今は幽霊騒動自体が無かったことになってるんだって」
鈴原さんは肩をすくめる。つまり、病院側からの依頼ではなく、彼女の独断による依頼ということだ。
「具体的な被害は?」
「うん? これは聞いた話だから確かじゃないのかもしれないけれど、棚から勝手に注射器が落ちてきたり、給仕用の重い皿が落ちてきたりしたことがあったらしいの。あと、同じ階段で転んで怪我をした人が一月に十人以上出たとか、四階トイレの鏡がよく割れるとか。お母さんが出勤するとき、黒猫が前を横切る頻度が上がったとか。ああ、院長先生の生え際がどんどん後退していっているっていうのも聞いたことがあるな」
真剣な表情で指折り数えていく鈴原さん。
「おかげで今は、北極点通過間際だとか」
そうですか……。
「小児科医の先生の浮気癖が治らないとか、眼科医の先生の、髪型とネクタイのセンスが日に日に悪くなっていっているとか。そのせいでみんな吹き出しちゃって、検査にならないんだとか」
「うん。ストップ。もういいよ……」
最初の方はともかく、最後のいくつかは絶対に幽霊関係ないよね。
「何か分かった?」
真面目な表情で僕を覗き込む鈴原さん。まさかこの人、本気で信じ込んでいたんだろうか。心配そうな顔で、さらにこんなことを言う。
「お母さんの先輩の奥さんのお化粧も、四十代になってから年々厚くなっているんだって。どうしてだろう?」
年齢が気になりだしたんじゃないかな……。
「分かった。その依頼を受ける」
隣でずっと黙っていたフランが、突然言った。呆れかえっているとばかり思っていたんだけど、どうやら考え事をしていたらしい。
「ええっ? 受けるの?」
びっくりして叫んでしまってから、慌てて店内を見回す。幸いなことに、僕らの他に客はいなかった。
「受ける」
断固たる口調で言い切り、ストローでメロンソーダを吸う。すでにアイスクリームは食べきってしまっているのだ。水面の位置がビデオの早送りみたいに下がっていく。
「了解した。日時は追って連絡する。病院内の人間に、落下物に注意しろと伝えてくれ」
「う、うん。分かりました」
顔を若干こわばらせ、頷く鈴原さん。フランは感情が読み取りにくい目で鈴原さんを数秒間見つめた後、溜息をついて俯き、髪をぐしゃぐしゃとかき回した。チョコレート色をしたソファの表面を、冴えた白に光る髪がさっとはらう。踊るように揺れていた毛先の動きが止まるくらいの時間の後で、フランは顔を上げた。
「デリカシーの無い質問で申し訳ないが――」
蒼い双眼が、鈴原さんを真っ直ぐに射る。
「君の友人、または家族、親類が、長期入院していた病院なんじゃないか?」
人からの伝聞にしては多くを知りすぎている。自分自身の検査や短期の入院では、様々な科の情報を細かく仕入れることは出来ない。院内を自由に動ける見舞いか何かで、よく病院を訪れていたのではないか、と。ほとんど一息に言ってから、感情を殺した、鈴原さんの先にある何かを透かし見るような瞳をする。
「……」
鈴原さんはすぐには答えなかった。ほんのりと淡い笑みを浮かべて、フランを見つめ返している。
二人とも目を逸らさない。ひたりと視線を絡ませあったまま身じろぎもせずに、互いの身体を透かすような眼差しを投げかけ続けている。
やがて怖いほど優しい声で、鈴原さんが呟くように告げた。
「うん。そうだよ。友達が――私の大事な友達が、入院してたの」
「してい『た』?」
フランも逃がさない。
「うん、入院してい『た』。今はもう退院してるよ」
流れるような回答。まるで――用意してあったかのような。
その答えを聞き、フランは長い睫毛を伏せる。
「……そうか」
フランは何を思ったのだろう。
僕はフランとの二ヶ月間の付き合いの中で、彼女の癖をいくつか把握していた。髪をかき回すのもその一つだ。彼女が強いストレスや、悩み、迷いを抱えているときの癖で、めったにやることは無い。
それだけの質問をした今、フランは鈴原さんから何を感じ取ったのだろう。
「また連絡する。今日はありがとう」
「う、ううん、こちらこそ! よろしくお願いします」
せかせかとした仕草で頭を下げる鈴原さん。ココアを一気に飲み干すと、鞄を手に立ち上がる。空気の粒子一粒一粒が軽くなったような気がした。大きく息をついてはじめて、自分が息を止めていたことに気づく。
「ありがとうございました! 藤岡くん、またね」
送って行くよと言う間もなく、鈴原さんは店の外に消えてしまった。
しばらく、フランも僕も動かなかった。
「京子に、連絡を取ろう。茜崎にも」
「うん。そうだね」
疲れが澱んだフランの声に、僕ものろのろと返事をした。
京子さんと茜崎さんは、僕らの同業者だ。京子さんは着物を着こなす和風美人のおねえさんで、死者を実際にあの世へと送り届ける『船頭』という職業についている。茜崎さんは亡くなった人(=幽霊)やその近しい人たちの身元を探る『探偵』の、渋い色男。死繋執行人助手のアルバイトを始めてから、何度もお世話になっている。
『船頭』『探偵』『死繋執行人』のどれか一つでも欠けてしまうと、仕事が完遂出来ないのである。フランも含めて僕の周りの仕事仲間は変人だらけだけど、皆の腕は確かだった。
彼らに連絡を取る。さっき宣言したとおり、フランは万全の態勢でこの依頼を受けるのだ。このときの僕は正直なところ、鈴原さんの依頼である病院の幽霊騒動をまだ胡散臭く思っていた。フランが重要視したという、漠然とした不安を抱いただけ。
その鈍さと暢気さに冷水をかけられたのは、次の週末のことだった。