3.33と2.6と38
二つ目はイツキの五教科評定平均。
三つ目は……ご想像にお任せします。
丁寧に白いペンキが塗られた、小さな喫茶店のような佇まいの可愛らしい木造二階建て。落ち着いた深い赤色の屋根、飴色の大きな窓枠、くすんだ金色のドアノブに掛けられた看板。ここが僕のアルバイト先『伝言サービス』の事務所である。
鈴原さんが、わあっと目を輝かせた。小さな子供みたいにきょろきょろと辺りを見回しては、可愛い可愛いと歓声をあげている。僕は何となく嬉しくなって、ちょっと口元を緩めたまま、猫のシルエットをしたインターフォンを押した。クリスマスに奏でるハンドベルみたいな、澄んだ音色のメロディがワンフレーズ流れる。
すぐに、とっとっとっと……と編み上げブーツが堅い白木の階段を打つ軽い足音が下りてきて、ドアが開いた。
「早かったじゃないか、イツキ」
僅かに、しかしはっきりと笑いを含んだ、中性的でなめらかな声。
「分かってたんでしょ」
僕は肩をすくめる。
「鈴原さんは僕に話しかける前に、事務所に電話をかけているはずだよ」
ひっそりと駅前の掲示板にはられたチラシには、事務所の電話番号が書いてある。依頼の電話の中で、僕にも了承を得るよう話した……というかそそのかしたんだろ?
返事の代わりに、ささやかな笑い声。
ドアを開けてくれた事務所の主――フランは、砕いた宝石を閉じ込めたような笑顔を浮かべて、鈴原さんに手をさし出した。
「死繋執行人のフランシスです。こんにちは、鈴原文乃さん」
僕との初対面の時と全然違う!
こいつこんなまともな敬語使えたんだ……と僕がしきりに感心している三十秒くらいの間がたっても、鈴原さんはその手を取らなかった。
どうしたんだろうと横を見ると、フランを見つめて固まっている。
「あわわわわ」
鈴原さんは色白の頬を染めて僕を見、フランを見、もう一度僕を見てからフランに視線を戻した。
おいおい顔真っ赤だよ? 大丈夫?
「お人形さん?」
ようやく発された鈴原さんの言葉に、僕らは揃って苦笑した。
夏の強烈な日差しを受けて星屑色に光る髪を背に流し、銀刺繍の施されたヘッドドレスを頭に乗せて、長袖のゴシックロリータをまとった小柄な女の子。透けるように白い肌と細っこい手足、すっと通った鼻梁にさくらんぼの唇。大きな蒼い瞳は北国の冬空みたいにいつ見ても寂しげな色をしていて、目が離せなくなる。
「すっごく綺麗……」
思わずといった調子で呟いてしまってから、照れ臭げな顔で小さな手を握る。フランは柔らかい笑顔を浮かべたまま、僕らをそっと事務所の中へ招き入れた。
「そういえば――」
フランが短い廊下を歩きながら、不意にぽんと手を打って話し出す。
「分かっていたこと、他にもいくつかあるぞ」
「え?」
他にも何か企みがあったのか?
フランは警戒する僕を不思議そうに見つめ、可愛らしく小首を傾げて言う。
「イツキの成績表の評定平均が3.33だったこととか」
何もない廊下で思わず転びかけた。
「おい!」
何で知ってるんだよ! 評定平均は成績表の数字を全部足して教科数で割らなきゃいけないから面倒で、自分でもまだ出していないのに……ていうか鈴原さん聞いてるんだから暴露しないで!
「高評価のほとんどを体育以外の実技教科でかせいでいたこととか。そのせいで五教科の評定へ」
「言わないで! ダメ! 絶対ダメ!」
フランはきょとんとした顔をしている。
「いきなり顔を真っ赤にして喚くなんてどうしたんだ、変な奴だな。んん、後は、イツキの部屋にある二重底ひきだしに隠してある期末テス」
「わああぁぁあぁ」
「藤岡くん大丈夫? 顔が赤くなったり白くなったり忙しいけど」
うん、ちょっともう駄目かもしれない……。
鈴原さんには騙しているようで申し訳ないが、この事務所にはクーラーなどという高尚な文明の利器は存在していない。プラスティックの衝立を抜けた先の、いかにも事務所然とした事務所はうだるような暑さで、フラン以外は一気に汗だくになってしまった。毎度毎度思うけど、何でフランはこの時期に長袖なんか着て汗をかかないんだろう。
直射日光が当たらないのはいいけど、そのぶん壁に遮られて風が通りにくいから、プラスマイナスゼロであんまり外と変わらない。ふと視線を感じて一つしかないデスクの方を見ると、鈴原さんが飼い主に裏切られた子犬みたいな顔で僕を見つめていた。
う……僕のせいじゃないけど罪悪感が……。
フランは涼しい顔でそっぽを向いている。
以前、クーラーの設置を検討しようといったら、「私はクーラー要らないんだから、欲しいならイツキが全額出せ」と迫られてしまったため、僕も迂闊にクーラーの話を切り出せないのだ。扇風機は連日の酷使で音を上げてしまったし、風鈴は近所に幅を利かせているカラス達に割られてしまった。
鈴原さんが、もとは扇風機だったものをつつく。
「こんな壊れ方した扇風機、初めて見たよ」
うん、僕もこの間が初めてだよ……。それにもう見ないと思う。
「扇風機の羽って、全部ばらばらにもげちゃうんだね!」
無邪気な笑顔を輝かせて、近くに放ってあった四枚の羽をいじくりまわす鈴原さん。
フランはちゃっかり窓際を確保して、明後日の方を向いている。
僕は溜息をついた。
「ごめん。暑いよね」
「ううん、そんなことないよ、快適だよ」
頬に伝う汗を慌てて指で弾き、健気に笑ってみせる鈴原さん。ほんといい人だ。
「場所、移そうか。それでもいい?」
「うん!」
ひまわりみたいな大輪の笑顔。
結局この流れになるんだなあと思いつつフランを見ると、右手で小さくガッツポーズを作っていた。素直にそう言えばいいのに、変なところで頑固な奴なのだ。
鞄を抱え、三人で連れ立って外に出ると、少しだけ排気ガスの匂いが混じった外気に包まれた。日差しの強さに思わず手でひさしを作った僕のすぐ前で、ふわりと黒い花が開く。黒地に白のレースがあしらわれた、フラン愛用の日傘だ。
クリームソーダ、クリームソーダ……という聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声が、日傘の下で繰り返される。
フランは本当にクリームソーダが好きなのだ。気付いたらつられて微笑んでいた。
クリームソーダ、クリームソーダ……。
うきうきとはずむ、長い銀髪とこげ茶色のショートカットを追って、僕も喫茶店へと歩き出した。