秘密と迷言と上司の追撃
きっちりスリーコール後に、通話相手が受話器を取り上げる音がする。
「はい、『伝言サービス』です」
若いような年老いているような、男のような女のような、不思議な声。なめらかで神秘的な響きからは、通話相手に関する一切の個人情報を受け取ることができない。
間違いない、アルバイト先の上司フランこと、フランシスだ。
ちなみに僕のアルバイト先は、メンバーが僕を入れて二人、つまりフランと僕だけなので、基本的に間違いようが無い。
「もしもし、イツキです」
携帯電話自体をてのひらで覆い隠すようにして、三メートルほど先の木陰で待ってくれている鈴原さんに背を向ける。あまり聞かれたくなかったからだ。
僕のアルバイトは、何というか……特殊で、クラスメイトに聞かれるわけにはいかないのだ。僕の高校生活がかかっている。
「なんだイツキか。紛らわしい。依頼かと思ったぞ」
あからさまに落胆する。砕けた雰囲気は伝わってくるものの、口調は妙に古風で角ばったままだ。これがフランのトレードマークとも言える口調である。中性的で年齢不詳の声にこの口調も相まって、実際に会わない限り年齢や性別が分からない。
もっとも実際に会ったところで、性別はともかく年齢は分からない。ちなみにフランは小柄な女の子である。
盛大な溜息の後に、ぞんざいに告げられた「切るぞ」という声が聞こえたので、ちょっとぼーっとしていた僕は慌てて叫んだ。本当に切られることを身にしみて知っているからだ。
「今日遅刻します!」
大きな目をまんまるくして、鈴原さんが僕を見た。いやいや、何でもないよ! 電話を耳に当てたまま無言で手をぱたぱた振ると、鈴原さんは不思議そう――というか不審そうに小首を傾げた。たった一文字でえらい違いだ。
さっきまでとは別種のねばついた汗が背中を伝う。
こちらのピンチを知ってか知らずか、フランによるそれ以上誤魔化す隙を与えない素早い追撃が襲いかかる。低められた鋭い声が怖い。
「理由」
「用事があります!」
「分かった。気をつけて来い」
「ありがと」
がちゃん!
多分最後の一言は聞いてないんだろうな……。
これがいつもの通話パターンだとはいえ、いい加減慣れてしまっている自分がちょっと怖い。
ふー。
なんかどっと疲れた。鈴原さんはまだこっちを凝視している。そんなに怪しかったのか。
「ごめん。行こう」
「うん」
鈴原さんと並んで歩きながら、ふいにフランが放った最後の台詞を思い出した。
――「気をつけて来い」
気をつけて『来い』?
いや、用事が終わったら、アルバイト先の事務所に「気をつけて来い」か。
でもちょっと言い回しが変じゃないか? 僕はまだ用事を済ませていないのに。そういえば、ちょっと笑いを含んでいたような。あれは悪戯とか嫌がらせとかの予兆だ。
引っかかりすぎかな……? 何だか嫌な予感がする。
考えすぎだ。溜息と一緒に疑問を頭の隅っこに追いやって、鈴原さんに声をかける。
「ねえ、どこに行くの?」
僕の首下くらいの位置にある顔が、くりんとこっちを向いた。髪と同じこげ茶色の目が、しっかりと僕を捕らえる。
「『伝言サービス』」
「へ?」
悪い方の予感はいつもよく当たる。ああ、早速含み笑いの理由が分かってしまった。でもこれは――ちょっと、洒落にならないんじゃないか?
我ながらマヌケな声だったけど、それについて何かを思う余裕は無かった。
鈴原さんの紡ぐ言葉が、僕の頭を、思考を、吐き出しかけた言葉をかき乱してぐちゃぐちゃにしてしまう。
僕は彼女を問い詰めることすら出来ないまま、ただセミの大合唱の中で立ち尽くす。足はいつの間にか止まっていた。
「藤岡くんのアルバイト先、だよね?」
そのとおりなんだけど、僕は答えられない。
「亡くなった人からの伝言を受け取って、遺された人に伝えるお仕事、でしょう」
本当に言葉が出なかった。僕は酸素不足の金魚みたいに口をぱくぱくさせて、結局何も言えずに口を閉じた。これもそのとおりだったから。
何で知ってるんだよ!
先にも言ったように、僕のアルバイト先は特殊だ。世間一般的に認められるようなものじゃない。
世間から外れている。なにしろ、鈴原さんが言ったとおり――相手は幽霊なのだ。
「藤岡くん?」
黙りこんでしまった僕を、鈴原さんが覗き込む。これほど暑いのに、彼女の顔は青白くなり、色を失った唇はふるふると震えていた。それを恥じるようにぎゅっと唇を噛み締めた鈴原さんは、真っ直ぐに僕を見つめる。ほとんど睨みつけているような、真剣な眼差し。
暑いはずなのに、体が酷く寒くて頼りなかった。目の前が白く浮き上がって見える。
――怖い。白い目が、異物を見るような目が、礫のような糾弾が、怖い。
人間は、自分とは違うものを迫害せずにはいられない。僕はそれを、物心ついたときから身をもって痛感している。
自分でも、『幽霊が見える』なんて、気持ち悪くて胡散臭くて仕方が無いのは分かっているつもりだ。
僕は鈴原さんから目を逸らす。
卑怯。卑怯だ。
すぐ隣で、僅かに息を呑む音がした。鈴原さんの表情は分からない。
――直後、クラスメイトに傷つけられ、言いふらされることを本気で覚悟した僕にかけられた言葉は、あまりにも予想外なものだった。
鈴原さんから逸らしたはずの視界に、彼女の姿が踊りこむ。僕の視線の先に鈴原さんが回りこんだのだ。獲物を見つめる狩人のような、真剣そのものの表情。
「お願いがあるんだ」
「お願い……?」
のろのろと口を動かす。
自分の声が遠く聞こえた。
「そう。お願い」
挑むような眼差しが僕を抉る。
この反応は想定していなかった。お願い、だなんて。
嘘つきって笑わないの? 気持ち悪いって言わないの? 言いふらさないの? 僕を――認めるって言うの? まるでそれが当たり前みたいに。自分たち『普通』と、何も変わらないというように。
どうして……?
「お願い……いや、事務所っぽく依頼かな。でも藤岡くんだし、依頼ってかっこよすぎかな……やっぱりお願い」
鈴原さんが真剣な顔のままで口元に手を当て、数秒間悩んでから言い直す。
――ぷっ
「ははっ」
鈴原さんがびっくりしてまた目を丸くする。あんまり大きく開きすぎて、こぼれ落ちてしまいそうだ。
事務所っぽくって何だ。しかも後半はかなり失礼だ。本人を目の前にして。
一度笑ったら止まらなかった。怯えていた自分が情けなくておかしくて、真剣な表情のままよく分からない迷言と失言を残す鈴原さんがおかしくて、笑いが止まらない。
完全な取り越し苦労だったんだ。受け入れるとかの前に、彼女は敷居さえ感じていなかったんだ。色々あって、敏感になりすぎていたのは僕のほう。ああ、こうなることを確信していた誰かさんに笑われてしまう。
「もう。何で笑ってるの?」
ぷりぷりと頬を膨らませた鈴原さんが、今度は本気で睨んでくる。慌てて笑いをおさめようとしたけれど、無駄だった。さっきまでの名残で、心臓はまだ大きく波打っている。
ひとしきり笑うと、滲んでいた涙を拭ってから謝った。
「すみませんでした」
「わ……丁寧すぎだよ! 頭下げなくていいし! ジジくさいよ!」
「いや、ちゃんと謝らなきゃ気が済まないっていうか、失礼かと思って」
ジジくさい……。
「だ、大丈夫? 顔色悪いよ、なんか若々しくないよ」
慌てた仕草でぱたぱたと手を振る鈴原さん。わざとじゃないよね……?
もはや乾いた笑いしか出てこなかった。