馬鹿みたいな奇蹟
櫻井さんを交えた三人でたわいもない話をしているうちに、カップルは帰っていた。店内には僕らしかいない。
本当に何でもない事みたいな調子で、京子さんが切り出した。
「それで、昨日の話だけど」
「はい」
僕も体を少しだけ彼女の方に向ける。櫻井さんは一礼してカウンター奥の厨房へ戻っていった。夏の昼下がりの喫茶店に、静かな声が流れる。
「まず、どこから話そうか。イツキは『正気を失った幽霊』について何にも知らないんだったよな」
僕は頷く。フランは何も教えてくれなかったし、姿を見たのも昨日が初めてだったのだ。知らなきゃならない。もう何度も繰り返した失敗を防ぐために。
「一言でまとめると字面のままなんだけどね。死んだら誰とも話せない。寂しくて悲しくて、苦しくて、いつの間にか何もわからなくなっている。自分がなんでここにいるのか。どうして誰にも触れられないのか。そうして、自分を縛り付けていた未練そのものを忘れてしまったりする。あとは逆に未練の感情だけを増幅させて、周りにぶちまけたり」
自分の顔を見ることはできなかったけれど、きっと眉根を寄せて、少し青ざめていただろう。そんなの誰だって耐えられない。そしてそれは、誰にでもそうなる可能性があるのだということ。
京子さんの表情は凪いで、口調は新聞でも読み上げるみたいに淡々としていた。
「自分が誰なのかわからなくなって、三年間ずっと道路の隅で頭を抱えていた奴もいる。誰彼構わず襲いかかっていく奴だって何人も見てきた。――なあ、イツキ。プラシーボ効果って知ってるか」
突然話題が変わったので、面食らいながらも答える。
「偽薬効果……でしたっけ。患者に医者が偽薬を処方しても、患者が薬だと信じ込むことで効果が出たりする」
「うん。だいたいそんな感じ。思い込みとか、信じることって、私らが思ってるよりずっと力があるんだよ。まあ、プラシーボ効果は疑問視する声もあるけど」
そう言って、氷の溶けかけたコーヒーを啜った。僕は話の行方が分からず、ただじっと聞いている。
京子さんが細くて長いため息をこぼした。釣られて心まで吐き出されてしまいそうだ。この人も、ずっと削られてきたんだろうか。黒曜の瞳は店の壁を通り抜けて、どこか遠い空を睨んでいる。
「幽霊に思い込みの力が作用するのかどうかはわからない。もしかしたら、こっちの世界に長く取り残されることで、ふいにチャンネルみたいなものが合っちゃったのかもしれない。そこは私にはわからないし、別に知りたくもないけど――馬鹿みたいな奇蹟が、起こるんだ」
正気を失うほど長く居たり、あんまりに苦しくて悲しくて、つらすぎたりすると、ね。
吐き捨てるような言い方だった。
馬鹿みたいな、奇蹟。京子さんは、溺れかけた人みたいに短く息を吸って続ける。
「私は死んだことないから」
当たり前だ。そんな、責めるような言い方をする必要なんて欠片もないのに。
「わからないんだよ。根本的なことは何一つ。彼らが考えてることとか。痛いのか、苦しいのか、結局どうしたいのか。私はどうすればいいのか……わからない」
自嘲が紅い唇にしつこく張り付いていた。わからない、と繰り返す声音はひどく乾いて、砂漠の砂みたいに冷え切っている。僕は何も言えなかった。京子さんはもう一度大きくため息をついて、話し出す。
「ごめん、話が逸れたね。とにかく、正気を失った彼らに奇蹟が起きる。誰にだって起きるわけじゃなくて、完全にブッ飛んでいても何ともない奴だっているし、若干理性が残っていてもなる奴はなる。ほんと、何でなんだろうな」
急に、耳を塞いで、大声で叫びだしたくなった。そんな声で紡がれる馬鹿げた奇蹟の話なんて聞きたくない。でもそんなことはできなくて、代わりに僕は少しぬるくなったアイスティーを流し込んだ。新聞紙の味。
「どんな奇蹟ですか」
そうして絞り出した声はびっくりするくらい感情がこもっていなかった。答える京子さんの声も、いっそ冷徹なくらいに静かで事務的だ。
「モノに触れられるようになるんだよ。普通の人の目には映らない体で、モノに触れて、動かせるようになる。どんなモノでも。ハンドルでも、ブレーキでも、車体ごとだって動かせる。もちろん人体だってね」
熱に浮かされたうわごとみたいな調子だった。冷たくこわばった指が、すがるように帯の扇子を掴んでいる。
僕はぼんやりと麻痺しかけた頭で、幽霊トンネルの話を思い出した。いつかテレビで見た、寂しくて幽霊の仲間を作ってしまう死人の話。
「あるいはストレートに殴りかかったっていい。生きること自体に未練があれば、のうのうと生きてる私たちが憎いだろうね」
やっと寒気が追いついてきた。
じゃあ、昨日の彼女は、京子さんに触れて傷つけることができたっていうのか。あの木の根みたいに捻くれた指で、眼球をえぐることだってできたのか。あの時伸ばした手は純粋な敵意の塊だったのだ。そして京子さんは、そんな状況下で僕をかばいながら、無事に彼女をあの世へとおくった。目眩がする。
二の腕を抱くようにして体を丸めた僕の背中に、確かな重さが伝わる。京子さんの手だ。軽く手を置いたままで話を続ける。
「だからフランは、イツキをこの件に関わらせたくなかったんだよ。私が電話口で言ったこと、覚えてるか」
僕はのろのろと体を起こして頷いた。
――『見たくなかったもの、見たら君自身が壊れてしまうようなものを見るかもしれない。……ううん。ずるい言い方をしたね。確実に、君はソレを見ることになるよ。首を掻き切りたくなるかもしれない。フランや私や茜崎を恨むかもしれない。君自身の心が砕けてしまうかもしれない。あるいは、ストレートに身体が壊れてしまうかもしれない』
初めて聞いたときは随分と抽象的な警告だと思ったけれど、全部本当に起こりうることだったのだ。いや、起こりうるなんて確率じゃないだろう。確実に起きる。馬鹿みたいな奇蹟よりずっと無慈悲な必然。
京子さんがなにか言おうと口を開いた。僕はそれより早く言葉を放つ。
「絶対引き返しません」
語尾はかすかに震えていた。それに気づかない京子さんじゃない。彼女の顔にいくつもの表情がよぎっては消えていった。
最終的に苦笑に落ち着いて、呟くように言う。
「ごめん。愚問だった」
何度も何度も決意を聞かれるのは、それだけ僕が頼りないからだろう。あるいは単に足でまといだから。現に、ひとつ新しいことを知るたびに情けなく震えている。それでも。
「もう聞かないよ」
京子さんの口調は、はっとするほど優しい。深く頭を下げた。
同時に僕は、もう本当の意味で戻れないことを自覚する。この先どんなに辛いことがあっても、毛布にくるまって震えていることはできないのだ。誰かが必死に守る嘘、優しい欺瞞の目隠し。それを僕らが暴くことになったとしても。同じ痛みをあじわうことになったとしても。より確実に、逝ってしまった人から遺された人へ、伝言を届けるために。
「……これで、全部ですか」
京子さんが首を横に振った。油が切れた人形のような、緩慢な動き。
「あと、ひとつだけ」
テーブルの下で手首をつかみ、震えを押し殺す。この期に及んで怯えていられるか。
「『殺し屋』っていう職業が、あるんだよ」