ひとりぼっちの夜
結構遅い時間になってしまったので、また明日集まることになった。集合場所はこの駅のそばにある『喫茶 ピエロ』だ。僕がお願いしたことなのに、京子さんに来てもらうのは気が引ける。それが表情に出ていたんだろう、からから笑いながら背中をどつかれた。痛い。
「櫻井の店の……美玖ちゃんだっけ。あの子が焼くケーキが美味いんだよ。食べたいだけだから気にしないで」
「え、知り合いだったんですか?」
櫻井さんというのは『喫茶 ピエロ』の若店主で、美玖さんと一緒に店を切り盛りしている。文学青年風の優しそうな顔立ちで、いかにも大人しそうなんだけど、実のところかなりの悪戯好きである。
あのお店の客は変わった人が多いなあと常々思っていたけれど、まさか京子さんまで通っていたとは。軽く驚いている僕に、京子さんがさらっととんでもないことを言った。
「櫻井とは高校の同級生なんだよ」
一瞬、この人にも高校生時代があったのかとぎょっとしてしまってから、京子さんのカミソリみたいな目とかち合って、慌てて取り繕う。よく考えたらあって当たり前だ。でも、京子さんのブレザーとスカート姿は想像できない。セーラー服はもっと難しい。何故か鈴原さんが出てきたあたりで、僕はようやくイメージを断念した。
「はあ……そうだったんですか」
というか、櫻井さんと京子さんは何歳なんだろう。二人ともどことなく浮世離れした雰囲気をもっているから、見当もつかない。
もう一度僕の背中をどついて、京子さんは帰っていった。僕もふらふらと歩き出す。
何だか無性に寂しくなって、家に帰る途中ずっと歌を口ずさんでいた。『上を向いて歩こう』。本当に上を見上げてみても、明かりで濁った空には星ひとつ見えなかったけれど、それでも僕の中の何かがほどけて消えていった。
翌日の昼前、僕は『喫茶 ピエロ』へやって来た。店先に置かれたモノクロのピエロの看板が笑っている。そこだけ真っ赤な鼻が夏の日に照らされて、ちらちらと光っていた。
からん、ころん――。
やわらかなドアベルの音とコーヒーの香りが僕を出迎える。店内はほどよく冷房がかかっていて心地いい。もう出られなくなりそうだ。
「いらっしゃいませ」
品のいい茶色の内装と、厨房の大きなオーブン。その影で店主の櫻井さんが微笑み、彼の後ろで美玖さんが軽く会釈をした。僕も会釈を返し、席に着く。カウンターの一番端は、全てを漂白してしまいそうな夏の日差しも、人の目も耳も届かない。客は他にカップルらしい高校生が二人だけだった。京子さんはまだ来ていない。待ち合わせの十五分以上も前なんだから、当然だ。
注文したアイスティーが届くころ、京子さんがやってきた。今日は粋な紺色の浴衣姿で、髪に挿した簪のガラス玉が涼しげに揺れている。南国の海みたいな透き通った青色だ。
「ありがとうございます」
「いや。待たせたみたいだね。ごめん」
「いえ、まだ時間じゃないですから」
時計を見ると、まだ約束の時間の十分ちょっと前だ。もう一度お礼を言うと、笑って頷いてくれた。上品な紅をさした唇が綺麗な三日月型を描く。
艶のある長い黒髪をうなじの辺りで束ねた、人形みたいに整った顔立ちの女性が音もなく歩いてきた。美玖さんだ。京子さんの注文を取りに来たらしい。感情らしい感情はいっぺんたりとも浮かんでいないけれど、不機嫌なわけじゃない。これが通常モードなのだ。京子さんがアイスコーヒーとキャラメルシフォンケーキを注文すると、また音もなく厨房へ戻ってしまう。入れ替わりに、櫻井さんがひょいと奥から顔を出した。
「お久しぶりですね。椿井さんはいつ以来のご来店でしたっけ」
「さあ。半年も経ってないと思うけど」
京子さんがことりと首を傾げて答える。
椿井さん、というのは京子さんの苗字らしい。初めて聞いた。随分と親しそうな、砕けた雰囲気だ。
「では、今日も『そういうお話』ですか?」
「ああ。いつも悪いな」
『そういうお話』とは、おそらく他人に聞かれたくない話という意味だろう。そういえばフランも依頼人と話すときはここを使ってたな、なんてことを思い出して、心臓の裏がぎゅっと締め上げられるような気分になる。……いや、待てよ。
「櫻井さん、何者なんですか」
恐々とする僕を眺めながら、当の本人は黒縁眼鏡の奥の瞳を優しく細めて、人差し指を唇の前に立てた。ほっそりした白い指が、まるでナイフを突きつけるような威圧感を放っている。
「すみませんごめんなさいもう聞きません」
ホールド・アップまでコンマ三秒とかからなかった。
とにかく、こちら側の人であることは間違いないらしい。その後、京子さんのケーキとコーヒーが届くまで、僕は一度も口を開けないままだった。人間、外見じゃ判断できないものだ。