シフォンケーキと膨らまないシュークリーム
一人呆然と佇む事務所は寒々しいほど広かった。どれくらいそうしていたのか、もはや痺れて感覚の無くなっている伸ばした腕をだらりと下げ、僕は頬を転がるしょっぱい何かを力なく拭う。
全身の皮膚が暑さを叫んでいる。そういえば喉も渇いていた。食事を終えたままの状態になっているテーブルからアイスティーを取り上げ、反応の鈍い口の端からこぼれ落ちるのも構わず一気に飲み干す。ぬるい。
身体からすうっと力が抜けてしまった。ソファに酷く重たくてだるい身体を落とし、前髪を掴んで頭を下げる。なんだか抜け殻にでもなった気分だった。
行ってしまった。行かせてしまった。
いつも子供っぽくて、でも時折、ぞっとするほど大人っぽかったり妖艶だったり残酷だったりする風変わりな女の子、フラン。意外に涙もろくて、好き嫌いが多くて、ときどき、本当にときどきだけど優しい。
行ってしまった。行かせてしまった。
彼女はまた、一人だ。
「戻ってくるのかな……」
呟いた自分の声は、三日三晩冷たい雨に降り込められた野良犬の子供みたいに弱々しい。答えは自分が一番良く分かっていた。
ガラス管の中の幻のように、蒼く凪いだ瞳や紗雪の肌、透き通った髪、黒い衣装を思い出す。最後に見せた涙ばかりが鮮やかだった。掴んだ前髪が抜けそうなほど強く手に力をこめると、無意識に喰いしばっていた歯がきりきりと悲鳴を上げた。他人事のようなぬるい痛みが僕を襲う。
解雇、か。
僕は立ち上がって食器を給湯室まで運び、丁寧に洗うと、水気をしっかり切って棚に戻した。のろのろとプラスティックの衝立を越える。
――いいのか?
胸の奥から響く声を、押し殺す。
「いいんだよ、これで」
突然の解雇を理不尽だとは思わない。言われたことは全て本当のことだったから。
以前に戻るだけだ。幽霊に対して何も出来ず、ただ話をして、何にもならない慰めの言葉をかけて。いつの間にか消えている彼らを一人思い出しながら、自分の無力から目を逸らし、何にもならない日々を年輪のように幾度も繰り返していく。
僕らしい、中途半端で後味の悪い終わり方だ。
「お世話になりました」
頭を深く、深く下げて、僕も事務所を後にした。
何となく家に帰る気になれなくて、真夏の強い西日の中を『喫茶 ピエロ』へと向かった。僕や、時代に取り残されたような姿をした建物たちの影が異様に長く伸びている。
ぼんやりと、ろくに前も見ずに歩いていても、店にはすぐに着いてしまった。
全てが黒白の風景の中で、看板に描かれた道化師の鼻だけが真っ赤に染まっていた。いつもはおどけた表情なのに、今日はなんだか泣いているように見えてしまう。
頭を一つ振って、飴色のドアを押した。
からん、ころん――。
「いらっしゃい」
可愛いドアベルの音、穏やかでいつも変わらない若店主の声。ふいに鼻の奥がツンとする。
いつもはほぼ絶対に座らないカウンター席に腰を下ろす。ここに来るときは、基本的に一人じゃなかったからだ。
クリームソーダを頼もうとは思えなかった。めったに開かないメニューを開き、手書きのあたたかいイラストに惹かれてホットココアを注文する。そしてすぐにアイスココアにすればよかったと後悔した。真夏にホットドリンクなんて、真冬にかき氷くらいの暴挙である。
「お待たせいたしました」
ウェイターは珍しく店主の櫻井さんだった。いつもは無口な美人の美玖さんが運んできてくれるのに。
僕の疑問を察したのか、櫻井さんが微笑んで手を厨房の方に向けた。
「美玖さんはあちらにいますよ」
目線をそちらにやると、何か大きな動物の尻尾のように一本に束ねられた艶のある黒髪が、ゆらゆらと揺れているのが見えた。大きな取っ手のついた箱はオーブンだろうか。
「サービスです」
悪戯っぽく目配せをしてくる櫻井さん。優雅な足取りで去っていく。
舌に優しい温度のココアを飲んでいると、バターと卵と砂糖の甘い香りが店内に漂いはじめた。
チンッと軽快なタイマーの音とともに、オーブンの扉が開かれる。分厚くてころりとしたシルエットの手袋をはめた美玖さんが、黒い天板を引っ張り出した。
「わぁ……」
甘い香りがふわっと強くなる。綺麗な焼き色をつけたシフォンケーキ。
美玖さんが素早くケーキを皿に移し、ゆるくホイップした生クリームと瑞々しいミントを添える。
「どうぞ」
「え……いいんですか?」
思わずケーキと美玖さんを交互に眺めてしまう。おかしそうにくすくす笑う美玖さんと櫻井さん。
「召し上がれ、樹木さん」
ケーキはワンホールそのままだった。直径は三十センチメートルくらいあるだろうか。ほわほわと美味しそうな湯気が僕の顔を包む。
「人間、何かあったら甘いものをいっぱい食べて、それから解決策を考えればいいんです」
僕を見つめる穏やかな眼差しはまったく揺るがない。
鋭い人だ。
「いただきます」
ありがとうございます、とモゴモゴ告げながら、顔を伏せて華奢な銀のフォークをケーキに刺す。
膨らみ損ねたシュークリームの皮みたいにくしゃっと歪んでいるであろう自分の顔を、見られたくなかったからだ。