ホワイトアリス(梅編)
梅編。「アリスズc」終了後の話。
エンチェルクは、ヤイクに連れられて行ってしまった。
梅の娘である桃も、彼女なりの目標を見つけたようで、あちこちへと旅へ出て行った。
この世界に来て、梅は初めて一人になった気がした。
最初は、イエンタラスー夫人の屋敷にお世話になり、恩を返しきれないほど可愛がってもらった。
そこへエンチェルクがやって来た。共に都を目指し、姉妹の菊と暮らし始めた。
娘の桃が生まれた。
桃とエンチェルクは長い髪の子供たちと旅立った。菊も旅に出たが、菊の夫が、無骨ながらに側にいてくれた。
みな、旅から無事に帰ってきた後──それぞれの目的のために、自然に散っていったのだ。
そして、梅はついに一人になった。
一人と言っても、暇な訳ではない。
学術都市の立ち上げに協力することになり、彼女は生活の場を隣の町へ移し、仕事・私生活ともに慌しくなったのだ。
長い間交流のなかったイデアメリトスの息子であるハレと、その空白を埋めるように顔を突き合わせ、多くを話し合った。
きちんとした家ではなく、学術講師の宿舎で生活を始めた。
最初に、宿舎に現れたのはジリアンという女性だった。景子の植えた、太陽の木の庭で育った娘だ。
彼女そのものが、太陽であるように快活で明るい娘だった。
次に来たのは、ホックスという青年だった。少し頼りない感じはするが、知的探究心の強い思慮深い男だった。彼は、時折コーを呼んで話をしては、煙にまかれているようだったが。
そんなホックスとジリアンは、よく言い争いをしては、その後で抱き合っていた。
あらあら。
梅は、それを見てしまう度に、くすぐったい照れを覚えながら、そっと立ち去るのだ。
そう遠くない将来、きっと彼らは結婚するのだろう。
そんな事を楽しみにしながら、梅は一日一日を積み重ねた。
学術都市は膨張を続け、講師も増え、生徒はそれよりももっと増えた。
梅が倒れたのは、その頃だった。
都市が軌道に乗って、ほっとしたせいだろう。これまでの疲労が蓄積していたようで、彼女は寝込むことになる。
だが──梅は一人ではなかった。
神殿からはトーとコーが、頻繁にやってきて癒しの歌を歌ってくれる。
リリューの妻レチが、赤子を背負いながらも甲斐甲斐しく面倒をみてくれる。
ハレが訪れて、美しい金の光を分けてくれた。
桃が、どこから手に入れたのか、朝日の木の果実を枕元に置いていった。
ハレづてで伝わってしまったのか、景子から花と手紙が届く。
菊は次郎を抱えて現れたが、ひやかして帰って行った。
エンチェルクは、最初の頃に身重の身体ですっ飛んで来たので、すぐにヤイクに連絡して屋敷へ返した。大きなおなかで無理されては、かなわなかったからだ。
日々、騒がしかった。
熱でぼうっとしながらも、彼女はそれを嬉しく思った。
子供の頃は、静かな家で一人寝ていただけだった。
道場の方から、時折父と菊の声が聞こえてくる程度で、彼女はコンコンと咳をしながら敷かれた布団の中で、沈黙の数を数えていたのだ。
それが、どうしたことだろうか。
みな騒がしく忙しく甲斐甲斐しく、梅のベッドの周りへと現れる。
幸せだと、思わないでいるのは難しいことだった。
そんな騒々しさが、ふとやんだ日があった。
その日の朝、レチが顔を出して以来、誰も来なかった。
宿舎のベッドの中で、梅は久しぶりに訪れた静寂に慣れないまま、うつらうつらしていた。
意識が浅くなる度に、誰かが来るのではないかと思うが、そんなことはなかった。
今日は、みな忙しいのだろう。
梅はそう思いながらも、久しぶりの静けさを寂しく思った。
沈黙の数を、数えかけてやめる。
そんなことをするより、深く眠ってしまう方が、自分にとっては良いことだろうと思ったのだ。
トプンと意識を手放して、梅は深く深く眠りに落ちた。
サアと、風が頬を撫でた気がして、彼女の意識は水の底から引き上げられる。
扉が開いて、誰か来たのだろうか。
水面まで出てきた意識を、完全に覚醒させないまま、梅は気配を探った。
けれど、誰かがいる気はしない。
気配が薄いのは、菊やリリューだ。
山本家の訓練を受けた者であれば、彼女はうまくそれに気づけない。
梅が寝ているので、静かに見舞ってくれているのかもしれない。
ああ。
ちゃぷんと、梅は水面から顔を出す。
目を、開けることが出来たのだ。
静かだった。
誰もいないほど、静かだった。
だが、誰もいないわけではなかった。
ベッドの側に立っているのは、大きな人。
とても背が高い。
リリューかと思った。
でも、リリューではないと分かった。
次に、夢だと思った。
夢でも嬉しいと思った。
こんな素敵な夢が見られるなら、寝込んで良かったと、不謹慎にも思ったのだ。
「梅……」
ほら、夢だ。
梅は、それを確信した。
いまこの人は、菊と同じように日本語の発音で、彼女の名を呼んだのだ。
自分の願望の全てが、夢として流れ出しているに違いないと思った。
「アルテンリュミッテリオ……」
だから、震える唇でその名を呼んだ。
こんな男になっていればいい──そう想像していた姿が、そこにはあった。
四十を過ぎてなお、彼は凛々しく精悍で。落ち着いて、領主として申し分ない貫禄である。
「会いたかったわ、アルテンリュミッテリオ」
夢なのだから、素直になろう。
同じほど重ねた年の殻を破り、少女のように微笑もう、と。
「私もだよ、梅」
低く優しい声とともに、大きな大きな手が伸ばされる。
頬に当てられるとそれはとても温かく、彼女は子犬のように頬ずりしてしまった。
こんな素敵な夢、ずっと醒めなければいい。
夢とうつつの間で、梅は幸福を噛み締めていた。
長い長い夢だった。
梅の熱が下がり、ベッドから起き上がれるようになっても、その人はそこにいたのだから。
「息子に家督を譲ってきた。こんな肩書きもない男でよければ、私と結婚してもらえないだろうか」
そして。
生まれて初めて、梅は求婚というものをされた。
不思議なことに──この夢だけは、最後まで醒めることはなかった。
『ホワイトアリス 梅編 終』