イエローアリス(菊編)
菊編。「アリスズc」で、リリューがハレたちと成人の旅に出たすぐ後くらい。
息子のリリューが、イデアメリトスの息子と旅に出てしまったせいで、武の賢者の屋敷は、いつも以上の静けさに包まれていた。
騒々しい息子ではなかったため、いなくなっても大して変わらないと思っていた山本菊は、予想以上の空間の空き具合に苦笑していた。
すっかり子離れしていたつもりだったが、やはりいなくなると寂しいものだなと、シンとした暗い廊下を見つめる。
長い間、腰に下げていた愛刀も、リリューと一緒に旅立ってしまった。
歩くときに無意識に重心の調整をしていたが、それをしなくていいというのも奇妙な感触である。
要するに、何もかもが菊に対して『寂しい』なんていう感情を押し付けようとしているのだ。
こういう時は。
「入るぞ」
菊は、ノッカーも鳴らさずに、その部屋の扉を開けた。
薄暗い部屋に、燭台はひとつ。
大きなベッドにすっ転がっていた、大きな身体がむくりと起き上がるのが見える。
「キク?」
呼びかけには、怪訝が混じっている。
彼女の夫であり、武の賢者であるダイが、そこにはいた。
お互い、仕事などで時間がメチャクチャになることも多いため、寝室は別々にある。
そんな夫の寝室に、キクは現れたのだ。
四十歳を過ぎて尚、最前線に立っても遜色のない見事な体躯は、重さを感じないほど静かにベッドから降りてくる。
そんな男に、菊はさくさくと歩を寄せる。
「ダイ……この年になって悪いが、少し甘えさせてくれ」
四十路の女に、今更甘えられても困るだろうが。
苦笑混じりに、菊は心の言葉を素直に吐き出した。
こんな姿は、息子はおろか、どんな門下生にも見せられない。見たところで気にしないのは、梅くらいだろう。
それでも、目の前のこの大きな男は、菊のただ一人の夫である。
彼女の、ただ一人の男である。
その男に全身を預けることを、どうして菊が厭うのか。
「ああ……」
彼は、何のためらいもなかった。それどころか、少し嬉しそうに口元を綻ばせる。
軽く腕を開いて、その内に妻である菊を抱きしめる。
熱を発し続ける筋肉の弾力に包まれ、ふぅと彼女は深い息をついた。
息子の不在の寂しさを、夫で埋める日が来るとは、正直思ってもみなかった。
女とは、弱い生き物なのだな。
太い腕に抱かれ、ふふと菊は笑った。
「キク……」
久しぶりのゆっくりした抱擁の中、彼に名前を呼ばれる。
日本人と同じ呼び方は出来ないが、それでもダイの呼び声は格別だ。
道場の先生と呼ばれる立場でもなく、ただの女として彼女を呼んでくれる。
こんな呼び方をするのは、彼を除けばトーくらいだろう。
おっと。
そんなことを考えた菊は、すぐさま白い髪の男を脳内から消した。
夫の腕の中で、他の男のことをちらりとも考えるべきではなかったからだ。
菊は、ぎゅうっと目の前の身体を抱き返した。
「ダイ……汗臭いぞ。いや、お前の匂いか。ふっ、いい匂いだ」
鼻先を押し付け、中暑季地帯の宿命である汗の香りを嗅ぐ。賢者になって尚、鍛錬を欠かさない男の匂いだ。
その匂いを嗅いでいると、じわりと己の身の内に火が燻り始めるのを感じる。
「ダイ、まだ私を抱けるか?」
そんな熱がおかしくて、菊は笑いながらそう聞いてしまった。
一瞬、彼女を包む両腕が固まったのが分かる。
その腕が、ゆるやかに緊張を解き、そして前よりも強く抱いてくれた。
「キク……そういうのは聞かなくていい」
「おっと」
夫にかかれば、彼女の身体などオモチャのようなものだ。
足が浮いたかと思うと、軽々とベッドに押し付けられている。
リリューの父としてではなく、一人の男の瞳がすぐ側にあった。
「すまんな。未だに私は、ダイをどう誘ったらいいのか、よく分からないんだ」
浅黒い頬を撫で、菊は微笑んだ。
ダイも、その瞳を細めながら、額と額を押し当ててくれた。
燭台一本の灯りの中、ダイは彼女を力強く抱く。
そんな夜を、菊は三夜過ごした。
そのおかげで、彼女はすっかり寂しい病を完治させ、再び晴れやかになったのだった。
「ちょっと、旅に出る」
晴れやかついでに、菊は夫にそう言った。彼は、止めも反対もせず、「気をつけて」と言ってくれた。
つくづく、ダイという男に、自分が甘えていると思い知る瞬間だった。
「ああ、行ってくる」
そうして、彼女は幸せな気分で、夫を置き去りにしたのだ。
ダイという男に甘えた夜の結末が、己の腹の中に潜んでいることも知らずに──
『イエローアリス 菊編 終』