グリーンアリス(景子編)
景子編 テルとハレが12~3歳くらいの頃の話です。
二人の子供が大きくなってくると、景子の母親としての役割は、すっかりなくなってしまったような気がする。
小さい頃は、二人の息子を連れて、夜にアディマの部屋へ行くのが日課になっていたが、もはやその必要はなくなった。
テルもハレも健やかに成長し──見た目は10歳くらいのままだが──勝手に互いの部屋を行き来するようになったのだ。
兄弟であるという実感を、二人が誰よりも持ってくれたことは、景子にとってほっと胸をなでおろす部分だった。
太陽妃なる者に、本来仕事はない。
跡継ぎ候補は立派に二人いるし、遊興や社交に興じることに、景子は幸せを見出してはいなかった。
その結果が、農林府の特別顧問という肩書きである。
肩書きが邪魔になる時は、ただの『ケイコ』として、お忍びで畑にもぐりこんだりする。
それもこれも、夫であるアディマの協力のおかげだ。そして、農林府にいる、静かなる彼女の味方のお陰でもある。
あの当時、室長だった男は、多少の制度改革のおかげで府内の風通しがよくなり、順調に出世をしていった。
いまでは、農林府の副府長である。
兄の家はとっくに出て、小さいながらに自らの屋敷を立て、結婚をし一男一女に恵まれた。景子は、それらの祝い事にはみな、『ケイコ』の名前で祝いの品を届けていた。
そんな袖の下ごときで動かされる男ではないが、彼女が畑にもぐりこんだり、農林府で相談を受けたりする時には、細やかに気を配ってくれる。
護衛なしで行くことは、立場上どうしても無理で。彼女が動くことは、他の多くの人に迷惑をかけることでもある。
だからこそ、景子は農林府で意義のある仕事に打ち込むことにしたのだ。
結果的に、それがアディマの為になるのであれば、護衛の人たちが働いた甲斐もあるというものである。
息子二人に過干渉せず、景子は空いた時間を自分の出来る仕事に向けた。
宮殿の外に出られない日であったとしても、景子には楽しみがある。
宮殿の裏手に、彼女のために土地をもらっていたのだ。
そこに小さな森を作るべく植物を植えたり、温室を作ったりした。
誰もが王宮の裏庭であると、一瞬分からなくなるほど、そこは瑞々しい植物の園になったのだ。
ある日、景子はその庭の植物の異変に気づいた。
だから夜、久しぶりにアディマの部屋を訪ねたのだ。
「アディマ、少しいい?」
景子が彼の部屋を訪ねるのを、止める人間はいない。彼女は、この国でただ一人の、太陽の妻なのだから。
「ああ、やっと来たね。ケイコ、待っていたよ」
成人したあの日と、余り変わらない若々しい男が、そこにはいた。
髪を伸ばし続ける彼女の夫は、人と同じように年齢を重ねることはない。そんな彼を、景子はいつもその光とともに眩しく思っていた。
「やっぱり、アディマの仕業だったのね。私の木を、回復させてくれたのは」
その若々しい男に、彼女は当たり前のように軽く抱きしめられる。
日々、普通の人と同じように老いていく景子にとって、それは気恥ずかしいものだった。
まるで、随分年下の男をたぶらかしているような、背徳感があるのだ。日本語で言うところの『ツバメ』という言葉が、いつも頭を掠めてやまない。
「ケイコが、あの手この手で助けようとしているのが分かっていたから、手は出すまいと思っていたのだけれどね……ただ、あと少し生気があれば、大丈夫のようだったから」
頭の上で、優しい声がする。
こうして顔を見合わせなければ、景子の心の中ではそう年の違わない、普通の夫婦であるようにも思える。元々、年は随分違っていたのだが、そこは考えないようにしている。
「ありがとう、アディマ。ハレにもそう言われていたのだけれど、ふんぎりがつかなかったの」
長男のことを、景子は思い出していた。
イデアメリトスの力と、命の光を見る瞳。
その両方を持つ息子は、明らかに景子よりも物事の理解力が高く、判断力もあった。
そんな息子の提言を、普通よりゆっくりしている景子は、ふんぎりをつけきれずにいたのだ。
「ふっ……あはは」
彼女の猫っ毛の髪を撫で、アディマはおかしそうに笑った。
何かおかしいことを言っただろうかと、景子は首を傾げる。
「そう、ハレが密告してきたんだよ、私のところへ。『僕が勝手にやると、母上の植物園に入れてもらえなくなるかもしれません。父上なら大丈夫だと思いますので、お願いします』ってね」
その時のことでも、思い出したのだろう。アディマは非常に愉快そうだった。
「えっ……ハ、ハレったら」
笑い声の振動が伝わる中、景子は真っ赤になっていた。
息子に心配されたことと、妙な気の回し方をされたこと、それをアディマに笑われてしまったことの、どれもこれも恥ずかしかったのだ。
「アディマじゃなくて、せめてテルに言えばいいのに……もう」
もう一人の息子は、植物園に余り近づかない。嫌悪しているのではなく、興味そのものが薄いのだ。
テルならば、たとえ植物園に出入り禁止にされたとしても、痛くもかゆくもないだろう。
すると、アディマがまた笑う。
「『テルは大雑把すぎるので、任せるには不安があります。植物がかわいそうなので、父上にお願いしたいです』だそうだ」
景子の浅知恵など、既にハレにさえ却下されていた。
「ああもう……恥ずかしい」
抱きしめられたまま、景子は身悶えしてしまった。
そんな彼女の姿は、更にアディマを上機嫌にさせたのか、たまらないように背中を撫でさすられる。
「ハレもテルも、素晴らしい息子に育っている。ケイコのおかげだよ」
背中の指が、次第にトントンと優しい動きに変わる。景子は、自分が小さい子にでもなったかのように感じた。
「ありがとう……アディマが許してくれたおかげよ。あの子たちは、競い合う立場ではあるけれども、お互いを尊敬し合ってもいるわ。私は、それが嬉しいの」
景子がいま、好きなことが出来るのも、息子二人に不安がないからだ。家族が安寧の中にあるからである。
それは、簡単なようで意外と難しいことで。皆が、それぞれお互いのことを心の中に置いていなければ、出来上がらないものだった。
「おかげで、イデアメリトスである前に、私たちは家族だ。ケイコという糊でくっついているのだから、無茶はしないでおくれよ」
額に、口づけられる。
ああ。
景子は、いまだそういうことには慣れず、小娘のように赤くなるしか出来ない。夫であり、何度も肌を重ねた相手であるというのに。
だからこそ、一人だけ老いていく自分の姿を見られるのは、女として恥ずかしかった。
「今夜は、ここに泊まっていくといい」
「……」
赤くなった耳元で囁かれる言葉に、抵抗したくなる。
なのに。
「『はい』って言わないなら、ケイコの眼鏡を人質に取らなければいけなくなるね」
致命的なものを引き合いに出され、彼女は覚悟を決めなければならなかった。
嬉しいことに、アディマがそれほどまでに、彼女に側にいて欲しいと願っているのだから。
多少の自分の恥ずかしさなど、暗闇で目をつぶっていればいいではないか──夫婦歴、二桁をとっくに越えた妻の思考ではなかった。
「は……い……」
じたばたと身をよじりたくなる羞恥に包まれながら、景子は乾いた喉から言葉を追い出した。
「知っているかい? ケイコ」
後頭部に、優しい手が宛てられる。
「ケイコにとってなくてはならないその眼鏡に……長らく嫉妬し続けているのだよ、私は」
生まれて初めて聞いたその告白は──景子を更に身もだえさせたのだった。
『グリーンアリス 景子編 終』