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マウスとトマトと皇帝カメレオン

作者: 真川塁

「ねぇねぇ、ヨシキ君」


 満面の笑顔でにじり寄ってくる初。

 顔が近い。

 結構どきどきする。


「……何?」


 しかし、そんなことを表情に出すほど、思春期全開の僕ではない。

 現在高校二年生。

 僕はもう青春期に入ったと言っていい。

 ……なんだ、青春期って。


 そんなことより、目の前の女の子に注目しよう。


 彼女――金住初かなずみうい


 僕の級友にして、僕の座る窓際後ろから二番目という好立地の唯一の死角、僕の真後ろの席でもあるこの少女。

 彼女がこの後、何をするのか。その部分に焦点をあて、胸を躍らせ、活目して待とうではないか。


「みてみて」


 そんな僕の期待を知ってか知らずか、早くも使用するブツを取り出す彼女。

 今日の秘密道具は……国語辞典。否、広辞苑である。

 秘密道具などと揶揄したが、要は話のタネで、彼女のネタだ。


 広辞苑。その分厚さかくやこの辺りで有名な中華料理屋「壇重楼」の特性豚角煮に匹敵する肥厚である。なんともビックリである。まぁ解らない人はどんな街にもある「ジモトーーク」だと思ってくれればいい。

 ちなみに店主は大の歌舞伎好きである。……これは蛇足だった。 


 僕の視界内の現状についての話に戻そう。

 少女――初はそれを机にどかっと載せて、おもむろにページをめくり始める。


「え~と、さ、た、な、は……ひ、ふ、ふい、ふえ、ふお」


 なんだかくしゃみを我慢しながら熱いモノでも頬張っているかのような擬音で表現したが、正解は「辞書の見出し語を検索している音」である。

 音というか声なのだが、どう考えても人間が意図的に発する言葉ではない。

 唯一理解出来るのは探している単語が「ふ」で始まること。


「あ、あったあった。これみて」


 お目当ての単語を見つけたのか、そういって辞書を180度回転させ、更には指で特定の一か所を示してくる。

 そこに記されていたのは、なんてことはない。

 わざわざ広辞苑を牽くまでもなく、小学生向けの国語辞典にでも載っていそうな日常会話の中でも使い勝手が良さそうな言葉だった。

 これが何を意味するのか、どういう意図なのかさっぱりだったので、とりあえず声に出して読んでみる。


「【不可能】可能でないこと。できないこと。例 実現が不可能な計画」


 うむうむ、と弟子の修行の成果が自分の予想通りだった師匠のように深々と頷く初。

 頷く初。

 ……頷くだけだった。


「……で、これがどうしたの?」


 結局、発声したところで何がしたいのか全く伝わってこなかったし、具体的な説明をしてくれるわけでもなさそうなので、率直に聞いてみた。どうも僕はこういった連想ゲームや焦らされるのは得意ではないようだ。

 などと、自身の感受性や想像力の枯渇を憂いているといきなり彼女は、今まで指を置いていたそのページを引っ張り、


「どぉーん!」


 破った。

 何の前触れも、隙間ほどの躊躇いも、秩序ある踏み止まりもありはせず、切れ目とか破れ目とか破け方とかそういった一切合財関係なしでお構いなしに、ただただ単純に力任せに強引に、辞書の1ページを破った。

 気でも触れたのか、とは思わない。

 彼女なりの考えがあったのだろう。ただ、その考えの方向は、多分、恐らく、メイビーに残念な方向だけど。

 そんな憐憫を含ませた視線を注ぐが、彼女は気にすることもなく、そこそこに女性らしく育った胸を張り、堂々と宣言した。


「これで吾輩の辞書に不可能という文字はないんだよ!」


 ………………

 …………

 ……

 あー。

 まぁ、なんというか。


 こういう少女なのである。


 人間が炭素だのニッケルだの子供の小遣い程度で買えるもので構成されているという某マンガ風に言うならば、彼女は駄洒落やギャグと言ったお茶の間のテレビで見れるようなもので構成されている。

 なので、突発的にこういったくだらな――もとい愉快な発想に基づいて不快な――もとい楽しいことをしてくれる。

 さて。では、これからそんなちょっと困ったさんになってしまった時の彼女の対処法をお教えしよう。


 突っ込め。


 無理に笑ったり、無駄に同意したりする必要はない。

 兎に角、ツッコミをかませ。

 どんなのでもいい。

「なんでやねん」というこてこてのテンプレから「やたら背の低い3時間睡眠の皇帝か!」みたいなやけに耳障りなウンチクでもいい。

 下手に笑うと、彼女は止まらなくなる。

 下手に同意すると、後々困ったことになる。

 だから、下手に付き合うよりズバッと手を挙げろ。手首を使え。スナップを利かせろ。

 などと上から目線で宣ったが、当の僕はこの説明の間だけで好んで三回も繰り返し使うくらいにツッコミが「下手」だ。

 なので、とりあえず飾ることなく、ありのままを呟く。


「他にも100単語くらい失ったけどな」


 自分で言っておいてなんだが、なんとまぁ面白味のない台詞だろう。

 だが、変に取り繕って上手い感じに纏めるより、無難に現実を突きつけるくらいがちょうどいい。

 身の丈に合わせたツッコミって大事だよね。

 うん。


「吾輩の辞書に不可能という文字はないんだよ!」


 二回目。

 リピートアフターミー、という訳でもないだろう。

 先程よりも少し語気が強い。

 僕の突っ込みが気に入らなかったのか、大事なことだから繰り返したのか。

 ……前者なのは間違いないな。

 はぁ。


「ついでに常識とか思慮とかって言葉も載ってなさそうだけどね」


 もう一度、言葉を変えてみる。


「まず手始めにその辞書は図書館のモノであって、初のじゃない」とどちらにしようか迷ったが、どうにもムカついてきたので、言葉の刃に少しばかり毒を塗ってある方を採用した。

 最近の若者はキレやすいという、そんな流行にのってみた。


 しかし初のメンタルは皮肉を受け付けないらしく、ニヤケ顔でえへへー、と笑うだけ。彼女が気に入った物事や出来事があるとこの笑い方をする。

 どうやらお気に召したらしい。

 こうなると続けざまにボケてくるので注意が必要だ。


「吾輩の辞書に不可能はないのだよ、ヨシキ君!」


「そんな『簡単なことだよ、ワトソン君』みたいに言われても……」


 とてもじゃないが名探偵には見えない。迷走はしてるっぽいけど。


「吾輩の辞書はふがしなのだよ!」


「単語数よりカロリーの方が高そうだ。太るなよ」


「ふ、太らないよ!」と初。

 その辺りはやはり乙女として気になるのだろうか。

 しかし、そんな女性の敏感になる話題で急所を突いても怯むことなく、初は果敢に攻めて――ボケてくる。


「吾輩の辞書は不可視なのだよ!」


「それはもう辞書としての意義を見失ってるよ」


 ナポレオンよりもカメレオン辺りが言いそうな発言だ。


「吾輩の辞書は不可思議なのだよ!」


「っていうか、もう初が不可思議だよ」


「吾輩の辞書は不思議なのだよ!」


「発言が不思議ちゃんだよ」


「むー」 


 流石に連続での攻撃は耐え難かったのか、頬を膨らませる初。

 そういう姿が絵になるのが羨ましい。別に可愛く剝れたいわけじゃないが。


「吾輩は不機嫌なのだよ!」


「お前はどこをどうみてもゴキゲンなヤツでしかないよ……それに辞書は何処にいった」


 そんな僕の返答に「そうだった」と神妙な顔で素直に反省する初。

 この辺りの素直さは彼女の美徳である。しかし彼女の不徳はまだ続く。


「吾輩は辞書である」


「名前はまだない、ってか?」


 原点にかえるのはいいが、もはや意味がわからない。


「名前はまだうい」


「まだってことは今後変える予定でもあるのかよ……」


「ないけど、変えるかも。だって常に初々しくいたいからっ!ういだけに」


 と、お世辞にも百点満点とは云えないオチでなんとか着地。

 言った本人は「キマった」とサッカー日本代表のゴールキーパー並みのドヤ顔である。

 ……確かに危ないクスリとかでキマってる可能性は否めない。

 が、

 しかし、まぁ。

 こうしてオチもついたわけだし。


「……満足か?」


「うん!」


 実に愛らしい。屈託のない満面の笑顔である。

 紆余曲折あったがこんな笑顔が見れたのだ。よしとしよう。

 さてさて。

 それでは、


「気分転換も済んだことだし、試験勉強に戻るとするか」

 その一言で彼女の笑顔は儚くも崩れ去った。




 勿論、こんな馬鹿みたいな掛け合いを授業時間にやる勇気は元より人の多い休み時間に行う度胸も僕にはない。

 時刻は午後四時半。

 放課後である。


 通常、お笑いというのは多くの知識と豊かな感性が求められる極めて修得するのが難しい――極めるのが難しい芸である。

 そして、先程の掛け合いからわかるとおり、彼女はそれらが欠けている。いや、感性に関しては完全に0とは云えないが、問題は知識である。


 知識が、足りない。


 要約すると、彼女はバカなのである。

 そして、彼女はその「バカ」というある種の才能をこと学業において、いかんなく発揮したのである。

 要約すると、試験結果が赤点だらけなのである。

 壊滅的である。

 壊滅的に破滅的で、まるで13日の金曜日と仏滅が一緒にやってきたかのような悲惨さであり――まさしく全滅である。


 勿論、追試もあるのだがそれ以上に彼女を、居残り勉強というカタチに焚きつけたのは「伝説になってしまった」という、おおよそ救国の勇者レベルの悩みだった。

 主要科目だけでなく、全科目の試験で赤点をとったのは昨年創立25周年を迎えたこの学校において史上二人目らしい。

 噂によると一人目は、アノ鬼の志島種しじまぐさ教頭でもその名を口にするのは憚られる、そんな都市伝説のような人物であるらしい。そんな第一人者の存在も気になるところだが、その話は置いておこう。


 既にこの学園で数々の(マイナス方面の)偉業を達成してきた金住初も、そんな伝説クラスの記録には流石に危機感を覚えたようで、僕に勉強を教えてくれと泣きついてきたわけだ。


 というか、そうでなくても追試に落ちれば留年なワケだから、その辺りに危機感を抱いてほしかった。

 学力は僕自身、高くもなく低くもない中途半端なものなのだが、「伝説級のおバカさん」用に制作された試験くらいならなんとかなるだろう。それならば勉学指南もやぶさかではない――という訳で、今現在に至るわけである。



 先程の茶番劇は勉強を見るように頼んでおきながらやっぱり勉強はしたくないという彼女の茶目っけである。

 自身の留年が懸っているなか、ああやってふざけることが出来るとは、ある意味豪胆である。

 尊敬の念を抱かずにはいられないこともなくはない。


 明日のテストに合わせて、今は英語の勉強中。

 普通なら文法や動詞の活用形なんかを教えるべきなのだろうけど、そもそもの単語をこの目の前の女子 高校生は覚えていないので、まずは単語を覚えるところから始めてる。

 追試が明日なこととか高校生で単語がわからないとか色々終わってはいるけれど。

 それでも、一から始めている。


 本人も一応のやる気はあるらしく、鈍重な手つきではあるが教科書をめくりながらペンを走らせる。

走らせるという感じではなく、牛の歩みのようではあるけれど。それでも今までのことを考えれば大きな進歩である。

 これまではペンを持つと無意識に絵を書いてしまっていたらしい。「テスト勉強放置で部屋の掃除」「活字を見ると眠くなる」と合わせて<金住初の三大欠陥>と僕は勝手に呼んでいる。

 そんな中二的思考の高校二年生な僕である。


「ヨシキ君、この単語わかんない」


 ペンを持ち、考えるようになったのはいいが、どうにも調べるという行為は苦手らしく、わからないものがある度に僕に聞いてくるのはいかがなものだろう。


「辞書をひけ。そうしないと身に付かないぞ」


 そう思い注意してみたのだが、


「ねぇねぇ、ナポレオンの辞書には不可能って言葉が載ってないとして。ヨシキ君の辞書にはどんな言葉が載ってないの?」


「俺が言ったのは単語の意味を辞書で調べろって意味で、さっきの辞書のくだりをひっぱれって意味じゃない」


 裏目に出た。

 まだ勉強を再開してから20分も経っていないのに、またしても雑談に突入しそうだ。なんとか軌道修正を試みる。


「少しは集中しろよ。テストは明日だってのに、ロクに勉強してないんだぜ?」


「ヨシキ君だって、私が勉強してるの見てるだけじゃつまらないでしょ?」


「まぁ…それはそうだが」


 ここで「いや、僕はお前が勉強している姿を見ているととても楽しい」とか言ったら、それはそれで語弊がある。色々と誤解を招く。


「だったら、お話ししながらでもいいじゃん」


「暗記科目勉強しながら雑談なんて出来ないんだよ、普通」


 詰め込むべき場所に余計で余分な別の情報が入る。英語の授業にナポレオンの格言は必要ない。


「私はふつーじゃないんだよ!」


 鼻息荒く宣言する初。


「確かに。普通の点数が取れてれば追試なんて受けないもんな」


 つまり普通以下。


「そうだよ! ふつーじゃない私は追試なんて受けないんだよ!」


 あ、さりげないどころかダイレクトアタックで貶してるのに全く気づいてないや、この娘。しかも会話が噛み合ってない。


「追試を受けないとなると、来年は後輩だな」


 そんな軽口に首をかしげる初。


「誰が?」


「おまえが」


 初を指差す僕。


「誰の?」


「僕の」


 僕は自身を指し示す。

 ……なんか幼い子と会話してるみたいだ。


「私が……ヨシキ君の…後輩?」


 人さし指を顎に添えて、考える。

 ここまで、懇切丁寧に説明すれば、彼女も自分がどういう立場で、何を言われているのか理解するだろう。

 そうすれば、今度こそしっかり勉強に集中してくれることだろう……などと、考えた僕が甘かった。


「えへへー」


 照れられた。

 いや、いまの会話の中に照れるべき部分はなかったハズだ。

 ……花も恥じらう女子高生とは、こういうのを言うのだろうか。

 いや、違うだろ。

 そんな風に僕が自分自身にツッコミをしていた間にも、初の妄想は続いていたようで


「じゃあ、これからはキリョウ先輩って呼ばなきゃだねー」


 なんて、言ってきて。

 その軽口に僕は本気で顔をしかめる。


「やめてくれ」


 そこで不意に、初の質問とその問いかけに対する答えが脳裏に浮かんでしまった。

 ――ヨシキくんの辞書にはどんな言葉が載ってないの?

 そんな他愛ない雑談の一遍に反応してしまって、


「載ってる載ってないは別として、とにかく『器量』に纏わる全ての単語を削除して欲しい」


 ついでに、うっかり口にしてしまった。

 普段は会話の流れに疎い初もこういう人の拾ってほしくない台詞は目聡く拾い、


「あは。だと思った。そうすれば名前言っただけで笑われることもないもんね~」


 などと見透かしたように言ってくる。

 ……これがもし小説だったなら絶好の自己紹介日和だな。


 ヤァ、コンニチハ。

 僕の名前は喜良良喜きりょうよしき


 自らの名前の中に「器量良し」という単語が含まれるものの、鼻も高くなければ睫毛も長くない平平凡凡な特徴のない顔を持つ、『名は体を表す』ということわざに真正面から勝負を挑んでいるような男子学生だ。


 まったく我が親ながらネーミングセンスに脱帽だ。母が某ビジュアル系バンドのドラムのファンだったらしく、それが由来になるのだが、だったら漢字も同じにして欲しかった。

 また止めなかった父も父だ。子供が後にどういう謗りを受けるか予想は付きそうなものだが「面白い」と快諾。

 この両親にしてこの名前有り、である。

 こんな名前だから、いままで何度も注目と嘲笑を浴びてきたし、中傷を受けたこともあったが、まぁその場合は僕の心は傷つくが、云ったヤツは体のあちこちが傷つくことになった。だからストレスが体内に溜まることはなかったけど、だからいいってもんじゃない。

 出来ることならいますぐにでも結婚して、相手の家に婿養子として引き取られたい。

 もしくは両親が離婚して母方に引き取られたい。


「ヨシキくんってアダ名多いよねー、なんで?」


 と、初。


 名前に関する話柄は避けたいところだがこうして一旦出てきてしまった以上、一段落するまでは話題転換は難しい。

 適当なところで目途をつけて切り替えるまで出来るだけ当たり障りのない返答を心がけるようにしよう、と固く心に誓いトークを進める。


「まぁ、名前のインパクト大きいからな。つけやすいんだろ」


「どんなのがあるの?」


「ヨシキ、よっさん、よっきー、よしやん、キリョウ、キリョーとか。変わり種でトマトってやつもいたな」

「なんでトマト?」


「上から読んでも下から読んでも同じだから」


「それでトマトかぁ……あははっ、じゃあわたしもトマトって呼ぼうかなー」


「辞めてくれ。そんな呼び方をするヤツは一人で十分だ」


 そんな僕の言葉に初はどことなく面白くなさそうな顔をする。

 むっとした表情。


「そのトマトって呼ぶひとは……女の人?」


「ん? ああ」


 さっきよりワンランクト-ンダウンした声音を疑問に思いつつも、適当に相槌を打つ。

 どことなく機嫌が悪い。

 はて?

 気に障るようなことをした覚えはないのだが。


「むぅ……だったら提案。私も新しいアダ名考える!」


 挙手するように腕を伸ばす。その有無を言わさぬ堂々たる雰囲気は、もはや提案というより宣言だ。

 ……どうしたんだ、いきなり?


「ん~と、アダ名アダ名」


 などと、もう製作過程に入っていた。


「ばんか、あかちゃん」


「おい。僕はこれ以上アダ名はいらな……」


「ケッチャプ、リコピン」


「少しは話を……」


「アスパラ、ブロッコリー、レタス、ホウレンソウ」


「どうして全部トマトからの派生なんだ!」


 文句を辞しての心からのツッコミである。

 最後に至っては『野菜』って括りだし。何気に緑黄色野菜中心。


「見た目が血、カゴメのが一番上手い、コカコーラのアレは失敗」


「それはお前の感想だろ!内容的にはトマトそのものじゃなくて、トマトジュースについて語ってるし!そして最後の一言は色々と余計だよ!」


 なんでトマトに関してはそんなに見聞が広いんだよ。無駄知識ばかり持ってんじゃねぇよ。


「イケメン、アイドル、ジャ○ーズ、キム○ク」


「『器量良し』から広げるのも辞めろ!」


 しかもそっちの知識は貧困だな!

 安直過ぎる。

 そう言ってやると、ブーメランが返ってきた。


「『キリョウヨシ』に興味ないから」


「なぜわざわざカナ表記に直した!?」


 僕については『キ』一文字分しか興味ないってことか……そーかそーか。よし、その喧嘩買ってやる。


 ……いや、落ち着け僕。

 自分の名前でふざけられて熱くなってしまった。前半まったく使わなかったエクスクラメーションマークを大量導入してるし。


「はぁ……頼むから普通のアダ名にしてくれ」


 もう「つける・つけない」で悩むのは辞めよう。どうせ、何を言ったところで退かないだろうし。だったら、さっさと考えてもらって出来るだけ勉強時間を多くとろう。

 ……アレ?僕、コイツのために勉強みてやってるんだよな?

 なのに、なんでこんなに譲歩してるんだろう?


 しかし、そんな僕が心に抱いたような類の疑問を、初は心の一片にも引っ掛かっていないご様子で、ノリノリになって僕のニックネームを考えている。


「ん~。じゃあ、よしよし」


「赤子をあやしてるみたいでイヤだ。パス」


「きりきり」


「パス」


「よっきぃー」


「幼稚園時代のアダ名」


「きりよし」


「次」


「キリ良し」


「よくねぇ」


「オチ良し」


「オチてねぇ」


 そこでアイディアが尽きたのか、ノートの端に僕の名前を書き始める。

『喜良良喜』

そして、手で真ん中の文字を隠す。

『喜●●喜』


「キキ」


「宅配便でもやってそうだな……悪くないが女の子っぽいな。他にないのか?」


 う~ん、とまたひとつ唸って今度は両端の文字を隠す。


「●良良●」


「リョウリョウ」


「それはパンダにでもつけてやってくれ」


 ニックネームというほど、略せてもいないし。


「じゃあ、リョウ」


 おざなりに彼女が口にした言葉。それがなかなかどうして、妙に心に響いた。


「リョウか……それは呼ばれたことがないな」


 意外に普通だし。僕の名前を知らない人が聞いたら「そういう名前なんだ」と思わず勘違いしてくれそうだ。


「いいな、リョウ」


 うん。悪くない。


「ほんとっ!?じゃあ、いまから初はヨシキくんのことリョウくんって呼ぶね!」


「おう」


 さて。

 これにて、一件落着。長かった雑談パートもこれで終了。ここからは至極真面目な寡黙勉学モードに突入……


「ねぇねぇ、アダ名つけたんだから、初にもアダ名つけてよ!」


 出来なかった。


「……はい?」


「だって、初だけアダ名で呼ぶのは不公平じゃない?だから、初にも良いアダ名つけてよ」


「不公平ってお前。お前が勝手につけたいって言って勝手につけただけじゃないか」


「つけてつけてつけてつけて、つぅーけぇーてぇーっ!」


 大きな子供がそこにはいた。


「………………」


 もうどうにでもしてくれ。


「……わかったよ」


 渋々、頷く。


「ほんとっ!?」


 やったぁ~、と諸手を挙げて喜色を浮かべる。

 どうにも僕は押しに弱くていけない。NOと言える日本人になれるようにこれからは努力しよう。


 にしてもアダ名かぁ。つけられるのは慣れているが、人につけるのはこれが初めてかもしれない。

 少しばかり楽しい気分になりながら頭の中でいくつか候補を考える。


「え~とじゃあ――」


「ちなみに、わたしのアダ名はういちゃん、うっちー、うっちゃん、かなちゃん、ハツ、ちゃん、とかあるよ。今言ったのはなしだからねー」


 脳内ストックが一瞬にして底をついた。

 どうしろっていうんだ!

 一つも提案することなく万策尽きた僕は、遺憾ではあるが彼女の真似をしてノートに名前を書いてみる。

『金住初』

 かなずみ……かな……すみ……うい……はつ……かねすみ……ずみ……

 ん?

 そこで僕は閃いた。


「はつかでどうだ?」


「はつか?」


 なんで?というように小首をかしげる初。

 理由を説明してやる。


「金はカナとも読めるよな? で、初はハツとも読める。んで、名前と名字を反転してやると……」

 カナズミ・ウイ

 カネズミ・ハツ

 ハツ・カネズミ

 ハツカネズミ


「ハツカネズミになる。で、ハツカネズミから、はつか」


 勿論、これはちょっとした皮肉も交じってる。

 ネズミなんて世界一有名な浦安辺りにいるヤツと、年中猫と追いかけっこしている、果汁で味付けされたゲル状の食べ物と沢田研二の愛称を足して二で割ったような名前のヤツくらいしか良い例は思い浮かばない。

 ネズミに関連づけられてもうれしくないだろう。

 しかし、このブラックに近いジョークも彼女の心を蝕むことは出来なかった。


「はつか……はつかかぁ……えへへ」


 笑った。

 気に入ったご様子だった。

 まさか気に入られるとか思わなかった。

 なんてことを、そのまま口にしたら、


「なんで?可愛いよ、『ハツカ』。それにリョウが一生懸命考えてつけてくれたんだから、嬉しくないハズないよ!」


 力説されてしまった。


「おぅ……そうか。」


 ヤベェ。

 初――はつかが可愛く見えてきた。

 なんだか気恥ずかしくてまともに目を合わせられない。


「はつか……えへへ~チューチュー♪」


 などと、拳をつくって頭にくっつける。ネズミの真似だろうか。

 ネコミミならぬネズミミだな。

 見てるコッチが恥ずかしくなってくる。


「あのな、そんなことをして許されるのは中学せ――」「チュー」


 そう言って。

 机から身を乗り出すようにして、僕に近づいてきた初は僕の頬に唇を宛がう。

 そして顔が離れる。

 はつかはこれまた「えへへ」と笑う。


「可愛いアダ名、つけてくれたお礼だよ」


 はにかみながらそう言って、席を立つ。

 はつかの顔は窓の外の夕日に照らされて赤くなっている。

 そそくさと荷物をまとめ、教室を出ていく。


「じゃあまた明日ね……リョウくん」


 そういって教室の引き戸を閉める。

 ……え~と。

 どういうことだろうか。

 これは……

 キス?

 キス、だよな?

 キス。

 反芻し自覚した瞬間、顔面が爆ぜたように感じた。

 ――な。


「ななななななななな」


 呂律が回らない。誰もいない教室で一人同じ言葉を狂ったように連発する。

 落ち着け、僕。

 たかがキスじゃないか。しかもマウストゥマウスじゃない、軽く頬にちょこんとつけるようなライト・キスだ。

 欧米ではよく見かけるただの愛情表現――愛情表現だとぉーっ!?

 いや、振り回されるな僕。

 冷静になろうとして、逆にドツボにハマっている。

 自ら死地に赴くような蛮行だ。

 ビークールビークール。


Q:スヌーピーのモデルになった犬は?

A:ビーグル。


Q:上村愛子は何の選手?

A:モーグル


 ……よし、冷めた。

 というか、凍えた。

 さっきまでの心臓の爆音が嘘みたいに静まりかえっている。

 はつかのギャグセンスを散々に貶してきたけれど、僕も人のことを言える立場じゃなかったようだ。

 そして冷静に振り返る。


 これは、好きってことなのだろうか。

 いや、でもはっきりお礼だって言ってたし……そうなんだろうけど、そう簡単に割り切れるものでもない。

 あぁもう明日からどんな顔して会えばいいんだよ。

 絶対ヘンに意識しちゃうし。

 また鼓動が早くなってきた。

 なんでこんなことで悩んでるんだろう。

 まるで、思春期の少年みたいだ。

 最初にいったはずだ。

 僕はもう思春期ではない。

 青春期に入ったと――

 ………………

 …………

 ……


「これが青春かぁー!?」


 僕は絶叫した。




 この後、僕ははつかの追試を思い出してもう一度絶叫するのだが、それはまた別の話である。




読んでいただき有難うございます!

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