死の淵と、女神が課した理不尽な枷
俺の人生は一体、何だったんだろう。
これまでの半生を振り返った時、幸せと感じる瞬間なんて一度でもあっただろうか。
幼い頃に両親が離婚し、母親に引き取られた。だが母は俺を育てるために昼夜を問わず働きに出て、家で顔を合わせる時間すらほとんどなかった。
テーブルに置かれたわずかなお金で、スーパーやコンビニの弁当を一人で食べる毎日。
そんな生活すら、長くは続かなかった。
俺が中学生の頃、母はどこからか若い男を見つけ、何の前触れもなく姿を消した。
引き取られたのは、母方の祖父母の家だった。
だが、そこは温かい家庭などではなく――毎日聞きかされる父親の悪口と、「あんたもあの男の血を引いているんだから」という冷たい視線。 俺に与えられた寝床は、自分の部屋ではなく物置小屋の片隅だった。
『高校卒業までは我慢しよう』
そう自分に言い聞かせ、必死に学校へ通った。 お小遣いなんてない。祖父母の「自分たちが孫にお金を渋っているように見られたくない」というくだらない世間体のせいで、バイトすら禁じられた。 自由にできるお金も、スマホも、部活の道具を買う余裕もない。
自然と友達と遊びに行くこともできず、図書館で本を読むか、勉強するしかやることがなかった。 当然、青春と言えるような思い出は一つも存在しない。
この家から、このN市から出たい。その一心で国公立大学を目指し、必死に受験勉強をした。 合格通知を受け取り、できるだけ遠くの大学へ進学した時、ようやくあの地獄から抜け出せたのだと思った。
だが、歪んだ子供時代を送った俺は、人との関わり方が分からなくなっていた。 大学でも常に一人。お金のなさの恐怖からバイトばかりを詰め込み、店長には重宝されたが、キャンパスライフとは程遠かった。
奨学金とバイト代で学費と生活費を払い続け、就職活動も暗い性格が災いして難航したが、なんとか採用してくれる会社が見つかった。
――だが、安心したのも束破。 まともだったのは最初の1ヶ月だけだった。
連日のサービス残業。上司からの怒声。休日でも鳴り響く着信音。 そんな日々が1年も続くと、夜になると嫌な妄想ばかりが頭をよぎるようになった。
眠ることが怖くなり、不眠症になり、頭は常に霞がかかったように働かない。 それでもゾンビのように会社へ向かう身体。くたびれたスーツをクリーニングに出す気力すら湧かない。
そして――あの日。
歩道で横断歩道の信号待ちをしていた。 青になったと思い込んで、身体を前に一歩踏み出した。
直後、耳をつんざくクラクション。 振り向く間もなく、全身を襲う凄まじい衝撃。
どれだけ吹き飛ばされたのかも分からない。 周囲の悲鳴を聞きながら、俺の意識は深い闇へと落ちていった。
◇
「……お待ちしていました。幸田幸助さん」
ふと目を開けると、そこは一面の真っ白な空間だった。 自分の身体を見ると、会社へ向かう途中のあのくたびれたスーツを着たままだ。
確か俺は車に跳ねられて――なのに、手足は痛むこともなく自由に動く。
声のした方を振り向くと、そこには金髪碧眼の美しい女性が、ロココ調の白い椅子に腰掛けてこちらを見ていた。 白いローブを纏ったその佇まいは荘厳で、誰もが見惚れるほど美しかった。
彼女は静かに立ち上がり、俺の方へ歩み寄ってくる。
「私は女神、アウステアラと言います」
「……女神?」
「はい。あなたは先ほど車に轢かれ、お亡くなりになりました」
淡々と告げられた事実に、息をのむ。
「冗談だろ……なら、俺を元の場所に戻してくれ」
「いいのですか? 元に戻せば、あなたは目覚めることなくそのまま息絶えますよ」
「……っ」
「ここは、新たな世界へと生まれ変わる狭間の空間。だからこそ、あなたは今こうして思考できているのです」
俺の疑問を見抜いたように、女神は微笑む。
「あなたのこれまでの人生を見させていただきました。……とてもお辛かったですね。生まれてきて幸せだと感じたことが、一度もなかったのではないですか?」
「それは……」
返事に詰まる。幸せなんて、知る由もなかった。
「そのまま人生を終わらせるのはあまりに切ない。ですから私は、あなたにもう一度チャンスを与えたいのです。俗に言う『異世界転生』です。別の世界で、第二の生を謳歌できるよう手配いたします」
「そんなことが、本当にできるのか……?」
「できますよ。私は女神ですから」
アウステアラは優しく頷いたが、すぐに少し困ったような表情を浮かべた。
「ただし……これには一つ、制限があります」
「制限?」
「はい。本来、他世界へ送られるのは『勇者』としての適正がある者だけ。あなたを無条件で転生させることに、他の神々が難色を示したのです。……結果として、一つの『枷』が課されることになりました」
「枷……?」
「あなたが次の世界で『幸せの絶頂』を感じた瞬間に、あなたの第二の生はその場で終わります」
「……は?」
耳を疑った。
「幸せになるための転生なのに、幸せを感じたら死ぬ……? そんな時限爆弾みたいな条件で生きろって言うのか!?」
「ご安心ください。お腹が空いている時に美味しいご飯を食べたとか、ぐっすり眠れて気持ちいいといった程度の日常の幸せには反応しません。あなたが『心の底から、この幸せを絶対に失いたくない』と心から満たされた瞬間にのみ、作動します」
「その代わりと言ってはなんですが……本来は勇者にしか与えられない『スキル』を授けましょう。時が来れば、自ずと理解できるはずです」
そう言って、女神は静かに両手を組み、祈りの姿勢をとった。
「私からお伝えできるのは以上です。……どうされますか? このまま消滅を受け入れますか? それとも、枷を受け入れて第二の生を望みますか?」
――もう一度、やり直せるなら。 まともな人生を送れるチャンスがあるのなら。
俺が小さく頷くと、女神は愛おしそうに微笑んだ。
「わかりました、幸田幸助さん。あなたの第二の生に、幸多からんことを」
視界が白い光に包まれ、俺の意識はゆっくりと遠のいていった。




