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秋の亡霊  作者: 山口遊子


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第9話 帳簿係


 これまでもしかしたらと考えていたことを、バザールのガフヴェ・ハーネ(コーヒーハウス)で商人風の男たちの会話から聞いてしまったシャリアールは、手にしたフィンジャーンをテーブルの上に置いて席を立った。


 シャリアールはバザールの中をあてもなく歩きながら、これからのことを考えた。復讐できたとしても、証拠がなければ大公殺しとして捕縛されるか、その場で切り捨てられるのが関の山だ。誰がどう見ても動かぬ証拠がなければ始まらない。


 とはいっても証拠を集めるにはカシュマールに帰るしかないが、それはできない。


 何か手掛かりになるようなことはなかったか? シャリアールは逃走中に思い出したことをまた思い出していた。


 もう2年近く前になるが、兄バフラームがやってきて、自分に薬学を学ぶように声をかけた。そしてその結果として薬ができ、それを父に飲ませようと館の専属薬師に渡したあと、自分の渡した薬を飲んで父が急死したということで自分が捕縛された。


 バフラームが黒幕だとして、あの薬師も怪しい。

 今思い起こせば、薬学の本や薬の素材、実験器具を買い付けていた御用商人もバフラームの紹介だった。つまり、実験室に置いてあった諸々について、バフラームはあの男を通じて知ることができたはずだ。


 館の専属薬師はカシュマールから出てくることはないだろうが、御用商人はイスファハーンに商品を買い付けにやってくるはずだ。そして、自分の今いるサルヴ・エ・ゼリンに宿泊する可能性がある。今までサライに宿泊するキャラバンについて何も考えていなかったが、これからはあの御用商人がやってきてないか注意しよう。たしかあの男の名はミーサークだったか。


 もし、ミーサークを見つけたらどうする? 脅して真実を吐かせる? しかし、少なくとも4、5人の護衛に守られているはずのミーサークをどうすれば言うことを聞かせられるのか、見当もつかない。それに、しくじれば、カシュマールから追手がかかる。自分がミーサークの顔を覚えている以上、ミーサークも自分の顔を覚えているだろう。いくら頬の傷で人相が変わろうが、見間違うはずはない。


 手詰まりだ。


 こんなときに、ハサンがいてくれれば。

 そこまで考えて、シャリアールは首を振った。



 その日、シャリアールはバザールの中をさまよい歩き、食事はバザールの中の屋台で済ませ、日暮れ少し前にサルヴ・エ・ゼリンの寝床に戻った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 シリーンは夕食時には手洗い用の水差しと桶を持って食堂の客たちの中を回った。

 そういうことなので、たまに客から心づけを貰うこともある。そして客たちの話し声も当然耳に入ってくる。

 そこでシリーンは主人であったシャリアール公子を逃がすためにハサンが犠牲になったことを知った。その話を聞いたときシリーンは危うく水差しを取り落としそうになった。


『兄さん』


 シャリアールがバザールのガフヴェ・ハーネで聞いた話と違い、シリーンが聞いた話は、カシュマールの『公式発表』だけだった。


 つまり、シリーンの頭の中では、親殺しの大罪を犯した罪人が兄を見殺しにして、その挙句、兄は犬死にしたことになっていた。


『許せない! あの男を必ず見つけて殺してやる。そうだ! 見つけたらカシュマールに密告すれば? いや、それじゃあ手紙を出したとしても何日もかかるし、その間に逃げられる。でも女のわたしじゃ殺せない。それならどうする?』


『そうだ! アサシンを雇えばいいんだ。どこにいるのかは分からないけれど、きっと雇えるはず。ということは、必要なのはあの男を見つけることと、お金。幸いここはサライだからあの男がやってくるかもしれない。問題はわたし自身あの男に会ったのは3年も前のことだし、あの男の顔をよく覚えていないこと』


『どうしよう? それも含めて、アサシンに頼めば何とかなるはず。本職なんだから。そこまで頼めばお金がいくらあっても足りなそうだけど、それしかない。10年間お金を貯めれば……』


『でも、アサシンを使うことは大罪だったはず。それを考えると、アサシンなんてそうそう見つかるわけないし。それじゃあどうすればいいの?』


『そうだ! お茶に毒を盛る。これだ! 毒なら比較的手に入りやすい? いや、そうでもないか。そもそも人を殺せるような毒なんてどこに売っているのかわたしじゃ見当もつかないし』


『とにかく、お金。お金さえあれば何とでもなるはず』


『本当はもっと割のいい仕事がしたいけど、娼婦になることくらいしか、いい仕事はないし。さすがにそれは嫌だからここでまじめに働こう。こうやって食堂で客の相手をしていたら心づけももらえるし、それにいろんな噂話も聞ける』


 シリーンは食堂の中を駆け回りながら、客の差し出す指先に水差しから水を注ぎ続けた。




◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌朝。食堂で朝食をとったシャリアールはガザルの部屋に行った。

「ナシールです」

『入りな』


 ガザルの部屋の入り口横には、新しいギャッベが敷かれ、そのわきに、ラウフ(筆記板、書き物用の板)のほかペンとインクが用意されていた。

「ちゃんとした格好をすれば、いい男じゃないか」

「どうも」

「取って食おうとか思ってないんだから、硬くなるんじゃないよ。そこがあんたの席だ。そこで仕事をしな」

「はい」

 ガザルは部屋の壁際に並んでいた木箱の中から紙束を取り出してシャリアールの前に置いた。

「これが帳簿だ」

「そこに数字が書いてあるだろ? 日付と金額が書かれていて、金の出入りを書いてるんだが、目も悪くなってきたわたしじゃ合っているかどうか訳が分からなくなってきたんだ。

 それで、お前さんにやってもらいたいのは、最初から目を通して、計算が合っているかどうか見てほしいんだ」

「間違っていれば、どうすればいいですか?」

「間違いの上にインクで書き加えてくれればいい」

「途中で間違いがあると、それから先全部書き加えていくことになりますが、それでもいいですか?」

「仕方ないだろ?」

「分かりました」


「今日中に終わるかどうかわからないけれど、それが終わったら、新しい紙に今日からの数字を書き加えていっておくれ」

「その数字はどこに?」

「それは、今日の稼ぎと支払いが終わった後じゃないと分からない」

「分かりました。とにかく計算してしまいます」

「頼んだよ。あたしはこれから久しぶりに、みんなの仕事ぶりを見てくるから」

「はい」


 シャリアールが帳簿を開き、計算を始めたら、最初から間違っていた。その上に正しい数字を書き込んだ。訂正した数字を使って次を計算するので、当然次の計算も違った答えが出てしまう。ということで、帳簿はどんどん新しい数字が書き加えられていった。


 シャリアールが作業を始めて1時間ほどして、ガザルが部屋に戻ってきた。

「どうだい?」

「それなりに間違っていました」

「やっぱりそうか。残金が合わないから、たぶんそうだろうと思ってたよ。アッハッハッハ」

 笑って済ませていいのか? と思ったが、そもそもガザルのお金の話なので、それでいいならそれまでだ。しかし、今現在帳簿の4枚目の数字を合わせているが、元の数字との開きはかなり大きくなっている。この調子だと、10枚ほどある帳簿を全部修正したら、数字の違いは20ディナールを超えそうだ。


 シャリアールがそうやって計算をしている向こうで、ガザルが水パイプでハシーシュ(大麻)を吸い始めた。いい御身分であるが、文字通りいい御身分だから仕方ない。


 それから1時間ほどで帳簿の計算が終わった。シャリアールから見てかなり時間がかかってしまったのは、検算を入念に行ったからだ。

「出来ました。確かめましたから、間違いはないと思います」

「ずいぶん早かったじゃないか」

 早くはなかったんだが。とシャリアールは思ったが、何も言わなかった。

「どれどれ」

 ガザルが帳簿を手にして中身を見た。

「あたしの計算は面白いくらい間違ってたわけだ。アッハッハッハ」

 シャリアールは、笑いごとじゃないと思いますが。と言いかけたが、これも口にしなかった。


「じゃあ、今度は金の勘定だ」

 そう言ってガザルは水パイプを置いて奥の行李から、重そうな革袋を二つ取り出した。

「こっちが金貨で、こっちが銀貨と銅貨だ。当面の資金というわけだ。いくらあるか勘定してくれ」

「はい。書きつける紙はありませんか?」

「ちょっと待ってておくれ」

 そう言ってガザルは木箱の中から紙を数枚用意してシャリアールに渡した。

「定規のようなものはありませんか?」

「あるよ。ちょっと待っておくれ」

 ガザルは「あれはどこだったかねー」などとつぶやきながら、木箱の中をさらったところ、何とか定規を見つけてシャリアールに渡した。 


 シャリアールは定規を受け取って、紙の上に線を引いていき、それから金貨が入っているという革袋から金貨を取り出しながら、ギャッベの上に10枚ずつ山を作っていった。


 結局、山は15個、バラで3枚だった。つまり153ディナールということになるのでその数字を紙の隅に書きだした。


 金貨を革袋にしまってから、もう一つの袋から、中身をギャッベの上に全部取り出して、銀貨と銅貨に分けていった。そのあと硬貨ごとに10枚ずつの山を作っていき、出来上がりの数字を紙に記した。


「この二つを合わせた数字が、先ほどの数字になるはずなんですか?」

「そうなんだが、どうだい?」

「ずいぶん、数字の方が大きいです」

「つまり、帳簿より金が少ない?」

「はい」

「まいったな。ナシール、どうすればいいと思う?」

「現金が足りない理由が分からない以上、この現金の数字を帳簿に付けて、それから新しくするしかないと思います。現金の出し入れをその都度帳簿に書き込み、1日の終わりにその数字と現金が合っているか確認していけば、これほどの差は起きないと思います」

「確かにその通りだ。ということでナシール。それがお前の仕事だ」

「分かりました。ガザルさんはお金の出し入れをするたびに、忘れずわたしに教えてください」

「あいよ」

「そういえば、厨房とか、厩舎ではよそからいろいろ仕入れていますよね?」

「そりゃそうだ?」

「それって、どうやって支払ってるんですか?」

「宿泊代で相殺させたりしてるな。足りないときはここに取りにくる」

「なるほど。日当はガザルさんですものね」

「その通り。それもこれからはナシールに任せるから」

「わたしだと、誰にいくら払うのか分かりませんよ」

「最初の何日かわたしがやってるのを横で見ておけば覚えるだろ?」

「さすがにそこまでは。給金表のようなものはないんですか?」

「それだったら、あたしの頭の中にあるよ」

「申し訳ありませんが、それを紙に書いてもらえませんか? そうしてもらえれば、あとは名前と顔を覚えるだけで済みますから」

「分かったよ。わたしが口で言うからそれをお前さんが書き取ってくれるかい?」

「分かりました」

 シャリアールは先ほどとは別の紙をラウフの上に広げ、ペンを取った。


「それじゃあ、お願いします」


 ガザルは目を閉じて、名前と日当を言い始めた。

 15人ほどの名前の中に、シリーンの名前があったが、ナシールの名前はなかった。


「あとは、監督たちだ。こいつらは月に一度の支払いにしている。面倒だし金額が大きいからな」

「はい」


 厨房頭、人夫頭、雑務頭の3人の名前と金額が告げられた後、

「ナシール。2ディナール」と告げられた。人夫の時は1日1ディルハムだった。一カ月働いて30ディルハムである。2ディナールは100ディルハムなので、3倍以上に昇給したことになる。

「こんなに貰っていいんですか?」

「いいから、その数字なんだろ? その分しっかり働いておくれ」

「はい」

「それから、月に一度、ここで店を出してる連中が場所代を持ってくる」

「それも書き留めておけばいいんですね」

「その通りだ」

「あと帳簿には日付と、数字の出し入れしかありませんが、相手を書いたほうが良くないですか?」

「そうさねー、面倒じゃないかい?」

「それほどでも。分からないなら仕方ありませんが、分かるなら」

「分かった」

「ここに泊ったキャラバン名なんかもあったほうがいいんじゃないですか? 将来何かの役に立つかもしれませんから」

「キャラバン名といってもキャラバンに名前なんかないだろ?」

「代表者の名前とか」

「確かにそれならいいか。人夫頭のクタイバに言っておく」


 シャリアールはギャッベに座ったまま、キャラバンの責任者の名を知ることができると一人ほくそ笑んだ。


「ナシール」

「はい」

「こういった仕事をする人のことをなんというんだろうな? 下に誰もいないから何々頭とはいえないし」

「会計係ないし帳簿係と呼ぶようです」

「それじゃあ、帳簿係としよう」

「はい」


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