第8話 サルヴ・エ・ゼリン2。ガフヴェ・ハーネ
初日の慣れない姿勢での仕事が祟ったようで、翌朝、腰と太ももが辛かったが、それでも人夫仕事を始めて5日目には体も慣れてきた。
そうして、シャリアールがサルヴ・エ・ゼリンにやってきて1カ月ほど経った。
シャリアールの体は今ではかなり引き締まってきており、左頬の傷もかさぶたなどはすっかり取れて肉が盛り上がっている。赤い傷跡は見た目は痛々しいし、食事中少々顔が引きつるが、生活に支障はない。
その日もいつも通り仕事を終え、ガザルから日当を貰い、厨房で食事を手にしていつものように庇の下で食事して、食器を厨房に返した。
仲間の人夫たちは、食事を終えた後、早々に寝床に帰っていき、シャリアールも同じように雑魚寝部屋の片隅に戻り体を横たえて目を閉じた。
そうやって目を閉じてうつらとしていたら、中庭から若い女の歌声が風に乗ってかすかに聞こえてきた。
気になったナシールは起き上がり、部屋から出て中庭に歩いていくと、月が雲で隠れた暗い空の下、若い女が噴水の水辺に腰を掛けて歌っているのが見えた。
ナシールは歌声に向かって歩いていくと、歌声は急に止み「誰!?」と女がナシールに向かって硬質の声を上げた。
「ナシール。ここで働いている」
「そう。それならわたしの同僚ね」
「同僚ということは、あんたもここで働くということか?」
「そう、厨房と食堂の雑役として住み込みで雇われたの。よろしくね。あれ? あなたその顔の傷は?」
暗がりでもシャリアールの左頬の傷ははっきり顔に浮き出ていた。
「盗賊とやり合ったんだ」
「まあ、かわいそう。でもそれだけってことは勝ったってことよね?」
「なんとか」
「その傷がなければ十分ハンサムだったのに。」
「世の中とはそういうものじゃないか?」
「そうね。全てが揃わないのが世の中よね」
達観したようなその言葉にシャリアールも頷いたのだった。そして、シャリアールは彼女の瞳の裏側に宿る炎を垣間見た気がした。その炎はシャリアールが隠し持っている炎と同じものだとシャリアールは直感した。
その時、雲から青白い月が覗き、女の顔を照らした。
シリーン?
ハサンの妹のシリーンに会ったのは今から3年ほど前。3年前の彼女と目の前の女性は確かによく似ていたが、同じ人物である確証はシャリアールにはなかった。
「うん? 今何か言った?」
「いや、何も言っていない」
「そう。でも、その傷のおかげで、男らしさは増してるんじゃない?」
「ありがとう」
「嘘じゃないから安心して」
「君と知り合えてよかったよ。明日の仕事があるから、それじゃあ」
「それじゃあ」
シャリアールは逃げるようにその場から雑魚寝部屋に戻っていった。
「変な人」
その日から、シャリアールは何度かその若い女の姿を目にすることはあったが、話しかけることはなかったし、向こうからシャリアールに話しかけてくることもなかった。
それから、10日ほど経ったある日。
その日の仕事が終わり、給金を受け取りにガザルの部屋に行き、そこで1日の給金である1ディルハム、銀貨1枚を受け取った。
礼を言って部屋を出ようとしたとき、ガザルがシャリアールを呼び止めた。
「ナシール。ちょっと待っててくれるかい」
「はい?」
「ナシール、お前、読み書きできるだろ?」
出来ないふりをすることも出来なくはないだろうが、バレる可能性もある。正直に答えることにした。
「はい。いちおう読み書きできます」
「そしたら、計算は?」
「出来なくはないです」
「そうか。それはいいことを聞いた。人夫の仕事はいいから明日朝の食事が終わったらここに来な」
「分かりました」
「それじゃあ」
翌朝。シャリアールは食事を終えガザルの部屋に訪れた。
「ナシール、そこに座っておくれ」
シャリアールは言われるまま、ガザルの向かいの床に座った。
「あたしは片目しかないのに、その片目がめっきり弱くなっちまって、あたしの代わりに帳簿の計算と、雇人たちへの給金を支払ってくれないかい?」
「分かりました。計算はできますが、どういった計算をするのかは教えてください」
「それは当たり前だ。そうさね。今日中にお前さん用にギャッベ(敷物)を用意してやるから仕事は明日からでいいよ。今日は休んで、これで服でも買ってきな。その臭いの沁み込んだ服でここで仕事されちゃかなわないからね」
そう言ってガザルはシャリアールに金貨を1枚(注1)投げ渡した。
「ありがとうございます」
シャリアールは部屋を出て1階に下りていった。サライの中で買い物もできたが、せっかくだったので、バザールまで行ってみようという気になったのだが、確かに自分の着ている服はかなり汚れているし、臭いがひどい。バザールに繰り出すには少なくとも身ぎれいにしてからでないと、顰蹙を買ってしまう。
そういうことで、シャリアールはサライの古着屋で上下とシャツを購入した。手元にはまだ20ディルハムも残っていた。
シャリアールはイスファハーンにやってきてまだ一度もサライの外に本格的に出たことはない。イマーム広場の大バザールには数年前に一度だけ行ったことがあるので、全く知らないわけではなかったが、その時は、ハサン以下の護衛たちに囲まれていた関係で、主体的に見て回ったわけではない。
シャリアールは先ほど買った服に着替え、サライからバザールにやってきた。露店が立ち並びいたるところから売り子の呼び込みの声や客が店先で値切る声が聞こえてくる。
そんな中、天幕の下でコーヒーが飲める店、ガフヴェ・ハーネ(コーヒーハウス)があった。館の自室で捕縛されて今まで、コーヒーから遠ざかっていたこともあり、シャリアールは店先のテーブルに席を取り、コーヒーを注文した。値段は1杯1フィルス だった。シャリアールは懐から金が入った小袋を取り出し、その中から1フィルス銅貨を机の上に置いた。
すぐに店員がコーヒーをテーブルまで運んで、銅貨を持って帰っていった。
久しぶりに飲むコーヒーは薄かったが、自分がまた自分に戻った気持ちがした。そして、思わず吐息が漏れた。
吐息を漏らすと幸せが逃げていくといったのは、誰だったかなー? などと思いだそうとしたが、思い出せなかった。いや、幸せではなく運が逃げていくのだったか? 運が逃げていくのだとすれば、自分がカシュマールの館にいるとき吐息を漏らしていたのだろうか? そういった記憶はなかったが、実際運がいいとは言えない状態になっている。しかし、ハサンたちのおかげで死は免れた。そしてハサンたちは帰らぬ人となってしまった。そう考えていくうちにシャリアールは訳が分からなくなってしまった。
最後の一口を飲もうとフィンジャーン(注2)を持ち上げたところで、少し先のテーブルから「カシュマール」という言葉が聞こえた。
そのテーブルには、商人風の男が3人座り、コーヒーを飲みながら話していた。
「それでどうなった?」
「親殺しの公子は家臣の活躍で逃げおおせたんだ。それはいいんだが、公子を逃がした連中はみな討ち死にした」
「家臣を見殺しにしたってことか?」
「そう言えばそうかもしれないが、見殺しにするしかないだろ? 多勢に無勢なんだし。公子の家臣たちは公子を助け出せたんだ。死んでも本望じゃないか」
「確かに。忠義の家臣だったわけだ」
「そうだな。だが、法に背いた以上、討ち取られただけで済むわけはなく、全員の首が大公の館の前の広場に晒され、鳥がつついていたそうだ」
「むごい話だな」
「そういうものだろ」
「しかし、大公を殺して自分が跡を継ぐつもりだったんだろうが、その算段もなく親を殺したのか?」
「その悪だくみを、親殺しの公子の兄にあたる今の大公が暴いたんだそうだ」
「なるほど。よくできた人間だったわけだ」
「そういう見方もある。実はな、逃げ出した公子なんだが、亡くなった大公のお気に入りで、なおかつ有能だったんだそうだ。それで、周囲はその公子が大公の跡を継ぐと思っていたそうだ。それに、公子の家臣たちが死を覚悟してまで公子を助けたってことは、公子に人望があったってことだろ?」
「じゃあなんで、わざわざ親殺しをする?」
「早く大公になりたかった?」
「黙っていても大公になれるのにそんなことするバカはいないだろ?」
「じゃあ?」
「こういうものは、誰が一番得したか。それを考えればいいんだよ」
「あっ! つまり親殺しは今の大公。逃げ出した公子の兄!」
「証拠があるわけじゃないけれど、おそらくそうじゃないか?」
「お前、商売は下手だが、こういうのは得意だよな」
「商売下手は余計だ。それに俺の考えが正しいかどうかは、誰にも分からないからな。実際は逃げ出した公子が犯人で、今の大公がそれを暴いたという『公式発表』通りかもしれないからな」
「そうだな」
「それはそうと、逃げた公子はどこに逃げたと思う?」
「公子は刑場から逃げ出した重罪人なわけだし、カシュマールじゃ顔も売れているだろうから、カシュマールのどこかってことはさすがにないだろう。そうだなー。ここイスファハーンとか。逃げた公子は嵌められたのなら、当然嵌めた相手に復讐するだろ? 復讐相手からあまり遠くにいたくないだろ?」
「なるほど」
「例えばそこに座っている若い男かもな」
「それはないだろうが、そのうち会うことがあるかもな」
「だな」
ここまでの話を盗み聞いたシャリアールだが、彼が手にしたフィンジャーンは細かく震えていた。
注1:
金貨を1枚=1 ディナール=50ディルハム。作中では1ディルハムを2000円、1ディナールの価値を10万円くらいとしています。1フィルスは100円としています。
注2:フィンジャーン
取っ手のない小さなカップ




