第5章「退場」
地下室の重い空気が突然震えた。蘭司マトが不自然に木製の背中を反らせ、ボタン目が薄暗がりで鈍く光る。
「もう飽きた…」
人形の声から機械的な響きが消え、驚くほど人間らしい疲れた声に変わった。
「眠る」
ギシギシと音を立てて暗い隅へ這い戻るマト。引きずる血糸は切断された腱のようだ。その動きは妙に疲弊しており、ほとんど苛立たしげにさえ見える。
平人(まだリカの体で)が猛然と立ち上がる。腹はへこんだが、紫色の妊娠線——つい最近出産したかのような痕が残っている。
「待て!」声が裏返る。「お前はカイトだろ!?」
返答はない。人形は興味なさげに背を向け、遊び疲れたおもちゃのように隅で丸くなる。
「クソが…」平人が拳を握り締める。爪が掌に食い込み、三日月形の傷ができる。
静寂を引き裂いたのは子供の笑い声だった。スピーカーからではなく——「あれ」からだ。赤ん坊から。
もう嬰児ではない。たった1時間で3歳児ほどに成長している。髪はカイトの幼少期と同じ色。ただ目だけはあのボタンのままで、今や歯車のようにゆっくり回転し始めていた。
「ママ」震える手を小百合に向ける。「約束したよね…?」
小百合が背を壁にぶつけて後退する。子供の動作が、自分が衣類の端を弄るくせと完全に一致していることに気付き、瞳が恐怖で見開かれる。
赤羽が唸りながら小百合の肩を掴む。指が皮膚に食い込み、アザができる。
「お前が縫ったんだろ!? なんなんだコレは!?」
小百合のまつ毛が濡れる。だが異常がある——涙が粘り気を帯び、顔から糸を引くように伸びている。
「私…ただあなたたちを落ち着かせたかったの! 思いついたことを言っただけ!」
子供が突然笑う——リカの笑い声そのものだ。冷蔵庫へ歩み寄り、指でドアを突く。金属に赤い文字が浮かぶ:
『彼女は僕の目を奪った』
『君たちの苦しみを見るために』
平人がゆっくり子供に近づく。「あの日何があったか知ってるんだろ?」
子供の首が不自然な角度に傾く。「パパのお金を盗んだんだね…中絶するために」リカへ囁く。
リカの唇が震える。「どうして知って——」
「そして君は」今度は半田に向き直り「真実を書けなくなるよう、彼の指を折った」
バキッという音。半田が絶叫する——見えない力に指を逆方向へ捻じ曲げられていく。
子供はため息をつき床に座り込む。急に動作が疲れた様子になる。
「成長するのは痛いよ…」声が低くなり、10歳ほどに老化する。「誰かが僕にならないと」
コンクリート壁が割れ、二つの輪郭が浮かび上がる。左の扉には色あせた人形、右にはひび割れた鏡。それぞれに看板:
『子を渡せ』
『子になれ』
小百合が震える手を鏡へ伸ばす。「もう…耐えられない…」
その瞬間、鏡が動き出す。子供の姿が消え、代わりに大人のカイトが立っている。眼窩は空洞で、口から黒い液体が滴る。
「選べ」呟く。「さもなくば俺が選ぶ」
背後でずぶりと音がする。子供=カイトの骨が伸び、5歳ほどに成長する。ボタン目がカチリとグループへ向く。
そして隅で「眠る」蘭司マトが微かに動く。木製の指が痙攣し——悪夢でも見ているように震える。