不実の夜
ギルド支部近くにある宿屋の一室へふら付いた足で入っていって、案内してくれたフィオに手を振ってから寝台へ倒れ込む。
扉が閉まるのを待って。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………つかれた」
頑張った。
色々と置き去りにした部分もあるが、一先ずは踏ん張り切った。
皆から率先して乗って来てくれてるとはいえ、ギルド内の雰囲気は悪くない。
既にプリエラやフィオが関係を繋いでいてくれた他所のパーティとも、改めて挨拶も出来たし、こっちからは大量の情報を流し込んだ。きっと、明日にはこの都中に魔王サレナレアの話が広まっているだろうよ。
必要物資の備蓄は済んでいて、何となれば即時馬車でハイフリスへの移動も可能。
船は無いが、ニーナへ頼めば海を渡って遠くの無人島にでも逃げ込むくらいは出来るだろう。
はは、こんな儲け話に背を向けて逃げるくらいなら、冒険者は辞めた方がいいけどな。
「……………………」
なんて。
どうにか息巻いてみたけどよ。
クィナの事は一時プリエラに任せた。
まあ、要するに逃げたってことだ。
今の彼女が隣に居る者を求めていることは分かっているけど、本当に今だけは限界だ。あの場での発言だってギリギリだった。彼女が聞いている中で、外すべき話題にも触れちまってた。
あれ以上一緒に居たらどんな馬鹿をやらかすか。
今はただ寝たい。
身体は健康になって、回復までして貰ったのに、心が休息を求めてる。
ただまあ、その前によ。
「…………出て行かなくていい、リディア」
突っ伏したまま呼び掛けると、幻影に身を隠していた婚約者が困った顔してこちらへ向き直った。
俺の様子を見に来たけど、こんな有り様だから、気を遣って外そうとしてくれた。
そんな、愛すべき婚約者を裏切った身で。
でも本当に良かったよ。
もう一度会えて、良かった。
「ロンドくん、がんばってたね」
頭を撫でてくる手の心地良さよ。
それを味わう資格も無い癖に、今はもう手放し難く、縋り付きたくなる。
「ちゃんと、もう一度生きて会えて、よかった」
「……あぁ。お前に会う為に生きて戻ってきたよ」
「………………うん」
これだけは本当だから。
嘘じゃないから。
信じてくれ。
くしゃりと髪を軽く掴み、手指で梳いてくる。
細くて、繊細な指。
男の俺に比べれば小さな手だが、指が少し長くて、綺麗で、なんだか色っぽさを感じてしまう手なんだ。
触れられるのも、触れるのも好きで。
そのまま、しばらく彼女の手を味わった。
※ ※ ※
いかん、少し寝ちまったか。
折角リディアと話せる時間だったのに。
「水、飲む?」
目覚めても傍らに居てくれた彼女の呼び掛けに身を起こし、寝ぼけた頭で陶杯を受け取る。少しぬるくなった水を一気に飲み干し、隣に座って来た彼女の香りを胸一杯に吸い込んだ。
肩がぶつかり、頭が頬に当たる。
艶やかな髪が肩から下を撫で、手の平側へ滑り込んで来た手を握り込む。
そのまま少し姿勢を変えたリディアが俺を見て、俺の唇を見て、吐息が香る。
ただ、口付けの直前で俺が少し俯いちまったから、リディアも無理にしようとはせずに顔を離した。
バレてるな、っていうのがなんとなく分かった。
そりゃあ、ギルドへ戻って来てからの態度はおかしかったし、クィナは俺との距離が近かった。
身体を許した相手でないと保てない距離ってのがあるもんさ。
あるいは彼女と、俺の目を見て察したか。
「魔王、倒せるのかな」
だから話題を変えてきた。
手は握り合ったまま、不誠実を重ねてそこへ応じる。
「どうだろうな。シシリーは過去に何度か相手取ったみたいなこと言ってたが」
「そうなんだ」
「本当に倒せない相手なら、大昔に人間は全滅してる。俺達が当時の連中より遥かに弱くなってないことを祈るばかりだがな」
「そう言われると、あんまり自信ないなあ」
「おいおい頼むぜ、アダマンタイト級の神官さん」
言うとリディアは薄く笑ってくれた。
昔なら。
出会った頃なら、こんなことは言えなかった。
でも今彼女は十分に強くなって、堂々と振舞えることも増えてきた。
何より俺達も一緒だ。
一緒。
そうなんだよな。
「……………………」
「…………えっと、ここのお料理がね」
「あぁ」
手が強く握られる。
「とっても美味しいの。後で、食べてみて」
「そりゃあ楽しみだ。なんなら今からでも」
「バレちゃうから……」
「そうか……そりゃ、まずいよな」
降りた沈黙を埋める様にリディアが身体を揺らし始めた。
肩をぶつけたり、離れたり、頭を乗せてきたりする。
たまにやる奴だが、今だけは少し隙間が空いている。
「あのさ」
「……おう」
息を吸って。
息を吐いて。
間を埋めて。
塗り潰すみたいに、また揺れて。
「あー…………ごめんね、疲れてるのに」
「いいや。もう少し話していたい」
「無理しなくていいよ。ごめん。休んで。大変だったのに、ちょっと甘えちゃった」
そんなことは無い。
そう言おうとして、棘が胸の内に引っ掛かった。
手を離して立ち上がるリディアを追おうとして、本当に脚に力が入り切らなくて腰が落ちる。
「ふふ。ほら、無理してる」
ようやく笑った彼女が手を貸してくれて、改めて寝台へ横たわる。
俺を見詰めながら、頬を緩めて。
「私はね、ロンドくん。貴方にずっと救われてきたの。だから大丈夫だよ。いっぱい、いっぱい貰ったから。愛してる。その気持ちは変わらないの。貴方は自分の思う侭、正しいと思った事をして。誤魔化して逃げるなんて、私が好きになったロンドくんらしくないもん」
「俺の気持ちは変わってない。指輪を渡した時と同じままだ」
「うん。信じてる」
何一つ揺るがず、何一つ不安はない。
だけど、それと同じくらい彼女が呑み込んだ言葉が分かった。
『それと同じ感情を、他の子にも向けてしまっているんだよね』
事情が違う。
経緯が経緯だ。
リディアと彼女が同等かと聞かれたら、俺はリディアを取る。
だけど、今のクィナを傷付けることは絶対に出来ない。
それに、もし……もし、あの地の底での交わりによって、彼女に命が宿っていたのなら。
そこに背を向けて離れていくなんてことは……。
全てはリディアと再び会う為に。
想いは間違いじゃなかったのに、行為はどこまでも間違いだった。
他の全ては言い訳だ。
言葉を重ねて許して貰おうだなんて、都合が良過ぎるだろ。
だから何も言えなくなり、黙り込んでいる不誠実に押し潰されそうになる。
そうしてその夜、誰しもが寝入り、静まり返った頃に…………クィナは俺の部屋を訪ねてきた。
※ ※ ※
トゥエリの時を思い出した。
全く最低だ。
最中に別の女のことを考えるなんて。
けど今の状況はあの時に酷似し過ぎている。
結局トゥエリの想いに応えてやれず、俺はリディアに丸投げする形で逃げを打ったんだ。
そいつが最善だったのかは分からない。
問題は、今のクィナにとっては、もう俺以外に繋がりのある人間が居ないって所だ。
愛していた我が子は全て偽りだった。
幼い頃から一緒に過ごしてきた姉も偽物だった。
父も母も居ただろう村は、そこに住んでいた人々は、いつの間にか全員が入れ替わっていて、残されたのはクィナただ一人。
どうにもならない。
今縋る相手を失うと、彼女は自らを殺めてしまう気がした。
それくらい、危うい場所に立っているのだと。
か細く、必死に抑え込んで、漏らすまいと耐える嬌声が耳元を掠める度に苦しくなった。
彼女だって分かってる。
俺には婚約者が居ると伝えているんだから。
それが、今日出会った誰かであると察するくらいは当然だ。
分かっていて離れられない。
壊れそうになるのを必死に耐えて、まだちゃんと生きてくれている。
泣きながら最後の瞬間を迎え、身体を震わせるクィナが、溢れ出す俺のものを離すまいと脚を回してきた。
懇願だった。
何もかも失った女が、せめてたった一つの命をと欲して、それだけでいいからと泣いている。
俺は彼女を抱きながら。
途中からずっと、リディアの事を想っていた。
裏切りたくない。
愛している。
そいつが揺らがないよう、必死に。
そんな最低野郎に抱かれることでどうにか生きているクィナを心配しながら、裏切って、傷付けて。
行為が終わって出て行く背中へ、掛ける言葉が見付からなかった。