旅路の先を
城壁の上へ出た途端、轟ッッッ、と激しい風が俺達を吹き付けた。
魔境から吹く風だ。
檻を抱えていたティアリーヌが身を縮め、尻尾まで使ってカーバンクルを守ろうとする。
背中を叩いてエレーナが前へ進み、プリエラ他数名が続いた。
その並びに従って彼女もまた歩き出し、胸壁のある上部への階段を使って登っていく。
少し遅れて、魔術師のグスタフと弟子のブリジットが。
俺は最後。
護衛と称して傍に付けるエレオノーラを伴って、ゆっくりと階段を上がった。
「わぁ…………!!」
高い高い壁の上、胸下を防護する胸壁へと飛び付いたエレーナが身を乗り出して歓声をあげた。彼女の他、経験の浅い冒険者は揃ってその景色に圧倒される。
俺もな。
何度か荷運びで足を向けた事はあるが、冒険と言えるようなもんじゃなかった。
「広いなああっっ!!」
まさしく彼女の言葉通り。
遠く遠く空の果てまで、今の人間が知らない場所で溢れている。
眼下へ目をやれば緩やかな斜面が見えることだろう。
広い岩場は魔物の侵攻を受けた際、その勢いを減じさせるよう大岩が各所に配置されており、他多数の罠と地下通路が張り巡らされている。
岩場を抜ければ森だが、やや進んだ先には沼地があり、そこには厄介な毒霧が満ちていて、ドルイドの加護や神官の闇払いでも無ければ命が危うい。
今日は曇天が広がっているせいで、沼地からの広がる霧が濃く、見通しは悪い。
もうちょっと空気が澄んでいれば面白いものが見えただろうにな。
横顔を盗み見たエレオノーラは相変わらず凛々しい表情を続けているが、ブリジットはやや不満そう。良い景色も、天気が悪いと流石にな。
まあ観光に来たんじゃないから、いずれなと思い直すことにした。
「あっ、ノール達だ」
その一言にエレオノーラが「あっ」と声を漏らす。
誤魔化しを見て愉しむつもりも、苛めてやるつもりもないので、俺は胸壁へと近寄って下を覗き込む。
ちょうど、腹ごしらえを終えた二体が壁向こうの岩場へ出てきた所だ。
奴ら……彼らにもカーバンクルを解放することは伝えてある。
というか、壁上でやれと言ったのは連中だ。
やっぱり竜種だから、飛べたりするんだろうか。
一応落下死されても困るので、いざって時には受け止めて欲しいんだが。
「あぁぁぁ…………」
別れを惜しむ新米神官の声を聞きつつ、俺はティアリーヌへ振り返った。
檻を持つ彼女は緊張した様子で中のカーバンクルに小声で語り掛けており、俺に気付くと恥ずかしそうに檻を掲げて顔を隠した。多分、犬猫との会話を見られた感じだろうな。
「…………いいか?」
問い掛けると、最後に鼻先を触れ合わせたティアリーヌがコクリと頷いて、檻を開けた。
最初から鍵は掛かっていない。
不意に転げ出てしまうのを避ける為、ちょっとしたハメ込みがあるだけだ。
そいつを開けてやった途端、カーバンクルは飛び出してティアリーヌの周囲を回った。
空中を踏み、草花を模ったみたいな光を散らして。
思えばカーバンクルは月明りは平気なんだろうか。
ノール達は危ないそうだから、今日は斜面の下にある岩宿で休むと聞いた。
「安心しな。カーバンクルの力は相当なもんだ。女神の裁きも弾いちまうさ」
プリエラが俺の心配を察して説明をくれた。
聞いた数名がほっとしているから、気になってた奴も居たらしい。
「今見えるソイツの魔力量だって、ザルカの休日で見た将軍級のリッチよりずっと上だぞ」
「……大丈夫なんだよな?」
「解放するって決めたのはお前だろ、大将」
それにしても今言わなくていいだろうが。
自由にしてから聞くとちょっと警戒しちまう。
なんて俺や長鼻なんかの気持ちを察したのか、駆け回るのを止めたカーバンクルが床に転がってお腹を見せた。短い手足をぴょこぴょこ振り回して降伏だか服従の意志を示してくる。
……その動き、ノール達を真似てるんだよな、きっと。
そういうことが出来る程度には一緒に暮らし、意思疎通させてきたんだろう。
保護されたか、一緒に暮らしていたか。
結局魔境へ戻すことを俺達は選んだが、正しい選択だったのかは分からない。
ノールも数を減らしてしまい、今や群れは二体のみ。
無理に抱えることも余裕も無いと、手放す意志を見せてきたが。
やがてバラバラに様子を見ているパーティメンバー全員の匂いを嗅ぎ回ったらしいカーバンクルが、ティアリーヌの元へ戻って差し出された手の平へ乗る。
『きゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!』
小さな身体を振り上げる様にして遠吠えを発した、その途端だ。
最初に感じた轟風よりも、更に強大な何かが城壁の上より放たれて、分厚い曇天が布地を裂くみたいにほどけていく。立ち込めていた沼の霧も、どこかどんよりとしていた空気も、何もかも。
なのに俺達には何の影響も無かった。
明らかに意図して避けられた風。
それを成したのはどう考えてもカーバンクルで。
一説には竜は、天候の具現化とも言われる。
それぞれの象徴する天候あるいは自然の現象なんかを引き寄せ、災害となって人里を襲う。
かつての魔竜もそうだったと聞く。
ならこのカーバンクルが象徴する天候とは、
「…………凄い」
透き通るような青空。
その向こうに赤らみ始めた景色も見える。
夕暮れのほんの少し前。
今日が終わり、明日へと向かい始める、夜へと移り変わる時。
境目の景色の中で、カーバンクルは再度鳴き声をあげて大きく飛び上がった。
小さな足跡に草花を散らして、トン、トン、と軽快に空を駆けていく。
ティアリーヌが胸壁へ駆け寄った。
身を乗り出して、叫ぶ。
「またねええええええええええっっ!! 絶対、会いに行くからぁぁあああっ!!」
『きゅぅぅぅうう!!』
力強く応じる鳴き声を最後に、晴天の獣は魔境へと消えていった。
僅かな光がこぼれ落ちて、見えなくなる。
そいつを目で追って、けれど、消えてしまう前に、泣きそうになるのを隠してティアリーヌが背を向けた。
「こら」
コツンとやって、引き留める。
まだだ。
カーバンクルが別れの挨拶にくれた、最高の贈り物を見落としている。
「よぉく見てみろ。さっきまでの景色じゃないぞ」
空が晴れている。
霧は彼方へ消え去った。
ずっと向こうで赤く燃え広がっていく夕焼け空によって、色濃く浮かび上がる影がある。
「あ…………」
かつてティアリーヌは、姉のディトレインと共に里を出ようとした。
けれど小さなズレがあって、彼女は諦め、立ち止まってしまったけれど。
腰元のこん棒が、身を捩って背伸びした彼女の姿勢に釣られて、コンと壁を叩く。
まるでノックするみたいに。
「遠くに見える大きな山脈の向こう、ずっとずっと先に、今なら見えるものがある」
俺の言葉を聞いて、初めて壁に登った連中がこぞって目を向ける。
そうして、知った。
山へ寄り添うように聳え立つ、何かの塔。
魔境の奥地、岩場や沼地なんて目じゃないくらい遠い、遥か先に見える、明らかな人工物。塔からもっと先、何か三角形らしいものも薄っすらと見える。
ここが高い位置にあるからだろう、今みたいに空気が澄んでいれば本当に遠くまで見通せるんだ。
建造物自体の背が高いのもある。
足元がどうなっているかはさっぱり分からないけどよ。
「女王アーテルシアを最後とする古代王朝か、もっともっと前の時代か。人間はあんな所まで行っていたんだ。凄いよな……っ、ちくしょうって思うよ」
ティアリーヌが頷き、けれど首を傾げた。
最後の一言か?
そんなの決まってるだろうが。
「大昔の連中は、あんな果てまで冒険出来てたんだ。あんなに大きなものを作れたってことは、あそこよりもっともっと先まで知ってたんだよ。それで、そのまた先を冒険する奴らが居たに決まってる。なあ、悔しいだろう。何百年か、何千年かは分からないけど、そんな昔の連中にいつまでも負けてられるかって思う。凄いって思うけど、同じだけ悔しい。あぁ……っ、俺はあの影のある場所がどうなってるのか、知りたいって今改めて思ったよ。お前らとなっっ!!」
胸壁の端を握る。
カーバンクルが見せてくれた、俺達の知らない世界。
リディアが言っていたからだけじゃない。
こうしてまた見れた事で、昔の感動を思い出した。
アリエルと別れて、腐ってた頃の俺を蹴り飛ばしてくれた、あの大馬鹿野郎の事も思い出したさ。そっから何年もして、また同じ所にハマり込んでたもっと大馬鹿な自分のことも。
けど今は恥じる時じゃない。
夢を見たんだ。
今日ここで。
いずれ俺が辿るべき夢の姿を、俺自身で呼び集めた仲間と一緒に。
その一人である少女を俺は見た。
かつて死なせてしまった大切な仲間の、大切な妹で。
「っ、っっっ…………あ、ロンドさん」
彼女は喘ぐみたいに口を開けっぱなしにして、息を切らせ、何故だか溢れる涙を手の甲で拭い去り。
冒険者ティアリーヌは笑った。
「凄いです。魔境って、凄いです。にゃんで、で……こんなにも胸がどきどきするんでしょうっ。私、この景色を見れて良かったですっ。にゃははは、なんか、変な感じになってますよね」
「そんなことはない。冒険者なら、この景色を前に胸を躍らせるもんだ」
その表情を見て、言葉を受けて、ここしばらく悩んでいたことが馬鹿みたいに思えた。
ちょっとしたズレや行き違いはあっても、俺達は共に冒険者。
頭のイカレた冒険狂いさ。
怖いことが一杯で、辛い事もあって、死んでしまうかもと怯えるのに、その先にある景色が見てみたいって思っちまう。
向かう先はそれぞれでも、根っこは何も変わらない。
そいつを束ねているのがパーティって奴で、ギルドってものなのかもしれないな。
俺はにやりと笑ってみせた。
「行ってみたいか?」
「っ、はい!! 魔境、興味が湧きましたっ!」
「ははっ、そいつは良かった!!」
カーバンクルの解放を決めてよかったよ。
なんでって。
莫大な富とやらに釣り合うだけのものを得たからさ。
いつか飛び込んでいく世界の果てをもう一度目に焼き付けて、大いに笑う。
「さあ撤収だ!! はははははっ!! 今日は大いに飲んで盛り上がろうっ! これだから冒険者は止められねえぜっ、なあお前ら!!」
口々に応じる声を聞きながら、駆け抜けていく赤い空の元、酔って歌って、明日を夢見た。
そうさ。
俺達は冒険者だ。
大切なものを思い出させてくれた仲間に、乾杯を。