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U大学の近くに『コンピューター居酒屋』なるものがある。
『かみよし』という名前のその居酒屋は、U大学生が飲み会するといったらよく利用する定番居酒屋のひとつである。
一体、この古びた居酒屋の何が『コンピューター』かというと、注文を取りに来るのがロボット店員だとか、お店の壁一面に幾何学模様だったり数式が羅列してあったりだとか、お客さんは全員スパイゴーグルをしなくちゃいけないだとか、そういうことでは全くない。テーブルの上にメニューやら飲み物やらが書かれたボタン付きの電子機器が置いてあって、そのボタンを押して注文するというスタイルの居酒屋なのだ。
今日はそこで、仲のいい後輩の清水という男と、定例の“2人飲み会”をやっている。
店内は程よく賑わっていた。サラリーマンと違って、大学生は月曜だろうが火曜だろうが、飲みたいときに飲む。別に金曜日にはこだわらない。だから、この居酒屋はいつも賑わっている。
「どうだ?ブドウは育ってるのか?」
僕はグレープフルーツサワーを飲みながら、清水に話題を振った。清水はコークハイを飲んでいる。この男は基本、いつもコークハイを飲む。
「そうっすね。そろそろ芽が出てくる頃っすかね。」
ニコニコしながら、清水は“お通し”として出されたタコときゅうりの酢の物に箸を伸ばす。
この男の経歴は、異色だ。
もともとは、U大学教育学部社会科専攻に僕の1年後輩として入学してきた。
ところが、前期試験を終えたところで突然、清水が神妙な顔つきで僕の所へやって来た。
「いや~、祖父が他界してしまって。」
清水が僕に言った第一声は、それだった。唐突に不幸な話しをされたので、今でもよく覚えている。
「それは…ご愁傷様。」
僕の悔やみの言葉に、清水は苦笑いしながらヒラヒラと手を振った。
「いいんすよ。もう90歳でしたから。大往生っす。」
「そうか…。でも、葬式とか大変だっただろう?」
そう尋ねると、清水は渋いお茶でも飲んだように、眉間に皺を寄せた。
「いや~、葬式は別にいいんですけどね。じいちゃんの畑をどうするかっていう問題があって。」
「畑?…野菜育ててたのか?」
「いえ、ブドウっす。」
「ブドウ?」
僕は目を丸くした。僕の知り合いにはブドウを育てている人間などいない。だから、清水の祖父がブドウ畑を持っているということに、正直驚いたのだ。
「おじいさん、ブドウを育ててたのか。」
「はい。農協に出荷して、それで生活してたんすよ、じいさん。」
清水が嬉しそうに笑っている。僕は、農業で生計を立てるということの難しさを、なんとなくイメージでしか知らないが、そんな儲かる仕事ではないと思っている。だから今、この日本では農業の担い手がいないと騒がれているのだろうと、安易に憶測している。
「それで、俺がその跡を継ごうと思って。」
「ふ~ん…へ?」
僕は、清水を二度見してしまった。
「お前、今、なんて?」
「いや、だから、俺、ブドウ農家になります。」
こうして、清水は鮮烈に、そしてあっさりと大学を中退し、ブドウ農家へと転身した。
そんなに長くは続かないだろうという僕の予想に反し、清水は一生懸命にブドウと向き合った。1年間、近所のブドウ農家に弟子入りし、ブドウ栽培のノウハウを頭と体に叩き込み、今年から遂に独立するらしい。
清水の祖父が残したブドウ畑は、U大学からは遠く離れた田舎町にある。広さとしては4反(4,000㎡)あるらしいが、全くピンとこない。東京ドーム10分の1個分くらいの広さらしいが、ますます分からない。まぁおそらく、それなりに広いのだろう。
その4反のうち、とりあえず2反だけを使って、今年はブドウを育てるらしい。
僕と清水の目の前に、注文した山盛りフライドポテトが到着した。
「清水さん、おいしい?」
「いや、まだ食べてないっす。」
「どんくらいおいしい?」
「いや、だから、まだ食べてないっす。」
これは、僕たちの間でのお決まりのパターン。
食べる前に、清水に感想を聞くということが、いつの間にか定着したネタになっている。
「それにしても、ホントに大丈夫なのかぁ?ブドウ、ちゃんと作れんのかぁ?」
僕はフライドポテトにマヨネーズをつけて口に運びながら、清水に聞いた。
うん、美味い。やっぱり、フライドポテトにはマヨネーズがよく似合う。これは、太宰治が言った言葉だったか。いや、あれは月見草だったかな。
「まぁ、大丈夫なんじゃないっすかね。近所のジジイ達でも作れてますから。」
そう言って、清水はフライドポテトを5本くらい取って、それに大量のケチャップをつけて、口いっぱいに頬張った。随分とアメリカンな食べ方だ。それじゃ、ポテトを食べているのか、ケチャップを食べているのか分からんだろうに。
「ジジイって…お前の師匠たちだろうが。」
僕は苦笑しながら、今度は唐揚げを頬張った。
うん、これも美味い。なかなかスパイシーだ。唐揚げも、やっぱりマヨネーズがよく似合う。
僕は、もし自分が清水の立場だったら…というIFを打ち立ててみる。突然、大学を中退し、生計が立てられるかどうかも分からぬブドウ農家に転身出来るだろうか。
答えはNoだ。全く知らない老人たちと混ざってブドウを作るなんて、想像もできない。毎日、不安に押しつぶされそうになるだろう。このまま、自分は真っ当に生きていくことが出来るのか…そんなことを考えてしまうのではないだろうか。
その点、清水はスゴイ。天性の能天気さで、あらゆる困難を乗り越えていっている。“近所のじいさんが作れるんだから、俺に作れないはずはない”という発想は、まさに一ノ谷の合戦の時に“鹿が通れる道を、馬が通れないわけがない”と豪語した源義経に通ずるものがある。ある意味で、清水は“天才肌”なのだ。もちろん、その裏で多くの努力をしているのだろうが…。その努力というものが、表面上からは一切感じられないというのも、清水の魅力ではある。もしかしたら、本当に努力してないだけなのかもしれんが。
「すいませ~ん!焼き鳥盛り合わせくださ~い!」
清水が“コンピューター”を無視して大声で注文をする。おいおい、せっかくの“コンピューター居酒屋”が泣くぞ。
「タレ?塩?」
店員が清水に確認する。受けるんかい、注文…。
「う~ん…両方で。」
さすが、清水。あまりあれこれと考えずに結論を出す。これこそが“天才肌”たる所以だ。
「ところで、先輩。あの例の“美人店員”とは、その後どうなったんすか?」
清水が3杯目のコークハイに口をつけながら、僕に聞いた。
あの某有名洋菓子チェーン店で運命的な出会いを果たした、あの店員さんとの出来事は、電話で清水には既に話してある。しかも、あの日に。あまりにテンションが上がりすぎたため、興奮を抑えきれず清水に電話したのだ。
僕は、揚げ出し豆腐に箸を入れながら、小さく溜め息をついた。
「どうもこうもない。」
「えっ!?先輩、あんなに熱入ってたのに。何も進展ないんすか?」
「余計なお世話だ。」
僕は仏頂面のまま、口に揚げ出し豆腐を放り込んだ。豆腐の中から染み出た熱いお出汁に、僕は思わずむせてしまった。
「しょうがないだろ?あれから、全然会えないんだから。」
「会えないって…。お店にいないんすか?」
清水が眼鏡の奥の目を丸くしている。僕は、大きくため息をついて肩を落とした。
「…いないんだよ。」
運命的な出会いの日からちょうど一週間後に、僕は再びあの某有名洋菓子チェーン店を訪れた。同じ曜日であれば、きっと会えるだろうという安易な発想だった。大きく深呼吸をし、緊張でガチガチになっている心と体をほぐし、お店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。」
そこに立っていたのは、50代のパートのおばちゃんだった。
予想外の展開に、僕は一瞬立ち止まった。
このまま店を出ようかとも思ったのだが、それではあまりにも不自然だし、もしかしたら、例の彼女はまた奥の作業場にでもいるのかもしれないので、渋々ではあったが店の中に入った。
パートのおばちゃんは、無表情で僕を見ている。なんだ、その僕を不審者扱いするような目は。そんなに僕は胡散臭いかい?貴方に見つめられたくはない。僕は、見世物じゃないんだからさ。
それにしても、あの娘が着るとあんなにも光り輝く制服が、おばちゃんが着るとこれほどまでに色褪せて見えるとは…。着る人って大事なんだなと、つくづく思った。
5分くらい粘ってみたのだが、誰も出てきそうにないので、僕は渋々ながら店を出た。会いたかったのだが、仕方がない。あの娘がいない店に、用はない。
それから、また日が沈んだ後にもう一度店を訪れてみたが、結果は同じだった。また同じパートのおばちゃんがいた。何故、お前さんがいる?僕はお前さんに会いたいんじゃなくて、美人のお嬢さんに会いたいんだよ。なんでパートのおばちゃんと今日2回も遭遇しなければならんのだ。
今度は、迷うことなくすぐに店を出た。
そして、考える。
もしかして、前回はたまたまシフトを変えていたのではないか。つまり、運命的な出会いをした日は、彼女のいつものバイト日ではなかったという仮説だ。あのおばちゃんが、ぎっくり腰だか風邪だかになってしまったために、仕方なく優しい彼女が代わりにバイトに入ったのだ。そうか、だからこの曜日に来ても会えないんだ。
そうと決まれば話しは早い。もうこの曜日に、この店に来ることはないし、パートのおばちゃんにも用はない。
では、いつ行けばいいのだろうか。
これも簡単だ。分からないのだから、毎日行けばいい。
「気持ち悪いですね。」
清水が、焼き鳥のレバーを食べながら言う。口の周りに、焼き鳥のタレがべっとりついている。
「もうストーカーの発想じゃないですか。そんな、お目当ての女の子のバイト先に毎日顔を出そうなんて。」
「ストーカーじゃないっ!」
僕は、食べ終わったねぎまの焼き鳥の串を、清水の顔面に“北斗の拳”のケンシロウのように鋭く向けた。
「お前はもう…死んでいる。ぅあたぁっ!」
「あっ、あぶないじゃないですかっ!ちょっと、やめてくださいよ。」
「いいか、清水。ストーカーっていうのは、相手に恐怖や不快感を抱かせたら、そういう呼称で呼ばれるようになるんだ。僕はそもそも、彼女に会えていない。だから彼女に気持ち悪いとか、怖いとかいう感情を抱かせる全然手前にいるんだよ。それに僕は、自分の想いを一方的に強要するつもりもない。相手がイヤだって言ったら、素直に引き下がるさ。な、紳士だろ?」
「 あ~、犯罪者は決まってそう言うんですよ。自分は紳士的行為をしてるんだ、自分は全然悪くないって。」
「僕は犯罪者じゃない!前言撤回しろ、清水!!」
「犯罪者じゃないんだったら、フツーにそのパートのばあさんに、女の子がいるかどうか聞けばいいじゃないですか?」
「聞きたいよ、俺だって。でも、名前を知らないんだからしょうがないじゃないか!」
「…え?名前、知らないんですか?」
「知らんよ。だからこうやって姑息なストーカー行為を繰り返しているんじゃないか。」
「…ストーカー行為って、認めてるじゃないですか。」
「ち、違う!ストーカー行為じゃない。つ、追跡調査だ!これは、その、…言葉のアヤだ、うん。」
清水は呆れたように、肩を竦めてみせる。
「ネームプレート、見なかったんすか?付いてたでしょ?」
「見えなかったんだよっ!誕生日ケーキ用のロウソクが邪魔で!!」
誕生日用のロウソクを全部買い占めてやろうかを思ったことは、この場では伏せた。絶対に清水に変態扱いされるに決まっている。
そんな清水は苦笑いしながら、コークハイを呷った。
「それは凡ミスですね。そうなると、パートのばあさんにその女の子の特徴を逐一話して、そういう子がいないかどうか聞かなきゃいけないわけですけど、それこそ気持ち悪いですもんね。明らかに変態の行動ですよ、それ。」
「そんくらい分かってらぁ。だから、そういう誤解を招くような行動は自重してるんじゃないか。分かるだろ、僕の苦労が?僕が取れる行動の選択肢は、限りなく狭いんだよ。」
「…“自重”ってことは、やろうと一旦は思ったんですね…。選択肢が狭いっていうか、それが常識の範囲ですよ、先輩。」
「え、そう?窮屈な世の中になったもんだな。」
「…え~っと、それで?毎日通ったんですよね、その店に?」
「通ったよ、そりゃあ。こっちは真剣なんだから。」
「それでも会えなかったんですか?」
僕は“シュン”となって肩を下げ、背中を丸めた。
毎日通った。全ての曜日、あの店に顔を出した。彼女が勤務する時間帯が、もしかしたら以前とは違っているという可能性もなくはないが、見た感じは僕と変わらないくらいの年齢だったから、おそらく学生さんのアルバイトだろう。だから、夕方の時間帯であればいるはずだと踏んだのだ。おそらく、その読みはハズれてはいないはずだ。
それなのに、あの娘はいないのだ。
「パートのおばちゃんは3種類くらいいることが分かったんだけどな。」
「…もう、そのパートのおばちゃんと付き合ったらいいんじゃないですか?」
清水の軽口に、僕は獰猛な犬のように清水に牙を剥いた。
「僕にも選ぶ権利がある。」
「ま、そうでしょうけどね。」
清水は鼻から息を抜いて、コークハイを飲み干した。
「…どこに消えたんすかね…。」
清水が、空になったコークハイのジョッキを振って、カラカラと氷の音を響かせた。氷同士の立てる冷たい響きに、ちょっとだけ身震いがした。
「分からん。煙のように消えちまった。まるで、あの時の出会いは夢だったんじゃないかって、錯覚しちゃうくらいだよ…。」
「まぁ、単純に辞めちゃったっていうことじゃないっすか、バイト。きっと、もっといいバイト先が見つかったか、就職先が見つかったかしたんでしょ。」
清水が披露する正統な仮説に、僕は腕を組んで唸った。
おそらく、清水の推理通りなんだろう。それは、僕だって頭では分かっているつもりなのだ。
「でも、諦めきれないんだよなぁ。」
僕は呟いて、塩茹でされた枝豆を口に放り込んだ。甘い枝豆の香りよりも、塩味の方が勝っていて、僕は少し顔を顰めた。
単なる一目惚れじゃないか…、そう他人は言うだろう。でも、僕の中では何だか違うのだ。今までに味わったことがない感覚…。あの人をここで逃してしまうと、取り返しのつかないくらいに後悔するんじゃないかっていう予感が、僕の胸に渦巻き続けている。
まだ何も始まっていない。彼女がどんな人なのか全く分からないけど、僕は彼女のことが忘れられない。自分でも、どう説明していいのか分からないし、何でここまでこだわっているんだろうと不思議なくらいだ。
でも、僕は彼女を初めて見た時のあのときめきを、どうしても忘れられないでいる。
「ま、今は春休み中でヒマだから、出来ることはやろうと思う。」
僕に出来ることは、この春休み期間中ずっとあの店に通い続けることしかない。それでも、何もやらないよりはマシだ。
「変態ですね。」
「うるせぇ。」
清水の皮肉な微笑みをかき消すように、僕は新しく注文したカシスソーダを一気飲みした。
僕がジョッキをテーブルに置いた後も、清水はニタニタと笑い顔を僕に向けていた。
「何だよ。」
僕は、清水を軽く睨みつける。
すると、清水が嬉しそうに言った。
「会えるといいっすね。」
「あん?」
「だから、その運命の彼女に、もう一度会えるといいっすね。」
僕を冷やかすわけではない、清水の真面目な言葉に、僕は少し面食らった。
「何だよ、急に。」
「いや、思うんすよ。これだけ会おうとしても会えない、毎日お店に行ってるのに会えないなんて、もう絶望的じゃないっすか。」
「…お前、ニコニコしながらナイフで刺してくるようなことするんじゃないよ。余計に痛いだろうが。」
僕は胸のあたりを擦った。清水が可笑しそうに笑っている。
「いや、でも、もしこれで、もう一度その彼女に会うことが出来たとしたら…、それこそ、本物の“運命”ですよ。」
「…本物の、“運命”?」
「そうっすよ。神様が2人を会わせるべくして会わせた、本物の“運命の出会い”ですよ。そこは、自信もっていいっすよ、先輩。」
“運命の出会い”か。
自分の中では、今回の彼女との出会いを勝手に“運命”だと位置づけてはいたが…。ここまでの悲惨な空振り続きの果てに、また彼女に出会うことが出来たら、確かに劇的な逆転満塁ホームランだ。清水の言うように、それこそ神様が仲介してくれた“運命の出会い”と表現するのにふさわしい。
「まぁ、会えなかったら“ただの変態”っていうことになりますけどね。」
僕はテーブルについていた肘を滑らせ、コケた。
「お前、小馬鹿にしてるだろ?」
「はい。だって、変態ですもん、先輩の行動。」
清水が、僕のことを指さして笑っている。
「変態言うな!」
僕は横を向いて、大口を開けて唐揚げを頬張った。
“運命の出会い”
その言葉のインパクトなのか、酔いが回ってきたからなのか、急に僕の脳内と頬が“ぽっ”と温かくなった。