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下弦の盃(さかづき)  作者: 朝海
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第十章「迫るタイムリミット」

澪は吐き気を感じて立ち上がった。指の隙間から血が滴り落ちる。吐血するのは初めてだった。

 眩暈もする。

 視界がぼやけていく。

 澪はその場に崩れ落ちた。

 体がいうことをきかない。

 力が入らない。

 呼吸が苦しい。

 再び吐血をする。

 弱っている姿を部下に見せたくない。

 不安にさせたくない。

 トップに立つ者がこのような姿を見せてしまえば、不満が噴出するだろう。不審に思う人間も出てくるはずである。何年もかけて作り上げてきた指揮系統も、機能しなくなるのと同時に信頼を壊してしまうはずである。

 全てが崩壊してしまう。

  それだけは、避けなければならなかった。

「はっきり、言ってくれればいい」

「なら、はっきりと言います。遺伝子に異常が見られます。小さい頃からですか?」

「見て見ぬふりをしていたからな」

「もっと、早く相談していただければ……あなたは必要な方です」

「運命ならば受け入れるしかない」

「組織の者に伝えますか?」

「伝えるつもりはない」

 視界が揺らぐ中、本橋家に勤める医者とのやり取りを思い出す。

 隠して、隠して、隠し続けて。

 視線を逸らし続けて。

 周囲を騙して。

 完璧というものを作り上げて、亡き両親ですら気が付かずにいた。

(そういえば、知っているのが一人いたな)

 両親の執事だった男が。

 瞬は小さいこと交わしたこのことを誰にも言うなという約束を守り本橋家を去っていった。今は引退して福祉界で働いている。

(どちらにしろ、要兄様と決着がつくまで死ねない)

 何とか、耐えしのぐしかない。やり過ごすしかない。澪は血に濡れた自分の手を握りしめた。必死に肺に空気を送り込む。

 掠れた呼吸音がその場に響く。

 肩で呼吸をしているうちに、徐々に落ち着いてくる。近くの壁に手をつきゆっくりと立ち上がる。ようやく、動けるまでに回復した。まずは、血の始末をしなければならない。澪は雑巾で床をふき取り洗い流す。

 血を洗い流すと背筋を伸ばし――何事もなく歩き出した。


「澪様。まだ、起きていらしたのですか?」

 仕事に戻ろうとした時、二人に声をかけられた。

「涼、文」

 涼と文だけは解放したかった。今まで、狭い世界に閉じ込めていた分、幸せになってほしい。普通の生活をしてほしいという気持ちがある。ささやかな暮らしをして、平穏な日常に戻ってほしかった。

 それが、澪の願いでもある。

「顔色が悪いですし、少しお痩せになりましたか?」

 文は主の頬に手をおいた。

(温かい)

 この手を掴めたらどれだけいいだろうか。

 すがれたら、どれだけいいだろうか。

 楽になれるだろうか。

 ずっと、こうしていたい。

 ただ、いく相手が文とはいえ自分の立場がある。甘やかされるつもりはない。

 澪は文の手をソっとどかす。文が寂しそうな表情になる。こんな表情をしているのは、自分なのだと自覚していた。

「そうか? 普段と変わらないと思うが」

「休める時は休んでください。私たちはあなたが倒れないかが心配です」

「文に涼」

「はい」

 澪に呼ばれて二人の声が揃う。

 涼と文が姿勢を崩すことはない。

「解放されたら、どの道に進みたい?」

 その言葉は別れを示唆しているみたいで、不安が広がっていく。今まで、澪に寄り添ってきてこのような不安を感じることはなかった。

「私は子供が好きなので福祉の道に進みたいと思います」

「涼は?」

「私は執事として一からマナーを学び直したいと思います」

「澪様?」

「何でもない。文。須田さんはどうしている?」

「学校にはきちんと通っています。時々、友達と遊んで帰ることもあるみたいです」

「彼女はそれでいい」

 今のところ、あかりが大きな事件に巻き込まれたという報告はなかった。

「お願いですから、無理はしないでください」 

 涼の言葉に澪は手をあげて応えた。


「文。違和感あったよな?」

「うん。澪様は私たちに何かを隠している」

「文はどうする?」

「私は澪様を見守ろうと思う」

 例え、どのような結果になろうとも、行きつく先が地獄でもそう心に決めていた。

「そうだな。澪様を支える。それが、俺たちの仕事だ。お前も変わったな」

「どのように変わったのかしら?」

「強くなった。俺を追いかけ回していた頃とは違う」

「澪様のためだけではなく、自分のために変わらないといけなかったからね」

「今後、別々な場所にいとしても、俺たちは兄妹だ。それだけは、変わらないからな」

「ありがとう」

 二人は窓を開けて星空を見上げた。



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