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――歴一〇二一年。
シュルトコル連邦東部軍本部。ディンデール市街の郊外に位置し、この国でもっとも広大な面積を持つ軍事基地である。その片隅の、地面に半分埋まった長屋のような建物――士官宿舎――で、エイラ・ノースピートの一日は始まる。目覚めてから、たった三十分足らずで支度をし、射撃訓練場へと足を運ぶ。
エイラの目下の目標は、二十日後に控えた陸軍の尉官昇級試験に合格することだ。これに合格すると、中尉への昇格の権利を得ることができる。合格したからと言って即刻、昇級するわけではないが、合格しない限りは、決して昇級することはできない。昇級試験は、実技とペーパーテストに分かれていて、ペーパーテストに関しては恐らく現段階でも及第点は大きく超えている。問題は、実技だった。特にその中でも、≪バレック≫の出来は酷いものだ。バレックは対人魔法では最も基本的なもので、軍人であれば習得は必須とされている。とはいえ、≪バレック≫が苦手なだけならば、さほど問題にはならない。実弾射撃やロープ降下などの他の項目で点を稼げばいい。が、エイラはそちらも軒並み平均以下だった。だが、後者を今さら特訓したところで、伸びしろはたかが知れている。その点、≪バレック≫に関しては、伸びしろしか残されていない状態だった。そこで、出勤前に≪バレック≫の練習をするというのが、近ごろの日課になっている。
訓練場は早朝のため、殆ど人気は無い。分厚いコンクリートに覆われた建物で、中にはボーリングのようなレーンが十本程度走っている。そのレーンの先には、ピンの代わりに人型のターゲットがあって、そこに弾丸なり魔法なりを打ち込む仕組みだ。エイラは、一番奥のお気に入りのレーン(特に理由は無い)に立って、軍帽を脱ぐ。灰色の美しいショートカットがふわりと揺れた。ゆっくりと右手を前に出して構える。
≪バレック≫は決して、難しい魔法ではない。魔法管理局の発行する≪魔法白書≫によれば習得難易度は、『中』とされている。一つ下の難易度の『易』が、「僅かな時間で誰でも習得可能」となっていて、『中』の魔法は、「数か月の修練で殆どのものが習得可能」という指標だ。もちろん、例外はある。人によっては、得手不得手な分野があるからだ。エイラの場合、精密な操作が要求される魔法の類はそれなりに自信があった。ところが、≪バレック≫はその正反対の性質をもつ魔法である。原理はとてもシンプルで、任意の地点に空気を圧縮させ、それを解放することで、風を作り出すというものだ。風と言っても、様々で、熟練者が扱えばまるで弾丸のように相手を貫くような風を作ることも、嵐のようにすべてを吹き飛ばしてしまうこともできる。これは精密などとはかけ離れていて、スポーツのフェンシングを精密とするのであれば、≪バレック≫は砲丸投げの要領である。つまりは、まったくもって精密さなど不要で、魔力がものをいう。しかし、その応用先は幅広く、軍では対人戦闘を基軸として考えられている。民間では救助や医療、建築の現場でも使われるため、使えるものは軍関係者以外も多い。
エイラは右手を真っすぐ前に突き出して、広げた手のひらに、空気を圧縮するイメージを創る。すると、手のひらから白色の光が放たれる。殆どの魔法は、その発動の際に何らかの発光現象を伴う。色を見て、その種類まで判別することも可能だ。その光が、徐々に強くなると、じわりと手のひらに風を感じ始めた。ここまではいつも通り。順調だ。問題はこの後の射出。どうも、これがうまくいかない。案の定、手のひらの上で作り出した圧縮空気は、狙いのターゲットには命中しなかった。空気の塊なので目視はできないが、経験的に恐らくは、ターゲット立っているの床付近に当たったようだ。エイラはため息を零す。これが仮に試験だとしたら十点満点中、一点貰えるかどうかというレベルだ。威力、正確性、発動までの速さ、どれをとっても酷い出来だ。
「まあ、朝から性がでるわね。その割には、まったく上達していないようだけど」
背後で女の声がした。振り返ると、よく見知った女が立っていた。名前は、ヘレナ・プレスコット。一○一九年入隊の同期である。腰まで伸びた金髪の後ろ髪を大袈裟に翻すと、ヘレナは続ける。
「いっそのこと、諦めたらどうかしら?戦争も終わったのだし、その方が建設的と、私は思いますわ。貴女はレイ・サウザーのようにはなれませんのよ」
「ご忠告どうも」
エイラは素っ気なく返して、再びターゲットに視線を向けた。ヘレナとは士官学校時代から、どうもそりが合わない。学年で二人だけの女性だったということもあって比べられたというのもあるだろうが、ことあるごとに絡んできて、それが鬱陶しいとエイラは感じていた。
「まったく、『ニーラ人』というのは、礼儀を知らない方ばかりね」
「そうね」
こういう時は、言い返さないのが重要だ。何か言うと、相手も必ず何かを返してくる。いたちごっこの始まりだ。しかし、こちらが何も言わなくても、一方的に相手から何かを言ってくるという場合もある。ヘレナは、甘ったるい香水のにおいを振りまいて、エイラの真後ろに立った。
「ところで、ジャスミン・フーループという方を、紹介してくれないからしら?貴女、知り合いなのでしょ」
ジャスミンは、子供の頃、エイラに勉強を教えてくれた恩師である。今でも度々、手紙を交わしている。
「別にいいけど……何の用?」
断ることもできたが、それはそれで面倒くさそうだと思った。
「彼女は、妖精の専門家と聞きまして、少しばかりお話をお聞きしたくて」
「妖精というか、治癒魔法の専門家。っていうか、なんでそんなこと知りたいの訳?」
妖精は、≪九つの宝玉≫という御伽噺に登場する妖精は、その力で「万物の苦しみ」を癒すと伝えられている。その伝承を信じて、妖精を捕まえようとする人々は後を絶たない。もちろん、そんな話、本当の筈がないのだが。ジャスミンは、それを調べるために長いこと妖精の研究をしていた。言い方によっては、妖精の研究家と呼べないこともない。
「少し、興味がありまして」
「あっそ」
話すつもりは無さそうだった。
「とにかく、紹介の件早めに頼みましてよ」
「はいはい」
ヘレナは長い髪と、鼻につく麝香の香りを残して、踵を返した。出ていく直前で、ヘレンは思い出しように、
「ああ、それと、最近、ニーラ人を狙った通り魔がでているらしいわ。あなたも気をつけなさいね」
と、言い残して、訓練場を後にした。