19
――三日後。
晴天の昼下がり。ディンデール駅から南へ五ブロックの位置に、≪東部≫で随一の病院がある。外観はシンプルで、直線的な長方形。外壁は、白一色で統一されている。東側に新病棟を建設中で、そこで新薬や最先端医療の研究がおこなわれる予定だ。そのせいで、昼間から工事のけたたましい騒音が、病室の中にも流れ込んできていた。ラジオを聞いていた老人は機嫌が悪いようで、右足の貧乏揺すりが絶えない。ジャレッド・ノースピートは、その貧乏ゆすりの方が、騒音よりも気になった。
「おい爺さん!それやめてくれって、何回も言ってるよな」
「知るか!このガキ」
老人は左足でも貧乏揺すり始めた。ジャレッドの言葉で更に期限を悪くしたのか、文句を言ったことの当てつけか。いずれにしても、たまったものではないと、ジャレッドは思った。
「おい、ジジイ!マジで、ふざけんなよ。後、五秒で辞めねぇと、ぶん殴るからな!」
「ええい!ラジオが聞こえんじゃないか!大声を出すな、このクソガキが」
「こんの、仕立てに出てれば、調子づきやがって!」
これが初めての事であれば、ジャレッドはこれほど怒りはしない。だが、この老人と同じ病室になった二週間前から、同じようなやり取りを数えきれないほどしていた。つまるところ、彼は爆発寸前だった。
ジャレッドは、ベッドから立ち上がると、大股で老人のベッドまで歩いき、老人の聞いているラジオに手を伸ばした。そのラジオのつまみを、思いっきり捻る。
老人はヘッドホンでラジオを聞いていたために、突然、耳元で発せられた爆音に驚き、飛び上がった。
「うわあぁっ!」
それを見て、ジャレッドは嘲笑った。
「これでよく、聞こえるだろ!」
そこで、背後から怒号が飛んだ。
「こら!ジャレッド!何してるの!」
老人と同じようにジャレッドも飛び上がった。振り返ると、姉――エイラ・ノースピート――の姿があった。
「げっ!ね、姉ちゃん。これは、その、違うんだ。悪いのは俺じゃない……」
ジャレッドはたどたどしく弁明するが、当然、エイラは耳を貸さない。
「また、悪さして。謝りなさい!今すぐ!」
「でもよ、姉ちゃん。俺は悪く――」
「言い訳はしない!」
「ご、ごめん」
ジャレッドは不本意ながら、頭を下げる。
「私にじゃなくて、ちゃんとお爺さんの方を向いて、頭を下げるの!」
ジャレッドは、老人の方に向き直って、
「すみませんでした」
と、小さな声で言った。ジャレッドに続いて、エイラも頭を下げた。
「ほんとに、すみません。よく言って聞かせますから」
「エイラちゃんが、そういうなら、まあ、許してやろうかのう」
老人は急に機嫌がよくなっ多様で、声が少し上ずっていた。
「チッ、エロ爺」ジャレッドは、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「今、なんか言った?」
エイラの剣呑な視線がこめかみに刺さる。
「なにも言ってねぇよ」
「そ。――お爺さん。本当にごめんなさい」
「いいって、いいって。気になさらんでくれ」
老人は、すっかり笑顔になっていた。ジャレッドは、自分のベッドに戻ると、仰向けに倒れる。
「てか、姉ちゃん。仕事は?」
エイラは、頻繁にジャレッドの見舞いに足を運んでいるが、平日の昼間に訪れるのは初めてだった。それに、普段と違い軍服を着ている。
「仕事の途中よ。ちょっと、よっただけ。言っておきたいことがあって」
「何?」
「ジャスミンから連絡があって、新しい薬が出来そうだって」
「ふ~ん。そっか」
ジャレッドは天井の染みを見つめる。
「もっと喜んだら?」
「だってさ、これで四回目だぜ?どうせ、効きっこない」
エイラは、足元に目を遣った。可能性が高くないことは、エイラも分かっている。
「……でも、試してみないと」
「ま、飲むだけ飲むよ」
その言葉の後、病室は静寂に支配された。工事の騒音だけが、鼓膜に届く。気まずいな、とジャレッドが思った時。
トントン。
誰かが、病室の扉をノックした。自然とそこへ視線が吸い込まれる。白衣を着ていないので、医者ではないようだ。ジャレッドは目を細める。真っ先に反応したのは、エイラだった。エイラは、立ち上がると敬礼した。
「ターナー中佐?どうしてここへ?」
男は、エイラに向かって手招きをした。
「少しいいかな?」
「もちろんです」
エイラは病室を出た。
「いきなり押しかけて済まない」
廊下のベンチに座ると、ジャレッドは切り出した。
「いえ、構いませんが。ご用件は?」
「いや、大したことではないんだがね。――彼とは、上手くやれているかい?」
「分かりません。……ですが、初めの頃よりは、いいと思います」
「任務の方は?随分と彼に振り回されているようだが」
「ええ。でも、いい経験にもなりました」
「そうか。それは良かった。実をいうとね、君に護衛を頼む前に、何人かをジルクニフの護衛を付けていたんだ。だけどね、三日も持たないうちに、皆、配置換えや交代を願い出たよ。理由はわかるだろう?」
「ええ、まあ、はい」
エイラは愛想笑いで返した。
「だから、正直驚いている。すぐに私に抗議へ来ると思っていたんだ。君を買い被っていたようだ」
「そんな、大したことはありません」
「いやいや、これは大したことだよ」そう言って、ターナーは懐から、便箋を一枚取り出した。「開けて中を確認してみてくれ」
エイラは便箋を受け取り、まじまじと、眺めた。紙とは思えない程、滑らかな肌触り。封には、赤い蝋が使われていて、高級感に溢れている。エイラは恐る恐る、蝋を剥がした。中身は更に上質そうな、厚めの用紙が一枚。一番上には、流麗な文字で「招待状」と書かれている。
「あの?ターナー中佐、これは?」
「六日後に開かれる舞踏会の招待状だよ。ぜひ、君とジルクニフにも参加してもらいたい」
話には聞いたことがある。≪東部≫の象徴【ディンデール城】では度々、そういった催し物があり、絢爛豪華な食事や、美しい音楽が振舞われると聞く。エイラのような庶民にとっては、本来、無縁なものだ。
「とても嬉しいのですが、舞踏会といえば、ドレスが必要ですよね?持っていないのですが……」
仕立てなども含めると時間が足りないし、借りるとしても、相当な額になってしまう。
「心配いらない。こちらで用意するよ。それより、君が心配すべきは別にある」
庶民だから、?それともニーラ人の血を引いているからか?いや、ニーラ人だから気を付けねばならないということなら、鼻から呼ばれないはずだ。とすれば、考えつくのは一つ。エイラは、恐る恐る尋ねる。
「礼儀作法でしょうか?」
ターナーは腹を抱えて笑った。
「はっはっ。違うとも。安心するといい。多少のマナー違反など誰も気にも留めないさ。私が言いたかったのは、ジルクニフの事だよ。彼は意地でも、舞踏会には出ないというだろう。その説得を君に任せたい。現に、ついさっき断られたばかりだ」
確かに、そういった場は好きじゃなさそうだなと、エイラは思った。
「分かりました。できる限り、説得してみます」
「頼んだよ。別に説得できなかったからと言って、なにかあるという訳ではないからね。気負わなくても大丈夫だ」
「でしたら、どうしてジルを参加させたいのですか?」
ターナーは指を組んで、唇を軽く舐めた。
「うむ。それは難しい質問だよ。なんというべきか……しいて言うなら個人的なエゴだろうね」
「エゴ……ですか?」
「君は、ジルクニフが笑った所を見たことがあるかね?」
エイラは、ここ数日の記憶を漁った。初めて会った時、石切場でのこと、森での事。
「……見たことがないかもしれません」
「そうだろう。彼とは付き合いとしては長い方だが、私もここ数年、私も彼が笑っているところを見たことがないのだよ。だから、久ぶりに見てみたくてね」
そう語るターナーの瞳はどこか、遠くを見ているような気がした。エイラとしては、むしろ笑っているジルクニフの顔が想像できなかった。
「でも、どうしてジルは舞踏会に出たがらないんでしょうか?」
「その理由を探るのも君の仕事だ。頼んだよ。いい報告を期待している」
「善処します」